第二十九話 嫌です
次に目が覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。
ガタゴトと揺れる馬車のなか、小さな壁掛けランプが一つだけ振動で揺れていて、それに合わせて照らされる室内も揺れているように見えた。
むくりと起き上がると、近くから声がかかった。
「気分はどうだ?」
「……はい、悪くないです」
「そうか、ならば一度馬車を止めよう。ヴィンセント」
「はい、承知しました」
殿下はランプより離れているせいか、薄暗い中ではその表情をうかがい知ることができない。
ヴィンセント様が手を伸ばして、御者に知らせる呼び鈴の紐を引っ張った。
外から小窓が開けられ、そこから冷たい風が吹き込んできた。
「停めてください、休憩を取りましょう」
御者はそれを受けてすぐに小窓を閉じて、馬車の速度を落とした。それと同時に、周囲に併走しているだろう近衛たちが、馬を制御するための声と鐙の鳴る音が聞こえる。
ヴィンセント様は、点していなかった残りのランプに火を入れて、室内を明るくする。
もしかして、私のために暗くしていてくれたのだろうか。
あんなに失礼な態度をとって、ふて寝したのに。まるで子供が拗ねるような態度を取ってしまったことが恥ずかしくなり、恐る恐る殿下を伺うと同時に、お腹が派手にぐうと鳴った。
「……食事を用意してやれ」
「すみません……」
そうして気まずさがうやむやになったまま、私はアデルさんに世話をやかれて遅い食事を取る。それが終わると同時に、使節団は休憩を切り上げて出発するという。
なんだか私のために休憩を入れてくれたようで、本当に申し訳なくなってしまった。殿下にはちゃんとお礼と謝罪をしなくちゃ。そう思っていたのに、馬車に戻ると、殿下に先に謝られてしまった。
「先ほどは、配慮に欠けていた。すまない」
「い……いいえ、私も気分が悪いだなんて言って、ふて寝してすみません」
「それは構わない、元々薬のせいで体力が落ちているはずだ、この後はろくに休憩は取らずに王城へ入る。コレットはそのまま寝ていろ」
時刻はそろそろ日付が変わる頃だそう。殿下とヴィンセント様はどうするのだろうか。
「私は慣れている。視察の場合は、こうした移動も少なくない」
「起きてるんですか、なら私も……」
殿下は首を横に振り、私に横になるよう勧めた。
「コレットは帰還後に後処理の仕事があるだろう、いいから寝てしまえ。着いたら起こす」
私が起きていても何の役に立たないだろうけれど、王族の前で眠れという方に無理がある。いや、さっきまで寝ていたけれども。
しかし勧められるままに毛布に包まると、すぐに瞼が重くなる。そういえば、食事と一緒に薬湯も飲んだからかな……
襲い来る眠気に負けて、座席に横になり、クッションに顔を埋めた。サイラスから薬を飲まされて以来、やけに殿下が優しい。私が、長年探していた少年だと分かったからかな。
そう思ったら、なんだか胸の奥がざわざわと騒ぐ。
いや、今はまだ考えたくない。
私は意図的に、明日から待っている仕事について考えを巡らす。殿下の視察には、出費も多いが献上品として持ち帰るものもある。それらを仕分けして、公務として財産目録に加えるもの、そのまま同行や準備に奔走した臣下へ特別賞与として与えるもの、それから私的な交流として私財管理下に入るものなどに分けられる。
それらの分配は殿下と財務会計局の担当者が決めるが、決められた後の私財処理は私が一手に引き受ける。そういう仕事のことを考えていると、ざわざわと騒いでいた心が凪いでいく。
明日の仕事の予定を立てるのが、ちょうどいい現実逃避だったらしい。すぐに気持ちよく寝入ることができた。
そして次に起きた時には、もう馬車の中ではなかった。
起き上がって、寝惚け眼で周囲を見渡す。見覚えのない部屋の、見知らぬ寝台。少なくとも豪華過ぎない落ち着いた壁とベージュのカーテン、一人分というには少し広いが、広すぎない寝台。殿下の部屋ではないことにホッとしつつも、知らぬ間に寝かされているのもどうなの。
