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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第三章 あやめも知らず、思いになずむ⑤

 高地での防衛で。

 その日ウルスラは今まで見たことのないものを目にした。


「射撃部隊、構え! 次の合図で右翼部隊は榴弾を! ──補給部隊、弾薬を!」


 じわじわと下手から迫って来るドルムトレク軍の侵攻を前に、かまくら型の小要塞からウルスラは間断なく支持を飛ばす。

 敵側の塹壕目がけて弾丸が掃射され、放物線を描いた手榴弾は濁った煙を割って敵陣へと投げ込まれていく。


 銃声と、爆音。武器が空気を切り裂くヒュルヒュルと乾いた音と、絶叫。

 それらの音を押し退けるように、ウルスラは声を張り上げた。


()ぇっ!」


 左右に展開していた長銃部隊の一斉射撃。

 すでに塹壕狙いの掃射を経て、だめ押しの銃撃になる。


 ──支給されているライフル銃の有効射程まで敵陣を引き付けて、好機を違わず攻撃する。ウルスラは冷静に徹し、算定通りに戦術を展開していた。

 驚異すべきは迫る敵陣の恐怖に焦れることなく、狙い違わず攻撃を実現させることだった。

 爆撃と銃声に(まみ)れながらも、兵士たちはウルスラの指揮を(たの)みに動いていた。開戦前まで彼女に嗤笑を送っていた兵士ですら、今やウルスラを仰ぎ見て指示を求めている。

 それほどに、彼女の作戦は鮮やかに成功していたのだ。

 目の前で着実に敵軍を撃破し砕いていく光景に、やがて兵士たちは昂揚していく。


「補給部隊、弾薬はまだか! 左翼部隊は今のうちに榴弾で──」

「──待てるか、先に獲ってやるぁああああ!」

「……⁉」


 次の射撃に備えようとした矢先、野太い声とともに要塞の見張り窓から一人の兵士が飛び出した。

 両腕には包帯の後がある。現場に復帰したばかりの負傷兵か。


「──なにをっ」


 慌てて声を上げるウルスラを押し退けるように、また別の兵士が敵陣に向かって飛び出していく。

 駆け抜け様に、強い薬品の臭いが鼻をつく。彼もまた負傷から復帰した兵士か──


「追い込んだぞ! 敵将を探せ、早い者勝ちだぁっ!」


 銃剣を手に、叫んだその声に。

 怪物の咆哮じみた喊声が湧き、大地を揺るがした。

 要塞から、塹壕から、左右の土塁壁から。

 デュミナス軍の兵士たちが我先にと一斉に飛び出していく。


 高地から坂を駆ける大量の兵士たち。轟く足音と相俟って雪崩そのものだった。


 土と爆発で煙る視界から、突然押し寄せる兵士の怒涛に──

 ドルムトレク軍は反撃を構える暇もなかった。

 喊声(かんせい)と怒号、銃声と悲鳴──


 ウルスラは茫然としていた。

 戦場で、嫌というほど耳にしてきた戦争の音。

 だが、今目の前に広がっているのは、戦場のそれとは別の気配を帯びていた。

 (たかぶ)る衝動のまま、凶暴性を解放した兵士たちによる殺し。


 目の前の、塹壕や土塁の向こうであるものを、ウルスラは音で感じ取る。

 銃で殺す音。剣で斬る音。血を踏み、骨を砕き、肉を裂く音──それらがデュミナス軍の兵士による一方的なものであることも、理解する。


 怒号には笑いが、悲鳴には絶望が混じっている。

 敵を倒さなければ──ここは戦争だから──

 だが、突然ウルスラの前で広がったそれはただの虐殺だった。

 昂り、猛った兵士たちによる先走った攻撃は、勢いを欠くことなくさらに先へと雪崩(なだ)れていく。


 ──これは、なんだ。どうして──


 突然、殺戮が始まった。

 それはウルスラが今まで経験してきた戦場の殺し合いとはまったく空気を異にしていた。

 降伏も許さず、相手の息の根を止めるまで攻撃し続ける、一方的で凶暴な行い。


 ────気付くと、要塞にはウルスラが一人取り残されたように立っていた。

 この場にいた騎士団の兵士たちは、みな、敵を一人でも多く殺して手柄を得ようと死に物狂いになっている。


「……やめ…………」


 数日前、命令を無視して砲撃した兵を咎めたような、声が出せなかった。

 乾いた声は、喉に貼りついて、誰にも届かない。

 恐怖よりも混乱が先にあった。


 いつの間に戦場は、ウルスラの知らなかった気配を(まと)いだしていた。

 狂気だ。

 兵士たちによる、敵を烈しく殺すための声が、ウルスラを茫然とさせたままその場に(こご)らせる。

 やがて血の匂いが鼻腔(びこう)を侵蝕した。






 二日間にわたる高地での防衛戦は決着し、デュミナス軍が勝利した。

 兵士たちは黄昏の空に勝鬨(かちどき)をあげ、朱く(にじ)む空を震わせている。


 ウルスラは、勝利に昂揚する兵士たちを無言で目に映していた。

 返り血を浴びながら、敵兵の首を掲げながら、目を爛々とさせ歯を見せて喜び合っている姿を。

 叫び出さないよう、力づくで平静を保ちながら。


 要塞から見下ろせる高地が赤い。暮れなずむ夕焼けに土地が染まっているだけだ、死んだ敵兵の血が地面の色を変えるほど大量に流れるわけがないと自分に言い聞かせながら、血みどろで笑う兵士たちを見る。

