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秘めたきずあと背中に沈む  作者: 熊谷茂太


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第二章 ほのがたり、やがて遠ざかる音⑤

 十七地区を見下ろせる地点に拠点を構えていたドルムトレク軍本陣にいたのは、出陣した八十六名の兵士を除く幹部クラスの指揮官たちだった。側近合わせても六名のみ。

 彼らは主力たる右翼の攻撃を注視しており、挟み撃ちを担う左翼の動きはまだ追えていない。

 ウルスラたち奇襲班が息を切らせて高台へと駆け上がり本陣の前に辿り着くと、敵方は何事かと一斉に陣地から姿を現した。

 ウルスラは狙い定めるように長剣を前に突き出し、号令をかけた。


「総員、突撃! 敵を殲滅せよ!」


 彼女の背後には八名の平民兵しかいない。だが、最大の手柄である敵方指揮官の首級を前に兵たちは我先にと獰猛(どうもう)な声をあげて敵本陣へと突進していった。

 大群に匹敵する猛々しい気配が、怒濤と化して敵本陣に襲い掛かる。

 そこでようやく武器を手にとった指揮官と側近に勝ち目などない。

 味方兵が吼え、敵兵が悲鳴し、剣戟と銃声が入り混じる──戦場の悲惨な音場は、しかし長くは続かなかった。もとより本陣内の敵の数は少なく、一方的な強襲だったからだ。


 これ以上ないほどに、奇襲は成功したといってもいい。


 ウルスラは手柄を求める味方兵に本陣を任せ、低地で展開している敵右翼の攻撃に抗戦する迎撃班の状況に目をやった。

 敵左翼側の攻撃をないものとし、戦力を対右翼に注力しているデュミナス側の攻撃にドルムトレク軍は手こずっているようだった。

 まるで動きを予知したような徹底した迎撃であるためだ。


 ──だが、敵の意表を突くには限りがある。

 敵兵との人数は倍近い差がある。いつまでも攻撃を続けていれば危ういのはデュミナス軍の迎撃班になってしまう。


「騎士団長! 敵将を獲ったぞ!」


 背後から、兵の一人が討ち取った敵指揮官の首を携えて揚々(ようよう)と駆け寄って来た。

 返り血を浴び、己が獲得した戦果に目を爛々とさせている兵にウルスラは冷静に告げた。


「迎撃班に通達を。前線の交戦は必要ない。敵軍にも降伏を促すように」

「ははは! 勝利宣言していいってことだよなあ!」


 敬意も礼儀も欠いた態度を露わに、平民兵は仲間と連れ立って前線に向かって動き出した。

 死んで当たり前の奇襲に賭け、見事に成果を獲得したとなれば興奮するのも無理はないだろう。

 ウルスラは咎めるでもなく、その場に残り引き続き前線を見守っていた。

 やがて眼下から、トルムトレク軍指揮官を討ち取ったと勝鬨を上げる自軍と、降伏し無力化される敵側の気配とが(もや)の向こうからもはっきり伝わって来る。


 ──そこでようやく、息を吐いて全身を緩めた。


 勝利して、生き残ることができた。

 騎士として、幾度も経験してきた事実のはずなのに、過去とは違う感覚が今はある。

 使い捨ても同然の作戦で生き残ることができたのは、ただの奇跡だ。

 奇跡に不可欠だったのはほかならぬあの人で──

 会いたい。感謝を伝えたいという思いに駆られる一方で、(くら)く重いものがウルスラの胸の奥に湧き起こっていた。


 踏み込み過ぎた。これ以上はだめだ。

 もう充分に、わたしはあの人に命を救ってもらったのだから。

 また会えば、今以上のものを求めてしまうかもしれない。

 それがこわかった。

 なぜならあの人は、わたしのために人を殺すことすら選べるからだ。

 これ以上彼に人の道を外すような選択をさせてはいけない。現に彼のくれた知恵はこの作戦で自分を救い、成功をもたらした。彼にしてみれば、自国を売り味方を殺す結果にもかかわらず。

