第5話 魔物
クレハはひとしきり魔法詠唱の成功を喜ぶと、もう一度すべての魔則で詠唱を試した。
魔素発射のように、何度も繰り返せば炎以外も成功するかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
結果は、炎以外はてんでダメ、の一言に尽きる。
「やっぱ、クレハちゃんには炎が似合うってさ!」
「それはそれで嬉しいんだけどね。魔則二個持ちはかっこよくて諦めきれなかったの!」
「あははっ欲張っちゃうね。ま、私もクレハちゃんの魔法とか魔素集中とか、何度も見せてもらったけどさ」
フレッダは親指と人差し指で円をつくると、その中から瞳を覗かせるような仕草をした。
「見るだけならいくらでもどうぞって感じだけど。そういえば、フレッダはどんな調子なの?」
「そうだねぇ。魔素をぼちぼち感じとれるようになってきたかなーって感じ! クレハちゃんのおかげ!」
「あたしの?」
「そうそう! さっきも言ったけど、たっぷり見させてもらったからね。流れ、ってのがなんとなーくわかってきた感じ」
フレッダは今日、初めて魔素感知をすると言っていた。それなのに、この短時間で既にコツを掴み始めている。
クレハは心からすごいと思った。それはそれとして、悔しさに下がりそうになる口角をにっと上げる。
「こんなにすぐコツを掴むなんてすごいじゃない!」
「ありがとー。ジュードせんせー曰く、『君は読みがうまいようだ』だってさ。せんせー意外と褒め上手だよね」
クレハは合点がいった。
フレッダはきっと、場の空気を読むのがうまい。人との距離のとり方も的確だ。
先ほども魔素感知の説明を受けている人の輪で、おそらく初めて話す子とも打ち解けていた。
その読みのうまさが、魔素感知にも何か良い影響をもたらしているのかもしれない。
——なるほど。ジュード先生も人をよく見ているのね。
「皆、手を止めて注目してくれ。今日の魔法学はここまでとする。君たちに伝えたことは多く、今はまだ整理しきれていない者もいるかもしれないが、時間をかけてでも自分なりに理解を深めてほしい」
ジュードの声に訓練生たちが頷いた。
彼の言うとおり一度に聞く内容にしては量が多く、理解が難しい箇所もあった。
クレハはグランスとの訓練やトリルとの一件があり、少なからず事前知識があったから何とかついていくことができた。
——それでも復習はしないと、頭こんがらがりそう!
どっと疲れが押しよせてクレハは数度瞬きをする。
「それでは今日は解散とする! なお、俺はあと一時間ほどここに残るつもりだ。自主練習をしたいものは好きにするといい。借用許可はとっている」
解散の号令に挨拶を返し、訓練生たちは動き出した。
その場に座りこんで今日の成果を話す者、そそくさと帰る者、自主練習に励む者と様々だ。
クレハはというと、前者だった。
「つ、つかれたぁ。頭が爆発しそう」
「クレハちゃんバリバリだったもんね。お疲れさま」
「フレッダは結構余裕ありそうね」
「まあ私は魔法使ってないし? 魔素集中にもたどり着けなかったもん! あーくやしー!」
今にも両手両足を広げて寝転びそうなフレッダだが、きっと次回にでも魔素発射まではできるようになるだろう。
連続した魔素感知でもほとんど疲れを見せていない。
クレハはフレッダの才能の片鱗を感じとった。
「クレハちゃん、これからどうする? 自主練やってく?」
「んー、あたしは帰ろっかな。馬車の時間もあるし」
「そっか。じゃあ今から頑張ってクレハちゃんを追い越しますか! 目指せ魔則三つ持ち!」
「そこは大きく出て六つにしときなさいよ」
冗談を置土産に、クレハは訓練場を後にした。
馬車乗り場を目指し歩いていると、巡行士ギルドの近く、広場へと繋がる道に見覚えのある茶髪の少年が立っていた。
腕を組み壁にもたれかかっているのを見るに、誰かを待っているのだろう。
クレハは声をかけずそっと去ろうと考えたが、それではなんだか負けたようでいけ好かない。
いっそのこと驚かしてやろうと、足音を立てないよう死角から近づいた。
「わっ! ってちょっとは驚きなさいよ」
「バレバレなんだから驚かねえよ」
「足音も気配も隠したのに?」
「魔素だよ魔素」
クレハは目を丸くした。
どうやらトリルは、クレハの体内魔素の存在を察知したらしい。あるいは大気の魔素の変化を感知したのかもしれない。
どちらにせよ、今のクレハには到底できない芸当だ。
しかし、わざわざ本人に言うつもりはない。
「ふぅん。で、あんたはなんでここにいるの? 誰か待ってる?」
「おまえ、今日魔法学の実技やったんだってな」
「あたしの話聞いてた? まあ、そうだけど」
「……勝負しようぜ」
「…………は?」
クレハの口が開く。
——勝負って何の勝負?
