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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第三章 あやめも知らず、思いになずむ⑥

 ──ウルスラは、ゆっくりとまばたきして、ようやく焦点を取り戻す。


「ここは、今……どこに……」


 茫然(ぼうぜん)と、口走る。

 知っている場所だった。暗く湿った廊下に、乏しい光。細く長い石畳の廊下──デュミナス騎士軍本陣の、監獄。


「──どうして、」


 どうしてわたしはここにいるのだろう?


 眠れないのなら、次の戦場のことを考えなければと、本陣の作戦室へ向かったつもりだった。

 いや、それは数日前のことで、ちがう、その後も眠れなくて毎晩作戦室で算定作業をして夜を明かしてきたから今日もそのつもりで、わたしは──


「ウルスラ」


 柔らかい声に、ウルスラは我に返った。

 鉄格子の向こうに、フレデリクが佇んでいた。

 その目はいつになく深刻そうで、じっと自分の姿を見つめている。


「あ…………」


 ウルスラはフレデリクを見たまま、(うめ)き声を(こぼ)していた。


 ──もう会わないと決めたのに。

 医師としての彼を守るためにも。


 なのにどうして、覚束ない意識で、わたしはここに来てしまったのだろうか。

 自分自身の意識の危うさに、ウルスラは身体を強張らせた。


 これ以上は、だめだ。

 自分に言い聞かせるように、ウルスラは背中を廊下の壁にどんと乱暴に押し付けた。


「起こしてしまって、すまない」


 ──これは、何でもない。問題はない。あなたに用があったわけでもない。だからこれは、なかったことに。


 そう言ったつもりだった。

 だが自分の耳は、その声を拾っていない。

 呼吸だけが空しく喉を乾かせる。はやく言い訳をして、この場を立ち去らないと──


「ウルスラ」


 鉄格子に身をよせたフレデリクが、再び名前を呼ぶ。

 どうみても異様なはずの自分の姿を前に。

 フレデリクは静かに、その手を前に差し出した。


「ウルスラ。こちらへ。どうか──」


 囚われの存在から伸ばされた腕。自分を求めるように向けられた手。指先が、触れることを願うように空を()く。

 切実な手を前に、ウルスラはぎこちなく首を横に振った。


「…………ちがう、だめだ……」

「ウルスラ。お願いです」

「だめ」

「ウルスラ、どうか──」

「……っ」


 優しく耳朶(じだ)に届いた声を振り払うように、ウルスラは乱暴に首を振る。


「もう会う必要はない」

「私はずっとお会いしたかった」


 強く突き放そうとする言葉に、フレデリクは深い喜びをこめた声でそう言った。


「…………っ」


 喉の奥からこみ上がる熱い息を押さえながら、ウルスラは顔を歪めた。

 壁にもたれていた身体から力が失われていく。ずるずると、その場に崩れ落ちそうになって、膝に力を入れようとして、脚がもつれて、前に倒れる。

 その手は前に差し伸べられていたフレデリクの手を取っていた。

 フレデリクは掴んだウルスラの腕を引き寄せると、鉄格子の(へだ)たりに構わずウルスラを強く抱きしめた。






 浅い呼吸が続く。吸うたびに肩が小さく引き()る頼りない身体を、フレデリクが鉄格子から伸ばせる限りの腕で支えてくれた。


「……っ、は…………っ、……っ」


 嗚咽(おえつ)のような息が漏れる。空気は肺を循環しているようには思えない。酸素が薄れて、気が遠くなりそうだ。


 おぼろな意識を支えるのは、首筋に添えられたフレデリクの指の感触だった。

 汗で髪が貼りついた首を撫でられる。浅い呼吸を助けるように、優しい手つきで。


 自分のものではない体温に、身体が緩む。その安堵が体内の呼吸の循環を正常に戻したかのようだった。

 肩の上下も落ち着いていく。息ができるようになった後も、フレデリクは優しく撫で続けた。

 両手で鉄格子を握って(すが)るように身を寄せるウルスラを、フレデリクは腕だけで包み込む。

 鉄の硬い隔たり越しに、二人は触れ合える箇所で互いの熱を感じ取っていた。


「──あなたの容態が心配です」


 ウルスラの乱れた髪を指で撫で梳きながら、フレデリクは言った。


「とても戦場に立てる状態ではないはずです」

「……戦場に行けば、変わる」


 フレデリクの胸元に顔を寄せたまま、ウルスラは掠れた声を零す。


「そうは思えません」

「変わらなければ。でなければ、死ぬだけだから。わたしは──行かないと」


 いつまでも恐怖に苛まれているわけにはいかない。

 あの戦場に適応する必要がある。突然変貌を(きた)した、狂気が剥き出しの血腥(ちなまぐさ)い世界に。

 それが出来なければ、死んでいくだけだ。


「戦場で解決できる問題ではないはずです」


 フレデリクの理知的な口調に苦し気なものが混じる。

 髪と首筋を撫でていた手とは別で、身体に回されていた手がゆっくりと背中を撫でていた。


「精神的な消耗が深刻なのではありませんか。味方であるはずの者から冷遇(れいぐう)されていると」

「あなたにまで知られていたのか……」


 ふ、とウルスラは力なく笑った。