私は起き上がって手当たり次第にクローゼットを開ける。するとそこには私が視察に持っていった鞄が置かれ、中に入っていた服を出して綺麗にかけられていた。
その一つを手に取り、着替えた。
色々なことがあったけれど、どうやら無事に視察から戻って来られたらしい。
昨日、殿下から出張延期を申し渡されているので、恐らく殿下の私室の近くだろうと当たりを付けて、部屋を抜け出す。すると。
「コレットさん、おはようございます」
部屋を出たところで、会計局本院のイオニアスさんと遭遇する。まさかこんな所で彼に会うとは思わず、驚いてしまう。どうやら殿下の護衛の一人に、案内されて来たらしい。
「おはようございます、イオニアスさん、珍しいですねここでお会いするなんて」
「コレットさんにお会いするために、来ました。後ほど本院で、視察後の会計処理のための会議があります、参加されてはどうですか? 前任者もよく参加されていましたし、後学のためにもいいかと思いまして」
「そんな会議があったんですか、初耳です」
「形式的なものですので、居なくても問題はありませんが、コレットさんがお仕事の手順を覚えるのにちょうどいいと思います」
「私はもちろんお願いしたいですが、他の参加者の方々はどなたが?」
「私を含めて殿下の公務担当会計士が三人、本院の院長と顧問が同席いたします」
「院長と顧問、ですか……」
大物と同席会議。少々尻込みしているとイオニアスさんが……
「そもそもラディス殿下と日々顔をつきあわせている人が、何を怖じ気づく必要がありますか」
「さすがに、殿下は別ですよ」
「ラディス殿下ならば蔑ろにされるという意味ですか?」
「ち、違いますよ、殿下はもちろん敬ってます。そうじゃなくてよく知らない方とは違うという意味です」
少々冷めたような目で見られたが、とりあえず納得はしてもらえたようだ。
「それじゃ、行きますので着いてきてください」
「え、今からですか⁉」
「迎えに来たと言いましたが?」
「でも私、視察でメモしたノートや仕事道具、ペンすら持っていません」
「そんなものは、あちらで用意します。それにあくまでも主な議題は公費会計についてですし、いずれまとめた資料はこちらに届くのですから、あなたは聞いていたらいいのです」
「はあ……わかりました」
つまり私に牽制しておきたいから顔を出せ、けれども口出しは無用、ということか。
いつもの役所仕事とあまり代わり映えはしない。まあそれも仕事かと、ついていくことにした。護衛さんはそのまま何も言わずに、私たちの後ろをついて歩く。
殿下の私室一帯を越えても付き従ってくるので、イオニアスさんはチラチラと後ろを気にしている様子。何か言いたげなのだけれど、言い出せないのかそのまま会計局本院に入り、以前通された応接間を越え、さらに奥へと連れて行かれる。
最奥、と言っていいだろう。厳重に鍵がかけられた金庫の前を通り過ぎているのだから。
そこに一本の細い通路があり、しばらく歩いた先に、扉が見えた。だがなぜか扉の前には、近衛が待ち構えている。そして私たちを認めると、近衛自ら、奥の扉を開けた。
どうやら扉の先にあるのは部屋ではなく、庭園のようだ。
「通行は、会計士の二人のみに許されている」
近衛がそう告げて、最後に着いてきていた護衛を止めた。
なんだか嫌な予感がして、私もまた足を止める。そんな私をイオニアスさんが振り返り、首を小さく横に振って見せる。眉を下げ、申し訳なさそうにしながら。
そんなイオニアスさんは初めて見た。
ああ、逆らえない人からの命令なのだと、私は悟る。
ええい、ままよ。私は腹をくくって、制止されている護衛さんに振り返り「行ってきます」と告げて扉をくぐった。
足を踏み入れた先は、美しい庭園だった。
小鳥が鳴く声と、蝶が飛び交う庭には、花が終わって実を付ける薔薇が植えられている。その薔薇の傍らに、三人の男性が立っていた。
イオニアスさんに先導されるまま、その人物のところまで行くと、こちらに気づいたようだ。振り返った三人の中央にいた男性の姿に、私は足を止めてしまった。