 自軍の犠牲が少なかったのは、ウルスラの作戦が成功した証でもあった。もう誰も彼女を侮蔑し嘲笑することはない。

 そんなことより、敵兵を殺し、勝利し、武勲を獲得することの方が楽しいからだ。

 彼らの凄絶な笑顔がそれを明らかにしていた。

 兵士たちはさらに戦場を求めていた。「ドルムトレクを(みなごろし)に」──雄叫びはシュプレヒコールのように連なり、高地で烈しく波打つほどだった。


 昏くなっていく空から逃げるように、ウルスラは本陣に戻った。

 意気揚々と、血みどろの鎧姿を誇るように兵士たちが凱旋を果たすなか、ウルスラは騎士団長として上官への報告を済ませて宿舎に戻ってしまう。


 シャワーを浴びた。使用回数も水の量も限られているが、とにかく限界まで使った。

 あの戦場の異様を、身体から消し去ろうと必死だった。

 水の音で、耳にこびりついている絶叫を掻き消そうと。

 全身を濡らして、皮膚にへばりつく戦場の気配を洗い流そうと。

 冷たい水に全身を粟立(あわだ)たせて、この震えが寒さからだと思い込む。

 給水が止まるまで、ウルスラは頭上からのシャワーを浴びた。

 ぱたぱたと、濡れた髪や指先から滴り落ちる水滴のなかで、ウルスラは(まぶた)を閉ざす。

 脳裏で鮮明に浮かび上がるのは、いまだ生々しい戦場の狂気だった。

 その光景には、音も臭いも空気の震えも、すべてがくっきりと付随している。

 (たま)らず目を開けると、そこには濡れたまま力なく佇む自分だけがいた。






 眠れずにいた。

 本陣に帰還し、勝利に喜んでいた兵士たちも眠りにつく真夜中で。

 ウルスラはシーツにくるまって落ち着かない呼吸で上下する身体を汗で(にじ)ませていた。

 眠れないことに焦って、動悸(どうき)も激しくなっていく。

 思考することはできるのに、身体が悪夢のなかにあるせいで、意識がままならない。


 おかしいのは、わたしだけなのだろうか?

 あの戦場の光景に動揺して、狂気を感じて恐怖すら覚えるなんて──


 不安定で覚束ない心に、別の記憶も乱入してきた。

 ──ゴドウィン総統に斬られた夜のことだ。

 連鎖して押し寄せる過去の記憶に、全身が強張っていく。

 もう、過去のことだ。傷は痛まない。つい先日まで無様をさらしたせいで兵士からの空気は最悪だったけれど、今や武勲を貪欲に求める昂揚が優っている。


 味方から脅かされることはなくなった。

 だけど、あの空気の異様さは────……


 戦場の、狂気が発露した瞬間を思い出し、ウルスラはその場から逃げるように起き上がった。

 汗まみれの、ふらふらの身体を起こして、機械的に軍の制服を身に纏う。

 眠ることを諦めた。何か他のことをして、恐怖をこの身から追い出さなければ。

 不眠と緊張で、ウルスラの意識は朦朧としていた。


 ──あれを狂気と感じているから、自分は苦しいのだろうか。あれが戦場の正解で、恐怖する自分の方がむしろ異常で。

 だからわたしも、早くあの兵士たちのようにならなければいけないのか。

 戦場だから敵を、人を殺す。さらに必要なのは、喜び勇んで敵陣に飛び込み、殺して、返り血を浴びながら勇ましく吼える精神なのだとしたら。

 それがあるべき騎士団長の姿なのだとしたら。

 わたしは、そうならないといけないのか。








 監獄房の暗い廊下に、入り口の扉が開錠され、開かれる音がした。

 眠りについていたフレデリクは、真夜中にあるはずのない音に気付く。

 この監獄に捕虜として収監されているのは自分だけだ。

 フレデリクはかすかな緊張を覚えながら起き上がる。

 ゆっくりと、近付く音は軍靴のものだった。

 ごつりと石畳に鳴る独特の足音。ひとり、引きずるような気配は弱々しい。幽霊でも彷徨(さまよ)ってきたのかと思うほどに。


 フレデリクはそっと立ち上がり、鉄格子に近付き様子を窺う。

 廊下の向こうから、徐々に近付いてくる小さな人影に思わず声を零す。


「…………ウルスラ?」


 乱れた金髪が、声にぴくりと揺れた。

 そろそろと上げられ、髪の隙間から覗く顔は紛れもなくウルスラのものだった。


 窓からの光に、血の気の失せた真っ白な顔がぞっとするほど映えていた。

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