「手柄や武勲はちっとも話にされないのに──情けないことばかり広まってしまって」

「愚かな兵士たちです。あなたの陣頭指揮で戦勝し帰還を果たした者も多いはずなのに──」


 声音に熱を滲ませながら、フレデリクは呟いた。


「今に報いを受けますよ」

「……どうでも、いいことだ」


 一方でウルスラの声は感情的な抑揚から離れてしまっている。


「それに今は、どこの騎士団も兵士たちも、武勲の獲得に異様な熱気を上げている。わたしの背後で刃を振り回すことなんて、とっくに興味も失せているみたいだ」

「左様でしたか」

「前のめりに突撃ばかりして……まだ反撃の恐れもあるのに……そのせいで、大勢死んで──」

「それはあなたが心を痛める必要のないことです」

「……だけど、わたしの落ち度だ。騎士として、戦場にいる者として、ふさわしくない──」


 命令を無視した突撃は一方的な殺戮を加速させると同時に、武勲欲しさに一番槍になろうとした兵士の犠牲を招いた。それでも一部の兵士が口火を切って駆け出すと、手柄を奪われてなるものかと他も追随する。

 二日間の高地攻防戦では、自軍による殺戮が行われていた一方で、味方の死者もまた甚大な数だったのだ。とても武勲とは呼べない結果なのに、結局(とが)められもしなかった。


 なにより恐ろしかったのは、大勢殺し、多くの犠牲を直視したはずの生き残り兵士たちが血を浴びながら絶えず昂揚し、笑い続けていたことだ。


 戦場で労うべき者たちを恐ろしいと思うなんて──やはりわたしが間違っているのだろうか。

 無力感を覚えて目を伏せると、耳元をフレデリクの溜息が(かす)めた。


「報いどころか戦場であなたの憂慮になっていたなんて──」

「……?」


 彼が何を嘆いているのか見えず顔を上げると、フレデリクが頬に手を添えてウルスラの目を覗き込んだ。


「あなたは、あまりに優しすぎます」

「……弱いだけだ」

「いいえ。まるで奇跡のようです」


 強く断言するフレデリクの瞳は、暗がりでもわかるほどに強い光を奥に(こご)らせていた。


「優しいから狂気に()てられてしまっている。異常である戦場で、息をして立っていられるのはあなたが強いからです──ですが、ずっと居続ける必要はない。あなたが生きていることよりも価値のある戦場なんてありはしないのですから」

「……」


 彼からの言葉に、ウルスラの目は熱いもので(にじ)んでいく。


「…………あなたは最初から、ずっと、わたしが望んだこともなかった言葉をくれるのだな」


 生きるため騎士になり、生き延びるために戦場で戦い続けた。

 自分はただそれだけの存在だった。


 そんな自分を、フレデリクは。

 大切だと、失いたくないと、涙して、抱きしめてくれた。

 医師の立場を利用し人を殺すことすらも実現した。


 ──そのことをすべて含めて──


 今も、目の前でわたしを優しく見つめてくれている。


 ──わたしは──


 (こら)え切れない涙が目から零れ落ちた。雫は頬に添えられていたフレデリクの手を濡らす。


「フレデリク、わたしは、あなたのことを好きになって、今も好きなんだ」

「……」

「あなたがわたしのために、総統を……人殺しまでしたことが、その選択が、本当は嬉しかった」


 こんなにも深く自分を思ってくれる人を、その選択を、ウルスラは受け止めた。だから自分のための罪を共有し、フレデリクを守ろうと誓ったのだ。


 だけど──


 本当は、彼のしたことに喜びを見せるべきではない。

 命を助けられた恩知らずと思われようと、感謝も伝えてはいけない。


 なぜなら彼は医師だからだ。

 命を尊び、安寧の地位を捨ててまで戦場の人々の命を救おうとしてきた医師としての高潔な魂を──わたしのための殺人によって(けが)してしまった。

 だからこれ以上関わってはいけないと、その後の作戦での貢献を経て、考えを改めた。

 大切なのは、医師であるフレデリクを守ることだから。


「だけど、だから、これ以上は──」

「……よかった」


 フレデリクは、熱くなった息とともにそう呟いた。

 涙がこぼれているウルスラの目元を指先でそっと拭いながら。


「私は、あなたが私のことを恐れて、忌避しているのではないかと。だからもう会わないと言われてしまったのかと思っていました」


 あなたのために総統を殺した。そのことに後悔はない──

 その一方で、人を殺した自分をあなたが内心恐れているのではないかと──


 フレデリクの吐露に、ウルスラは思わず首を振った。


「そんなことはない。わたしはただ、医師であるあなたを、これ以上戦場での殺しには関わらせるべきじゃないと、思って──」

「ウルスラ」


 フレデリクの声が、ウルスラを優しく遮った。言葉にしようとしていた思いをもう充分知ることができたと表すように。


「あなたのことを、愛しています」


 それ以外の言葉は必要ないと伝えるように。

 ウルスラの唇へとフレデリクは唇を重ねた。


 ──熱くて、優しくて、柔らかい。

 ウルスラは目を閉じて、鉄格子の隔たりから触れ合える限りの感触と時間に浸る。


 まるでこの瞬間のために生きてきたみたいだった。


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