こ、これは不味い。さすがに、いくらなんでも、不味い。
振り返って私の様子に気づいたイオニアスさんが、明らかに動揺している。
「謀りましたね、イオニアスさん」
「い、いえ、コレットさん、これには……訳が」
「これ以上、私は先に進めません。申し訳ないですがイオニアスさんだけで行ってください」
「そういうわけには……お願いします、コレットさん。後でどんな謝罪でもいたしますので」
そう言いながらにじり寄るイオニアスさんから数歩下がったところで、背中になにか固いものがぶつかった。
嫌な予感がして振り返られない。でも行く手を阻むそれを覗き見るために、見上げると。
「陛下がお待ちである。勝手に下がることは許さぬ」
野太い声で言うのは、さきほど扉を守っていたのと同じ近衛兵だ。
退路はない。
「はあぁ……」
誰にも聞こえないように深くため息をつき、私を待つこの国の元首である人の元へ歩いた。
この国に生まれて、この国で育ったからには、その絵姿を見ないで過ごせる者などいない。誰かさんと同じ、見慣れた赤い髪には既に幾筋かの白いものが混ざってはいるが、とても目立つ色だ。この国では貴族家には精霊王を連想させる薄い色素を好む者が多いが、平民では濃い色の髪をもつ者は少なくない、もちろん赤髪の者も多く、だからこそ国王陛下は若い頃から国民に親しまれている。そして澄んだ空を連想する水色の瞳と、穏やかに微笑むお顔は肖像画通りで、私を待つ間もただ何も言わずに佇んでいた。その静かさが品格となって、かえって近寄りがたいほどの圧に感じられる。
私は御前で粗末なスカートの端を持ち、膝を折って頭を下げて、御言葉を待つ。
「突然呼び立ててさぞ驚いただろう。そなたが、コレット=レイビィだな?」
「はい、ラディス=ロイド殿下の元で会計士をさせていただいております、コレット=レイビィと申します」
「そうか……病み上がりと聞く。体調はどうだ?」
それを受けてようやく顔を上げ、ゆっくり頷く。
「すでに、快癒いたしました」
「そうか、それは良かった。そなたの活躍は、バギンズやトレーゼから聞き及んでおる。それに、倅が色々と迷惑をかけているようだな」
迷惑、とはどういう意味だろうか。強引に会計士にされたことか、それとも過去の件……? 私は「はい」とも「いいえ」とも答えづらく、笑みを貼り付けて首をかしげてみる。
「ラディスも私同様、フェアリス王家の性質……執念深さを多大に引き継いでおるのでな」
執念深さ。あー…………
私の遠い目に、陛下が静かに笑った。でも殿下はまだしも、陛下も?
「陛下、そろそろ本題に入られませんと、時間が足りなくなりますぞ」
「分かっておる、バギンズは細かいのお」
陛下に横から口を挟んだ人物が、バギンズ子爵らしい。彼の肩からは引きずるほどの長い会計士襟が垂れている。裾は私のものと同じく二股に分かれており、会計局最高位を表す黄金の玉と房が付けられていた。
彼は私の視線に気づき、応えるように微笑む。初めてお会いしたけれども、豊かな白髭の、明るそうなお爺ちゃんだ。ついでに頭頂部もすっきり明るい。
もう一人は、若いけれども厳しい顔立ちをした人物。鎧を着て、長剣を携えている。恐らく彼は近衛だろうけれども、どこかで見たような顔立ち……
「コレットよ、私は倅と賭けをしたのだ」
陛下の言葉にハッと我にかえり、その真意を探ろうと次の言葉を待つ。
「あの宝冠を鳴らせた者を探し当てたのなら、ラディスの勝ち。見つけ出せねば私の勝ちと」
「……賭け、ですか」
何故か、嫌な予感がする。
「そう、賭けだ。ラディスは無事に、最初の賭けには勝てたようだな」
「最初の?」
「賭けは二段階になっている」
当然だけども、陛下は既に殿下が探し人を見つけたことを、そして私が誰なのかも知っているということか。まあ、そうでもなければここに呼び出される理由もないだろう。
「もし負けていたら……殿下はどういう対価を支払う予定だったのでしょうか?」
「廃嫡、だな」
思わず陛下を二度見してしまった。いやいやいや、おかしいでしょう。殿下はただ一人の陛下と王妃様の御子で!