話の脈絡を考えると魔法だろうか。
「たまにやってるだろ、広場での打ち合い。それだ」
「今から? あたし馬車の時間があるんだけど」
「一本遅いのでも問題ないだろ。いつもはそれに乗ってるんだから」
「ああ言えばこう言うわね……わかったわよ」
クレハはトリルの誘いを受け広場へと向かった。
慣れ親しんだ場所で、いつもどおり適当な距離を空けて向かい合う。
クレハは二本の木剣、トリルは片手剣を構えた。
「じゃあ、いくわよ」
「ああ。勝負開始だ!」
先手必勝と言わんばかりにクレハがトリルへと迫る。
上、右、下、左と様々な方向から双剣が繰り出され、相手を圧倒する。
トリルは、そのどれもを剣身の角度を変えながら受け止めた。
「まったく、余裕で防いじゃって腹立つヤツ!」
「容赦なく攻撃仕掛けといてよく言う、ぜっ!」
トリルは力いっぱいクレハを押し返すと、攻守を入れ替え攻めに転じた。
素早く重い剣撃が次々とクレハを襲う。
双剣で往なし、身を翻しながら避け続けると、チッと舌打ちが聞こえた。
「ちょこまかすばしっこいんだよっ!」
「あんたこそっ!」
トリルが型を変えて斬り上げてくるのに対し、クレハは上半身を後ろへ逸らすことで回避。
そのまま少年の空いた胴へ蹴りを入れると、衝撃を殺しながら後方へ飛び退いた。
「……かわいくねーやつ」
「可愛く戦ってたら勝てないでしょ!」
クレハは逃げたトリルを追って踏みこむと、両手で斬撃を放つ。
木剣を横にし、両手で防御するしかないトリルに対し、右手を返して脇腹を柄で打とうとする。
しかし、クレハの動きを読んでいたのか、トリルはクレハの左手にある木剣を押し返して攻撃の軌道を逸らした。さらに左足を一歩引き、半回転することで難を逃れる。
「うわっ!」
「うらあっ!」
それどころか、攻撃を外し体勢を立て直すクレハを、木剣で横から斬り払った。
「くっ——!」
——しまった!
クレハは咄嗟に右手を引き戻し双剣で防御したが、衝撃を殺しきれない。
受け身をとりながら飛ばされるクレハへ、トリルの突きが迫る。
転んだクレハの鼻先に、木剣の切っ先が突きつけられた。
「勝負あり。俺の勝ち、だな」
「…………はいはい負けました。今回は、あたしの負けですぅ」
「は、を強調するな。負け惜しみだぞ」
「わかってるっての! あーもう! なんであれを躱すかなあ!」
クレハはあぐらをかいて不満を漏らした。
いくら動きが読まれようと、咄嗟に反応はできまいと油断していた。
それに、トリルは日に日に強くなっている。
追いすがるのがやっとだなんて、クレハは思いたくなかった。
「ねえ、なんでいきなり勝負しようなんて言ったの」
「……別に」
「なによ、言いなさいよ」
「敗者には関係ねえだろ」
「このっ! あんた言ったわね!?」
クレハが二回目の勝負をおっ始めようとしたところ、優しげな声に止められた。
「まあまあクレハちゃん、落ち着いて」
「アーチュ! いつからいたの!?」
「おっまえ、来るなって言ったのに……」
「お兄ちゃんが心配だったから……」
トリルの妹、アーチュが二人の元へやって来る。
兄はぶっきらぼうに手を払うことで追い返そうとしているが、クレハは仲のいい友だちに会えて喜びを隠せないでいた。
「アーチュ聞いてよ。トリルがいきなり勝負を挑んできたかと思えば、手加減なしにぼっこぼこにするの!」
「おい人聞きの悪いこと言うなよな! おまえも大概ぎったぎたにしてきただろうが!」
「なによ」
「なんだよ」
「もう、二人ともしっかり暴れたんだから、今日はそこまでにしとこう?」
アーチュが二人の仲裁に入ることでやっと勢いが収まった。
ただし、互いに不機嫌そうな顔は全く隠せていない。隠す気すらない。
「まったく。お兄ちゃんってば、今日クレハちゃんが魔法学を受けて、やっと条件が対等になるから、って張り切っちゃって」
「ばっ! アーチュおまえそれ言うなって——」
「クレハちゃんも魔法のことを知ったら、やっとあの時の借りを返せるってうきうきしてたくせに」
「ああもう! それ以上喋るな!」
トリルがアーチュの口を手のひらで強引に塞ぐ。
どうやら今のはクレハに聞かれたくなかったことらしい。
クレハは援護してくれた味方のアーチュに優しく笑いかけ、敵であるトリルには口角をにんまりとつり上げた。
「へぇー。トリル、二年前の負けをそんなに根に持ってたんだあ。無理もないよね。あたしがこてんぱんにしちゃったし」
「…………くそっ! だから言うなって言ったのに」