 この戦争がどちらの勝利に終わるのか見当がつかない。

 だからなおさら、フレデリクをただの捕虜以上の立場にしてはいけない。

 なにより──心優しい自分の理解者の手を、血と死で汚したくなかった。


「もう、会うべきではない」


 たくさんの否定を重ねて、心の(うち)にある彼への思いを封じるように。

 ウルスラはひとり、その言葉を口にしていた。






 その夜。勝利に沸き立つデュミナス騎士軍本陣で、半地下の監獄だけが静かだった。

 ウルスラは鉄格子の奥に佇む男の姿を、シルエットだけ確認する。

 窓からの明かりが(わず)かであるのと、壁に沿って立つことで牢との距離を取ったからだ。


「ウルスラ──このたびは作戦の成功と戦場での勝利おめでとうございます」


 十七地区領地奪還を見事に果たしたのは、ほかならぬウルスラだ。だが、今宵本陣の騎士や兵たちに凱旋の演説を唱えさらなる勝利をと鼓舞し盃を掲げているのは、セルデン侯爵騎士だった。

 あたかもこの難局を打開し功績をあげた張本人のように振る舞い、この祝杯をもって我こそが陣頭指揮者であると既成事実を作り上げるかのように。


 でも、そんな顛末も含めて今さら驚いたり失望するようなことではない。

 ウルスラは(うやうや)しく(こうべ)を垂れる人影に、ぎこちなく頷いた。


「ありがとうフレデリク。まずはお礼を言わせてくれ。

 今回の作戦はあなたの情報と推察のおかげで成功したといっても過言ではない。僅かな兵力であの地区を奪還できたのは奇跡に等しかった」

「身に余るお言葉です」


 牢の奥で、長身の影が伸びる。顔を上げ真っ直ぐ自分を見る気配があった。


「あなたがご無事に帰還されてよかった」

「……」


 暗くて目も合わせられていないのに、思わずウルスラは(うつむ)いていた。

 名誉も褒賞もない簡潔な言葉。それを彼から受け取ることが心臓を熱くする。

 嬉しい、という感情だけではとうてい及ばない。


 こうしてまたあなたに会えてよかった。

 この瞬間のために、わたしは生きて還ってきたんだと、心は静かに満たされる──


 だけど、それは口にすべきでない思いだ。

 壁を背にして動かないウルスラに何かを感じ取ったのか、ふとフレデリクは外の様子を(うかが)った。


「……騎士軍の方々は祝杯の最中のようですが、あなたの姿がなくてよろしいのですか?」

「必要ない。セルデン侯爵騎士さえ陣頭に居れば、この軍はまとまるものだ」

「それは何よりです」


 フレデリクは騎士軍の功績争いはもとより、彼らの動向には微塵(みじん)の興味もなさそうだった。


「ですが気がかりです。この先またあなたに無謀な作戦が任されるのではありませんか」


 もともと自軍の使い捨てを前提にした作戦を堂々と敢行するような組織だ。

 フレデリクの懸念は、もはやウルスラにとって騎士軍幹部の慣例に等しかった。捨て身の戦局を丸投げされるなんて、これまでに何度もある。


「それは問題ない。今回拠点を一つ奪還できたことで戦況も変わる。当面は功績を求めてわたし以外の騎士が出陣を願い出て前線に立つはずだ」


 手柄を求めて前のめりなのは、平民兵も貴族出の騎士も同じだ。地位のある幹部ほど狡猾(こうかつ)なので厄介な状況になるや自分に対処の白羽の矢が立つ可能性はあるだろうが──


「今までと大差はない」

「では何か私にできることはございませんか」


 距離を取り、よそよそしい受け答えに徹していたウルスラに、フレデリクは声を差し込んだ。

 ゆっくりと上げたウルスラの目に映ったのは、鉄格子に添うほど前に進み出たフレデリクの姿だった。背後の窓からこぼれる夜灯で表情まで見える。

 淡い青銅色の瞳が不意打ちのように視界に現れ、ウルスラは強張った。

 自分の返答を待つ彼に、慌てて首を横に振った。


「ない。何も────そう、今日はそれをあなたに伝えるために来たんだ」

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