第三章 あやめも知らず、思いになずむ②
がしゃん、と腰の鞘が台場の石畳とぶつかり派手な音をたてる。
動き出していた兵士たちが一斉にウルスラを見た。
突然前に倒れ、両手をついたまま動けない騎士団長の姿を。
「……っ、…………っ、」
突然の光景に誰もが動けずにいた。
ウルスラは兵の視線を浴びながら、じっと全身を硬くしていた。
息を詰める。空気が身体から抜けないように。
そうしなければ──その場で砂のように崩れてしまいそうな気がしたからだ。
「……騎士団長殿?」
異様な気配に、ようやく兵の一人が声をかける。
それを聞いて、停止していた機能を取り戻したようにウルスラは動き出した。
生存のため立ち上がり歩くことが必要な、文字通り産み落とされたばかりの小鹿のように。
「各自、対処を」
無理矢理喉から押し出した声は、誰が聞いても明らかに震えていた。
兵たちは、強引に足を動かしてその場を立ち去るウルスラの背中をしばし茫然と見つめ──やがて胡乱な視線を合わせていく。
それから噂は瞬く間に広まった。
「騎士団長が味方兵の前で無様をさらした」
勝利した直後にも拘らず味方に刃を振るったこと。説教した相手の動きに怯え盛大に転げたこと。強がっているだけの小娘だ。実際は敵側の敗残兵処理も怖がるような腰抜け。
あんな醜態、戦場で見たことがない──
その場にいた兵士の目撃談に尾ひれがつき、臆病な騎士団長の噂はデュミナス騎士軍本陣にあっという間に知れ渡った。
前に転げて、震えながら立ち上がる──そんな姿を再現してみせる兵まで現れるほどだ。
その日のうちに、ウルスラは嗤笑の渦中に置かれた。
だがそんな空気をウルスラは正確に感じ取れずにいた。
不穏な脈拍が全身を震わせて止まらない。浅い呼吸しかできず、手足は底冷えのまま思うように動かせなかった。
辛うじて動く手先で強襲作戦の報告書を仕上げるまでは機械的にこなせた。心を動かす必要がなかったからだ。
嘲笑を浴びながら本陣を抜け、宿舎の自室に戻ると。
糸の切れた操り人形のように、ウルスラはその場に崩れ落ちていた。
────息を──しないと──
あれからずっと、浅い呼吸しかできていない。
身体に酸素が行き渡らないせいで、思考も肉体も思うように動かせなかった。
内側から身体が凍えだす。
極寒にさらされたような震えが始まる。なのに首筋に垂れるのはじっとりした汗だった。どこも熱くないのに。
浅い呼吸は喉を乾かし続けるだけで、掠れた喘鳴はウルスラの意識をさらなる混乱に陥れる。
──逃げて。息をして。この血を止めて。
身を隠さないと──
混濁にあるウルスラを襲うのは、かつてゴドウィン総統によって背中を斬りつけられ、亡き者にされかけた瞬間の記憶だった。
あの日。
──深夜、総統と二人、今後展開する作戦を長々と聞かされていて。
ウルスラは説明中おもむろに背後に立ったゴドウィンによって、突然斬りつけられた。
一切の躊躇いなく振り下ろされた刃。
皮膚を裂き、肉を斬り、深く抉る──最初は信じられず、何かの間違いではとすら思った。
そんなわけがない。
ゴドウィン総統は、初めから自分のことを殺すつもりだったのだ。
数合わせの貴族。間に合わせの騎士。自分が指揮する作戦のため兵士を大勢追加するのに都合がよかった、騎士団長という肩書付きの使い捨て。
だから自分は殺されるのか──
前に倒れながら、驚き、恐怖し、絶望しながらウルスラはその場から逃げ出した。
幾度も死線をくぐったしぶとさが身体に染みついていた。一撃斬られたくらいでは、諦めない。死んではなるものかと床を転げ、血みどろのまま這って部屋を飛び出す。
まさかそこまで動けるとは、即座に逃げられるとはゴドウィンは思いもしなかったのだろう。
階級付きの味方を一人削ることで多数の兵士を獲得する小細工──側近くらいには知らせていただろうが、実行は密かに自分一人で済ませるつもりだったか。
油断した味方を後ろから斬り殺すくらいわけはないと。
それほどに騎士団長のウルスラを侮っていたのだ。
あのとき「しくじった」のは、ウルスラではなくゴドウィンの方だった。結局彼は深追いせず、ウルスラの暗殺を「なかったこと」にした。
捨て置かれるような形になった結果、ウルスラは自室まで逃げ切ることができた。
──まるで時間が引き戻ってしまったかのように、ウルスラはあのときと同じように動いた。
がたがたと震える手足で前へ。自室の部屋の奥にあるベッドからシーツを強引に引っ張り出す。
あのときのように。斬りつけられ、大きく裂かれた背中の血を止めるために服を脱いで、死に物狂いでシーツを身体に巻いた。
激痛で身体を動かせない。それでも血を止めなければ、という意識だけで行動していた。
それが応急処置として正しかったのかも今はわからない。
ただ、気付けば気絶していて、背中の血は辛うじて止まっていた。気の遠くなる激痛だけがその後も継続していた。
「……っ、……っ、…………っ」
これは、今は、いつなのだろうか?
総統に殺されかけた直後?
それとも──それを思い出しているだけの……
記憶がますます混濁していく。
傷を負った身体の血を止めるためにシーツにくるまり震えている、「今」がどちらなのか、わからない。
やっぱりわたしは、このまま死んでいくのか──
あのとき死に損なったから、死んでいくべきなのか──
震える指で、そっと背中に手をやる。
自分の背中は乾いていて、指先に触れた傷に血の気配はない。
あるのは、縫合されたことで裂傷の拡大を免れた傷痕だった。
「…………」
ウルスラはそこに「今」を見出す。
総統に斬り殺された後ではなく、そこから生き延びたことを。
この傷を治してくれた、医師の存在とともに。
背中に回した手が触れる範囲で、ウルスラは傷痕を辿った。
誰にも言えなかった傷痕に、ただ一人気付いて治してくれた人を思いながら。
「…………っ、……──」
浅く空回りしていた呼吸が、徐々に落ち着いていく。
吸うことと、吐くことを、ウルスラはゆっくりと取り戻した。
「……はぁ…………」
次に吐いた息が全身を弛緩させる。
同時に目からぱた、と涙の粒が落ちた。
それが思い出された恐怖からのものか、どうにか取り戻した安静からなのかはわからない。
それを考える余力はとうに失われていた。
ウルスラは床でシーツにくるまったさなぎのような形のまま、意識を失い、眠りに落ちる。




