第四章 ただならぬ思いにふれたとき①
フレデリクが医師となり宮廷に就くことが決まると、弟のエクトルは士官学校への進学を決めて軍人になると宣言した。
「肩の荷が下りたよ」
寮生活のための準備をしながら、エクトルはへらっと笑って見せた。
「ベイリー家の者は学者系の知的な職業に就くべしって言われてきたけど、兄貴がお医者さんに──しかも宮廷に務めるなんて文句なしの就職してくれたからさ。おかげで僕は頭脳労働職から離れて、好きにできる」
「…………」
弟の部屋で、フレデリクは荷造りするその姿に思わず問うていた
「本当に、エクトルの好きにできているのか?」
エクトルが荷造りから除外した本棚や、床で山積みになっている紙の資料や地図、歴史書を見回しながら。
弟は地歴学が好きだった。独学で論文を仕上げて大学博士の目に留まったこともある。学者としての有望な素質を早くも認められていた。
ベイリー家は代々学業を重んじ医学や教育などの専門職に就く家系だった。とはいえ貴族のような爵位や家柄の固執とは無縁で、進路は個人で自由に選べる。だから弟も大学で地歴学の道を進むと思っていた。士官学校に行って、軍人になるなんて──あまりに唐突な進路変更だ。
「もちろん」
エクトルは笑顔で頷く。
「好きにやりたいから、かなり打算をして軍人になることにしたんだ」
「打算?」
「デュミナス王国との戦争はもう避けられないでしょ。僕が暢気に大学進学した矢先に徴兵されることは目に見えている。だから士官学校を出て指揮官クラスになっておいた方がいいかなって」
戦争、という言葉にフレデリクは閉口する。
ドルムトレク家とデュミナス家──二つの王家がそれぞれ「我こそは正統」と王国宣言をしたばかりだった。相手国を否定する非難声明はもはや剣呑という言葉では済まされない。開戦が目前であることは間違いなかった。
エクトルは己の計算高さを誇示するように、丸眼鏡をちょいと目元で掲げておどけた。
「派遣された戦地の土地の調査もできそうじゃない? 指揮官だったら作戦のためだ、とか言って地質調査も堂々と出来たりしてね」
「そんな能天気な──」
「僕は割と前向きなんだ」
心配そうな顔をするフレデリクに、エクトルは屈託ない笑顔を崩さない。
「国のことはどうにもできないけど、僕のやりたいことはできる。ちゃんと考えて決めたんだ」
「……エクトルが、そう言うのなら」
フレデリクには、そうとしか言えなかった。
──本当は、問い質したかった。
弟が進路を士官学校に決めたのは、確かに戦争を踏まえてのことなのだろう。変わり得る環境で自分の出来ることをするために。
それと同時に、医師になった自分の存在も過ったのではないだろうか。
戦争になれば、軍人に次いで徴兵されるのは戦場で使える専門職業者だ。軍医はまず筆頭に上がる。特に医師という職は貴族が大半を占めており、医師が必要という状況になれば徴兵されるのはまず平民階級だ。
開戦すれば、フレデリクはすぐに徴兵される。
だが、同じ家に士官職の者がいれば話は変わる。すでに国への貢献が成されていると判断され、軍医として徴兵される順番も遠ざかるのだ。
エクトルが士官学校に行く、と聞いた瞬間フレデリクはすぐにその考えを過らせていた。
弟は、自分のために──
荷造りを終えたエクトルが、ふっと立ち上がりフレデリクの肩を軽く叩いた。
「兄貴、宮廷では天下取ってくれよ? 王族の信頼を勝ち取って、陰で王様を操るくらいに。昔どこかに国にそういう怪僧がいたって聞いた事がある。そしたら兄貴が国王みたいなもんだ」
にんまりと悪そうに仕上がった弟の笑顔と突飛な提案に、フレデリクは噴き出してしまった。
「宮廷医師にそんなことできるか」
「そこは兄貴の機転でなんとか。頭いいんだからさ」
適当そうに言って、エクトルは部屋を出た。
複雑な気持ちのまま、フレデリクはしばらく弟の部屋に佇んでいた。
軍人になるためにまとめられた荷物。そこに、弟が今日まで心血を注いできた地歴学のものは含まれない。
山積みの本とともに、置き去りにされたような気持ちになった。
フレデリクが宮廷医師となったその年に、デュミナス王国との戦争が始まった。
王族や貴族に呼び立てられては診療や医療に携わる──宮廷は戦争と遠く、着飾った大人たちが国境間での戦争の状況を時折世間話に挙げる程度だった。
否正統たる敵王国との戦争以上に、貴族たちは権力闘争に明け暮れていた。
王室に取り入り、他家を貶め、隙あれば他者を引き摺り落とす──そんなゲームに熱中しているように見えた。