「クレハちゃん……ちょっと違うけど、まあいっか」
兄妹のそっくりな水色の目が、それぞれ違う想いを乗せている。
——あんまりからかいすぎるのも良くないか。あの時の失敗はかなり堪えてたみたいだし。
クレハは溜飲を下げ、土を払いながら立ち上がった。
「じゃ、あたしはそろそろ帰るわね。アーチュ、また今度ね。トリルもばいばい」
「うん。クレハちゃん、またねー」
「……またな」
見た目は似ているのに性格は正反対の兄妹に見送られ、クレハは今度こそ帰路についた。
このとき、三人を見る影があったことは影の持ち主本人しか知らぬまま、ゆっくりと日が落ちていった。
*
自宅に着くなりクレハは自分が魔法を使えたこと、炎の魔則をもっていることをハンナへ話した。
興奮冷めやらぬ様子を母に見守られ、その夜は力が尽きたかのようにぐっすりと眠った。
翌日、氷の日、養成所での訓練は休みだった。
世界に静寂と休息を与えた、氷神セレシスに則り、休息日とされているのだ。
「最近忙しかったから、なーんか暇だなぁ」
ハンナから頼まれた手伝いも終わり、クレハは暇を持て余していた。
「オレクスとオルディアを行ったり来たり。しかもオルディアでは時間がなくて、中央通りに遊びにも行けないし」
久しぶりに食べ歩きながら買い物でもしようかと考えたが、今からオルディアに行って帰ってくるには時間が足りない。
——他に楽しいことと言えば……。
クレハはピンと閃き、階段を一つ飛ばしに駆け下りた。
「お母さん、今から森へ遊びに行ってくるね!」
「あら、今から? まだ明るいけれどすぐに暗くなるでしょうから、早めに帰ってくるのよ」
「はーい」
締まりのない返事をして、クレハはオレクス村の近くにある森を目指した。
木々が茂る森はオレクスに住む木こりによって手入れがされている。
自然豊かなため虫も多いが、道中虫除けの香を塗って来たので対策はできている。
知恵を授けてくれた父に感謝。否、物持ちのいい母に感謝した。
「久しぶりに来ると気持ちいいなぁ」
木漏れ日がさしこむ木々に囲まれて森林浴を楽しむ。
クレハは大きく深呼吸を繰り返した。
空気が澄んでいて、心まで洗われるようだ。
「アーチュと、ついでにトリルも連れてきたいな。フレッダも喜んでくれるかも!」
オレクスの子どもたちは皆知っている場所なので、今さら連れてきても特別な気分にはならないだろう。
初めて訪れるからこそ、感慨もひとしおなはず。
友だちの屈託ない笑顔を思い描きながら散歩していると、クレハの眼前で茂みが揺れた。
「動物かな?」
うさぎや鹿、猪を見るのは初めてではない。
クレハは、人間の前へ迷い出てしまった野生の動物がそそくさと逃げ去るのを、何度も見かけたことがある。
——今日は珍しいものが見れそう!
今か今かと茂みを注視する。
「——あっ!」
辛抱強く待っていると、少し尖った耳のような部位が見えた。
大きさでいうと猫の耳くらい。
どうやらクレハには見覚えのない動物らしい。
他の部位も出てこないか見張りを続けていると、さらに茂みが揺れて、謎の動物が全貌を現した。
瞬間的に自分の手で口を塞ぐ。
悲鳴をあげて、動物を刺激するわけにはいかない。
——……でも、あれって本当に動物なの?
「……」
クレハは木の幹に隠れ、ひっそりと様子を窺う。
その動物は森に住んでいても何らおかしくない。ただし、大きさがクレハの手のひらに乗るほど小さなものであれば、だ。
通常の個体ならまん丸の瞳がはまっているはずの箇所に、凶暴性を隠しもしない瞳が埋めこまれている。
体も比べるべくもなく大きく、クレハの手のひらに乗るわけがない。
決定的なのは、曲線を描く豊かな毛並みの尻尾だ。
振り回せばもはや凶器になりそうなそれは、クレハの認識と大きくかけ離れている。
「——リスだ」
紛れもなくリスだった。
しかし、あんなに大きく凶暴そうなリスなど、見たことも聞いたこともない。
ならば考えられることは一つ。
魔物だ。
魔物は、動植物が魔素量の多い土地で適応したものだと、グランスから聞いたことがある。
多くが恐ろしい見た目をしているが、一般的な動植物を主食にはしないらしい。
彼らは魔素含有量の多い物を好んで食べているのだとか。
「だから、普通に過ごしているうちはあまり人間や動物を襲わない、って聞いてたけど」
クレハは焦りを抑えようと、小声で思考を整理した。
あきらかに獰猛そうな姿を見ると、いくら元となったリスが可愛くても震えが止まらない。
——もし、いきなり襲いかかってこられたら勝てる気しない……!
