第三章 あやめも知らず、思いになずむ④
────戦場で。ウルスラはずっと戦っていた。
敵意も刃も銃弾も、ぶつかって、斬り伏せて、躱して、生き抜いた。
血煙と弾幕に咽びながら目の前から迫る敵に立ち向かっていたら、後ろから斬られた。
衝撃と痛みで我に返る。
咽るほどの血の匂いが自分のものだったと悟る。
冷たく冴え渡った意識で。
自分は四方を刃で囲まれていることに気付く。
世界にあるすべてが、自分を殺したがっているのだと。
死にたくない、と本能的が反応するより先に。
自分に襲い掛かる、逃げ場のない殺意に深い恐怖を覚えた。
「────……っ!」
悲鳴すら上げられないウルスラの身体を、全方位からの刃が串刺しにしていく。
死ぬべき傷を受けながらなお恐怖は消えず──
ウルスラは、目を覚ます。
「……っ、……っ、」
見開かれた目のまま、ぜいぜいと息をする。
沼地にでも沈められたかのように身体が重たい。呼吸もままならない。
全身がじっとりしているのは、大量の汗をかいたからだった。
──ウルスラは、無理矢理起き上がった。
ベッドの上で寝てはいたものの、あの日からシーツを全身に巻いて眠るようになってしまっていた。強張った身体できつくシーツを掴み、自分自身を締め付けながら。
呼吸を落ち着かせ、力のない手でどうにかシーツを身体から解く。
圧迫から解放された身体に、ゆるゆると血が巡る。
冷たくなった汗が、全身を冷やしていく。早く汗を拭って体温を取り戻さないといけないのに、脱力した身体を動かせない。息をするだけで精一杯だった。
時計は──深夜二時を示している。
眠れなかった。今日も。眠りにつけたのは一時間もない。いや、あの悪夢を含めた時間を睡眠と捉えるべきだろうか。
呼吸をするたびに喉が痛む。目を覚ます寸前まで叫んでいたのかもしれない。
夜驚症──という言葉が過る。睡眠中に恐怖に陥りパニックを起こす症状だ。過去に戦場のストレスで発症した兵士を見たことがある。まっとうであろうと緊張し続けた反動がもたらす、眠っていた兵士による突然の絶叫を思い出す。
そんな症状名を、原因を、自覚していたとしても慰みにはならない。
再び眠り直す集中力も気力もなく、ぼうっとしているだけの時間を夜明けまで過ごす──もう何日もそんな状況が続いていた。
あんな夢を見るくらいなら、眠らない方がましだ。
だけど、眠りにつかなければ。
明日もまた、戦場に出るから。
先ほど夢で見たものと、現実との境目もあやふやだけど。どちらであろうと戦場に立っている限りは戦うだけだ。
それしか恐怖を払拭する方法がないからだ。
戦場にしか、逃げ場がない。
「………………」
忙しなく思考をしていたはずなのに、時間はまだ五分も経過していなかった。
眠ることのできない時間が、ゆるやかにウルスラの神経を削っていく。
じっとしていると、自身の消耗を感じ取ることしかできなくなる。
弱っていく自分を自覚することを恐れたウルスラは、ぼんやりした目のまま起き上がる。
汗で湿った服を脱ぎ、軍服を纏って自室を出た。
あの世の迎えから取りこぼされた幽霊のように。
ウルスラはふらふらと廊下を歩き出す。
宿舎を出る。靴底が硬い騎士の軍靴は砂利や土の上を歩いていても、ゴツリと音が出る。歩いているだけで下級兵士に対して威厳を与えられる仕様だ。
見張り兵を所々に置くだけの真夜中の本陣では、軍靴の音は黒い虚空に響くだけだった。
ただひとり、ウルスラだけがその音に耳を澄ます。
どくどくと脈打つ自身の不穏な心拍とは別の音を聴きたくて。
今わたしは歩いているのだと自覚するためにも、靴音を恃みにしていた。
俯くと自分の髪が頬にかかって、寝起きのまま櫛も碌に通していなかったことに気付く。
──きちんと結わないと。
だけど髪の毛に伸ばす腕の力も今はなかった。
乱れた髪が無様で、騎士団長にあるまじき姿だと理解はしながら、ウルスラはただ靴音を耳に入れるため歩くだけだった。
宿舎のすぐ近くに騎士軍本部がある。その奥に武器倉庫や野戦病院、監獄と連なる。
「…………」
歩けるところまで、歩くだけ。
足を動かし、足音に耳を澄まし、やがてウルスラは鈍る意識で緩慢に考える。
────どうして。どこかで。わたしは。まちがえたのか。
戦火で故郷と家族を失ったこと。
居場所を求めて兵士になり武器を取ったこと。
貴族に見出されたけれど、それは徴兵にあてがうためのただの数合わせだったこと。
────どこかで別の選択をしていればよかったのか。
騎士として戦い、生き抜いて、階級を得て、軍を率いるようになっても居場所はなくて。
ある作戦では兵士を補填するために殺されかけて。
別の作戦では死ぬための役割を命じられて。
だけどわたしは生き残っている。
生きようと思っているのに、今まででいちばん苦しい。
死にかけたことも、周囲からの嘲笑も、なんでもなかった頃があったのに。
どうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。
死が、人からの殺意が怖い。過去に負った傷すら、思い出すだけで震えるようになってしまった。
だから苦しい。
──ただ戦場で戦っていただけで済んだ頃はどんなに楽だっただろうか。戦場の生と死も、機械的に戦っていれば何の感情も抱かずに済んだのに、あのころには戻れない。
ちがう。もう今までのわたしではないからだと、ウルスラは気付く。
わたしは初めて、生きようと、生き延びてよかったと思ってしまった。
心は形を変えてしまって、もう戻らない。
苦しくても戻せない。
たとえ過去の恐怖に苛まれて、醜態を嘲笑われようとも。
消してなかったことにしたくない過去ができたからだ。
──ウルスラは、虚空に右手を伸ばした。
灯りもない真っ黒な空間に、自分の手は呑み込まれていく。
そんな虚しい動きから記憶を震わせるのは。
『どうかご武運を』
鉄格子の向こうで、自分の無事を祈った人の声だった。
会わなくなって、幾日も経つ。
手の甲に触れた唇の感触は、はかなく薄れていた。鈍った五感は大切にしたいものすらも自分から削り取ってしまう。
それでも。憶えている。
あの人が触れたこと。その祈りも。
それを大切にして生きのびた自分の感情も。
「……」
衰弱した己の心身を感じながら、ウルスラは静かに悟った。
わたしはこの弱くて脆い、無様な形のまま、生きるしかないんだ。
ただ戦って生きるだけの自分に戻せるとしても。
わたしが戻したくないと望んでいるから。
今も憶えていることを捨てたくない。
眠れないほどの苦しさを、消せないままでも。
この形のままであることを選ぶ。
ウルスラはそっと伸ばしていた腕を下ろした。
はっきり悟ると、幾分か心の中が平静になる。
──眠れないままなら、何かしよう。武器庫の補給状況や明日からの作戦の部隊編成、書類を処理して嘆願書の下書きもして……そう、明日より先の事のためにも備えておかなければ。
呼吸をひとつだけ、丁寧に済ませると。
余計な力の抜けた目で、正面に広がる夜闇を見据える。
やがてウルスラは暗い道を進み、灯りの消えている本部の扉を開けた。




