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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第四章 ただならぬ思いにふれたとき④

 翌日から、ウルスラは「敵国の情報聴取」としてフレデリクの牢に訪れるようになった。


 (たず)ねられたのは自分の身の上だ。家族のこと、医師になるまでの経緯、他愛のない話もいくつか。

 ただ、そこではフレデリクからウルスラのことを問うことはなかった。禁じられたわけでも、ウルスラが答えなかったわけでもない。ただ、フレデリクから訊ねなかったのだ。


 彼女が孤児で、今も孤独な立場にあることは充分に察せられた。辛い身の上話にしか繋がらないのだとしたら、興味本位にでも聞くべきではないだろう。

 代わりに自身のことを訊ねられ、これまでを回顧する時間があった。


「──どうして宮廷医師を辞めて軍医になったのだ?」

「軍人になった弟が、この戦争で亡くなったんです」


 弟のエクトルのことを、フレデリクは久しぶりに記憶に呼び起こし、口にしていた。

 生きていたころの姿を思い出すと心は痛みを覚える。しかし同時に優しい弟の記憶は、荒んで乾いた心を今も温めるものだった。


 思い出したおかげで、そんなことにも気付く。


 ウルスラはいつも静かにフレデリクの話に聴き入っていた。彼が大切そうに語るものを、自分も大切なものとして取り扱おうとするように。

 終わらない戦争をふと嘆くと、ウルスラは目を伏せた。


「早く、どちらが勝ってもいいから終わりにしたい。戦争で人が死ぬのは……もう充分なはずだ」


 ──その言葉は、フレデリクにある記憶をよみがえらせた。



『もう、どっちが勝ってもいいから終わってほしいよ。こんな戦争』



 十五年前。

 さらに悪化し長引く戦争を予期しながら、そう口にしていた弟のことを。


 弟と目の前のウルスラとを重ねたことなんてなかった。

 だけど十五年も経って、同じような言葉を耳にするなんて──

 時を経て、別々になった国で、こうして鉄格子を隔てた空間で。

 この気持ちを自分と共有できる人が居てくれるのかと、思いがけず心を打たれた。


 それは弟に向けていた親愛とは別の感情だった。

 どう言葉にするべきか考えても見つからなかった。自分らしくもない、淡く浮いた感情をそのままに──フレデリクはただ深い同意を示すようにウルスラへと微笑みかけた。

 ウルスラは、フレデリクを静かに見つめながら口を開いた。


「……あなたがいてくれてよかった──」


 ほっと(こぼ)れ落ちた声が、フレデリクのなかで静かに響き渡って()みていく。

 救いを見出したようなウルスラの言葉は、フレデリク自身のものでもあった。捕虜として生かされただけではなく、この言葉をくれた彼女に今自分が抱いているのは感謝か、敬意か、それとも別の──


 安らかな、それでいて静かな(たかぶ)りにも通じる感情だった。

 挨拶の握手で、自分の感情が少しでもウルスラに伝わればいいと思いながら、その手に触れる。


 ──瞬間。

 悪寒にも似た冷たいものが(ほとばし)る。


 いや、冷たいのは握ったウルスラの手だった。冷水にでも浸したかのような冷たさ。血流が健全に巡っていないと、思わず手を伸ばして指先で彼女の脈拍を確かめる。

 いやな拍動だった。

 不穏な抑圧に耐えるかのような、忙しない音。


「ひどく緊張していませんか」


 明日の抜糸を前に強張っているのだろうかと訊ねると、ウルスラはぴくりと反応した。


 ──違う、とフレデリクは確信する。

 抜糸や治療に関わることとは別の何かにウルスラは怯えている……?


 ウルスラはすぐに目を逸らしてしまった。


「──、なにも」


 小さく答えて足早に去ってしまう。

 彼女を苛む不穏の存在に、フレデリクの心は乱れた。






 フレデリクは翌日も野戦病院に運び込まれてくる負傷兵の治療に専念していた。

 頭の片隅には、冷たい手のまま立ち去ったウルスラの姿がちらついている。今晩抜糸をしたとしても、彼女の身体を終始巡っていた不穏を解消する手立てはないのか──


 どん、と強く背中を小突かれて我に返る。


 振り返ると、そこには大勢の部下を引き連れた軍服の男が立っていた。胸元には徽章と勲章が鱗のように並んでおり、彼がこの本陣における騎士軍の最上位の存在・総統であることを表明していた。


「──ずいぶんと使える軍医のようだな」


 デュミナス第三区騎士軍のゴドウィン総統はフレデリクを睥睨(へいげい)する。

 宮廷医師のころを思い出しながら、フレデリクは粛然と応じた。落ち着きある態度に気を良くしたゴドウィンは、饒舌に明日からの作戦のことを喋り出す。


「ひと月前はあの小娘のしくじりで必要な兵士の派遣が叶わず、領土拡大作戦の遅延を招いたものでな──」


 あの小娘──というのが騎士団長のウルスラであることは察せられた。

 ぞんざいな声音に侮辱(ぶじょく)すら感じるのはフレデリクの先入観のせいではなかった。


「──今回こそ役に立ってもらわねば──」


 ウルスラを先陣指揮に就けるのだとゴドウィンは言う。極めつけには、先陣の犠牲が前提となっている自身の作戦を高らかに語り、それを称えるかのような追従を部下に促していた。


 ──フレデリクのなかで、冷静に推論が組み立てられていく。


 ドルムトレク軍と兵士補充の仕組みが同じなのだとしたら。

 ゴドウィンの言うウルスラの「しくじり」がそれに関わるものならば。

 ひと月前。ウルスラが死にかけた傷を負った理由は明確になる。


 ──この男が、ウルスラを斬ったのか。そして明日、愚かな作戦で彼女を「今回こそ」亡き者にしようとしている。


 今までに覚えのない衝動が、身の(うち)を渦巻いた。それが(はげ)しく燃えているのか凄まじく凍てついているのか定かではない。

 ただ、思考と行動は静かに冴え渡っている。


 フレデリクは丁寧な挙動でゴドウィンに頭を垂れていた。


「どうかご武運を」


 従順な態度にゴドウィンはますます気をよくしていた。

 登用してやってもよい、などと世迷言を口走ったついでに「当日は戦場に立つ」と喋る。

 瞬間、床に向けていたフレデリクの目が(くら)く光ったことに、誰も気付かない。


「──恐れながら、総統閣下」


 平静な表情で、フレデリクは総統の腕にある傷の治療を申し出た。


 ──フレデリクはゴドウィンを殺すことにした。


 明日、現状で開戦と同時に効果を発揮するように、遅行性の錯乱系向精神薬を混ぜた軟膏(なんこう)を傷口に塗布していく。総統の部下も見ているなかで堂々と精神薬を取り出し、調合し、平然と治療行為を施した。

 傷口の程度から体内へ、神経系への影響に及ぶ時間を綿密に計算しながら──

 開戦の瞬間、総統が錯乱することを知るのはフレデリクだけだった。そこから戦場で繰り広げられるであろう光景も含めて、予知よりも明確な未来の事実として。


「作戦の成功をお祈りしております」


 深々と頭を下げて総統を見送る、無力な捕虜の軍医に凝っていた殺意を。

 何のためらいもなく、一瞬にして総統の死すべき道筋を築き上げた行いを。

 最後まで誰一人、気付くことはなかった。

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