そんな私の狼狽に、陛下は平然と続けた。
「負けるつもりはないと、本人が言っておった。事実、徴が消えることでもないかぎり、いつかは見つけることになったろう」
「徴が消える……ああ、死ぬまでですか。期限が長ければいいという問題ではないように思いますが」
「心配いらん、そもそも適当なタイミングで私が終わらせるつもりでいたからな」
終わらせるって……もしかして。
飄々とした陛下と、苦笑いを浮かべるバギンズ子爵、それから視線を外している若い近衛を見比べて、腑に落ちた。
「陛下は、最初から知っていたんですね、私の、ノーランド伯爵令嬢の行方を……でもそれならどうして、すぐに罰しなかったのですか?」
「そなたには悪いが、アレの執念深さを利用するために、放置を決めた」
「利用……?」
「ラディスは、生来体が弱かったのだ。幼い頃はほんの些細な風邪もこじらせる有様。一粒種ということもあり、王妃や周囲の者が過保護に育てたのだ。聡い子であったラディスは、心配する周囲に遠慮し、自らその柵の内に居ることを良しとしていた面もあるが」
そういえば、初めて出会った時の殿下は、木登りも出来ないし、投げたオレンジを受け取るのも精一杯の様子だった。そして細くて、レスターと違わないほどだった。あの時は、二歳も年上だなんて思わなくて、だから王子殿下だと、考えもしなかった。
でもそうか。だからこそ、私の細さや顔色の悪さを、あんなにも気にして……
「それがあの事件以来、逞しくなった。原動力が怒りなのか、後悔なのか、はたまた本当に恋であるかは知らぬがな。勉学に勤しみ、与えられた領地を自ら回し、体を鍛え、臣下に侮られぬよう振る舞えるようになった。まあ多少、人間不信というか偏屈にはなったが。それで嗾けてみたのだ、宝冠の相手を見つけ、契約を果たすまで立太子はならぬと」
「それは少し酷くないですか? 探し出すって言われても、殿下は少年だって思っていたのですし」
「だが見つけさえすれば、すぐに分かることだ」
そりゃそうだけど、そもそも探す相手の性別が違ったら、探すのに苦労するわけで。実際、殿下は十年の月日を要している。
ん? でも賭けが二段階ってことは?
「二つ目の条件は、契約を完全に履行すること」
「契約って、宝冠のですか?」
「そうだ、王位継承には宝冠を継ぐと同義。たとえそなたでなくとも、履行が条件だ」
「ちょ、ちょっと待ってください陛下……契約を履行ってそれ、もしかして」
問いかけたところで、陛下を守護する近衛が動いた。
「もう来たのか、早いな」
呆れたような陛下の声につられて視線を移すと、薔薇の庭園を越えた向こうから、殿下が歩いてくるのが見えた。
しかも、まだ遠いのにありありと分かる不機嫌オーラ。
そんな殿下があっという間に私と陛下の間を遮るように立ち、背に庇った。そして相変わらずにこやかに佇む陛下へ、殿下はこう言い放ったのだ。
「陛下のご命令通り、宝冠の相手を見つけました。私の勝ちです」
まあ、そう言いたくもなるのは分かる。殿下も苦労してたのね、同情を禁じ得ない。
だというのに、殿下が次に続けた言葉に、私は驚きのあまり目玉が飛び出るかと思った。
「当然、続く賭けも私の勝ちです。私はこのコレットを妃とします」
は……はあぁっ⁉
唖然としながら殿下を見上げるものの、表情は真剣そのもの。
しばし緊張の糸が張り詰めたまま、誰も言葉を発しない。だがその糸を切ったのは、陛下だった。
「だそうだが、コレット。そなた、ラディスと結婚したいか?」
まるで近所のお爺ちゃんにお菓子をいるかと聞かれたかのような、軽い問いかけだったせいもあると思う。
「え、嫌です」
思わず素直に答えてしまっていた。
しまったと思ったのは、それからだいたい十拍くらい後だったろうか。
 