貴族でもないフレデリクは、診察のやりとりや世間話から闘争の構図を早々に把握した。上品な言葉を交わし、舞踏会で優雅に踊り、隙あらば相手を蹴落とそうと画策する者たちを冷めた目で俯瞰しながら平等の態度に徹した。
するとなぜか貴族たちから妙な信頼を得るようになっていた。
臨床心理士でもないのに、権力者たちは本音を吐露し、思惑すら口にする。
貴族ではないので闘争のしがらみとは無縁。それでいて品格と礼節を徹底している若い医師に、不安な精神を預けたがる者は少なくなかった。
貴族の権力闘争──表層のみならず内情にすら明るくなったフレデリクは、ひとり仮説を組み立てるようになっていた。
この男の不安を煽ったら──あの家にいる反体制思想の長男をけしかければ──正室と侯爵が逢瀬を重ねている痕跡を側室に気付かせれば──長年公爵に連れ添って来た側近がついに主を裏切った事実を伝えれば──
この王室の貴族はみな、たちどころに崩壊する。
他愛のない妄想だ。フレデリクがその気になれば実現できるということを除いて。
今の王室と貴族にとって幸いだったのは、フレデリクに王室の人間への関心が皆無に等しいということだ。
──どうなろうと興味がない。ゆえに無為に徹した。
存在感がないはずの平民出身の宮廷医師。その男が貴族の命運の手綱を握っていることは誰にも知られぬままだった。
開戦から五年経ち、中尉になったエクトルが故郷に一時帰還した。
手紙のやりとりで安否は確認できていたが、こうして直に会うことの安堵は格別だった。
「──無事でよかった」
「大げさだなあ、兄貴は」
抱擁を交わし、エクトルはくすぐったそうに笑う。
日焼けしてがっしりした体躯はすっかり別人のようだった。士官学校に入る前からかけている丸眼鏡だけが変わらず愛嬌ある笑顔に添えられている。
「指揮官なのに、眼鏡が許されているなんて珍しい」
「視力は問題ないから。これは伊達眼鏡なんだよ。遠くからでも、泥まみれでも僕だって目印になるから、周りの兵にも便利って言われてるんだ。あと、砂避けにもなるし、賢そうに見えるし──」
くいっと眼鏡を動かして見せる。
軍服がすっかり様になっているのに、何気ない振る舞いはあのころのままでフレデリクはほっと笑っていた。
「元気そうでよかった」
「そういう兄貴は雰囲気が上品になったね。どう先生、ドルムトレクの王家は牛耳れた?」
「宮廷医師にそんなことできるか」
──久しぶりの再会でまず話したことは、お互いの環境についてだった。
茶番じみた貴族闘争をフレデリクがこぼす一方、いくつかの戦場に出たエクトルの話は生々しく切迫していた。
──戦争は、もっと長引く。状況は悪化する。
弟の予感を、フレデリクもはっきりと共感できるほどに。
「──故郷に帰れないって落ち込んでる兵士を見るのが、一番つらい」
エクトルは力の抜けた溜息とともにぽつりと言った。
「もう、どっちが勝ってもいいから終わってほしいよ。こんな戦争」
「……うん」
フレデリクは、頷く。
頷くことしかできない無力感を噛みしめながら。
ドルムトレクの王室は、貴族たちはこの戦争を本当に正しく把握しているのだろうか?
貴族のお家騒動に過ぎないこの戦争が、貴族ではない者たちの血にまみれてしまっている状況を。
もはや勝っても負けてもいいと兵士たちに思わせる、薄弱なイデオロギーしかない現実を。
「──でも、行かないと」
沈んだ空気を吹き払うように、エクトルは言った。
「帰郷直前で増援要請があったんだ。聞かなかったフリして今日は戻ったけど──さすがに明日は本部に戻らないとね」
「人使いが荒いな──催促されてからでもいいんじゃないか」
「そういうわけにはいかない。僕、けっこう部下にも慕われてるんだよ。頼りになるって」
「自分で言うのか」
お互いに軽口で深刻になりそうな空気を和らげ合っていることに気付き、フレデリクとエクトルは同時
に笑った。
宮廷医師と軍人になる前と変わらないものを確かめ合うように。
「あ、そうだ。出発前に自分の部屋久しぶりに見たいんだよね。僕の本って、まだ残ってる?」
「そのままにしてるよ」
「よかった。ついでに机の論文を仕上げてくれてもいいんだけど」
「自分で仕上げなさい」
「はーい、先生」
その日の夜更けまで、エクトルは自室の地歴学の本を読み漁っていた。
開きかけた部屋の扉から見えた、灯りに浮かんだ背中が忘れられない。
翌日、挨拶して言葉も交わして抱擁もして、無事を祈ったのに──
最後の姿として鮮明に記憶に残るのは、その夜見た弟の背中だった。