推定リス型の魔物が、近くにあった木の幹を齧っているのを目にし、さらに恐れが増した。
「万が一にも人が襲われたら危ないから、駆除することも多いらしいけどさぁ……」
どう考えても今のクレハでは勝ち目がない。
そもそも、この森はオレクスに近く、手入れがされていることもあり、魔物が出ることなどめったにない。
あったとしても、すぐにオルディアの巡行士ギルドへ依頼が出され、安全が確保されているはず。
——それがなんで、こんなところに魔物が出るわけ!?
「とりあえず、村まで逃げて誰かに知らせるべきよね」
混乱の中、なんとか最適解を見つけクレハは行動に移る。
魔物が幹かじりに熱中し、そっぽを向いている今が好機。
できる限り物音を立てないよう、素早くその場を離れた。
「——っ心臓、止まるかと思った!!」
気づかれずに距離をとることに成功し、クレハは安堵の息を吐く。
汗が大量に流れ、息もすっかり上がっている。
早く森を抜け村の大人に伝えなければ、と逸る気持ちを落ち着かせながら、クレハは慎重に走る。
その時、クレハの後方でガサガサと音がした。
「うそ! 魔物!?」
咄嗟のことで大きな声を出してしまったクレハは、音がした方を正面に双剣を構える。
——追ってこられたらすぐ追いつかれるよね!? それなら一発入れて、ふらつかせたところで撤退! 群れだったら……諦めて逃げる!
クレハは覚悟を決め、じりじりと後退しながら敵が出てくるのを見据えていた。
「くるなら来いくるなら来いくるなら来い!」
口の中で虚勢を転がす。
そこへ、物音の正体が姿を現した。
「…………えっ?」
出てきたのはクレハの想像とは違う生物だった。
猫くらいの大きさで、尖った耳をもっている。
牛乳を混ぜた紅茶のような、淡くくすんだ色の体毛。
硬そうな尖った部位と、柔らかそうな毛並みが混在した不思議な体をしている。
四つ足で歩く体には、そこそこ長い尻尾もついているようだ。
「なにあれ、あんな動物見たことない……」
魔物だとすれば、なおさら見たことがない。
別種ではあるがまたも謎の生物に出会い、クレハは頭が痛くなった。
「とりあえず逃げるべき、よね」
先ほど大きな声を上げてしまったこともあり、例のリス型魔物が襲ってくるかもしれない。
人間の声を聞き、恐れをなして逃げてくれればいいが、この場合は悪い方を想定すべきだと感じた。
クレハはもう一度、謎の生物を観察する。
——……あれ、こいつ怪我してる?
謎の生物の体に、噛み跡や引っかき跡らしきものが点在していた。
「手負いの魔物ってこと?」
クレハは思わず、警戒を少し緩めた。
よく見ると、リス型魔物の血走った瞳に比べ、この魔物の目は澄んでいる。
怪我をして弱っているので、そう見えるだけかもしれない。
しかし、こちらを警戒するような顔を向けられながらも、どこか愛らしさのようなものを感じてしまう、そんな魅力があるのもたしかだ。
「……もしかして、あのリスにやられたの?」
クレハは、直感が当たっているような気がした。
木の幹を豪快にかじる姿と、目の前の獣に噛みつく姿が重なった。
クレハの言葉をよそに、怪我をした獣は自分を守るためか、必死にこちらを威嚇している。
低い唸り声は近づくなと言わんばかりだ。
けれど、クレハは何故かその目の奥に、追い詰められ助けを求めているような光を見た。
「こいつ、たぶん魔物だけど……こんなに弱って、独りで戦って……」
クレハは謎の生物を刺激しないよう、じりじりと近づいていく。
ここは森の中。もしかすると、リス型魔物は複数いるかもしれない。
あの魔物に一斉に襲いかかってこられたら、クレハはおろか村の大人だってひとたまりもないだろう。
「……だからかな。あたしは、あなたを守るべきだと思う」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。
クレハは屈みながら、手を伸ばせば指先が届く距離までゆっくりと近づく。
獣の顔つきがさらに険しくなった気がした。
「あたしはクレハ、って言葉はわからないか。でもいいわ。あたしはあなたを襲わない。あなたを守りたいの」
クレハは足元に木剣を置いた。
緩慢な動きで獣に手を伸ばしていく。
すると襲われると思ったのか、クレハの手を勢いよく獣の爪が切り裂いた。
「いたっ!」
痛みに手を引くと、素早い動きに獣の体が揺れる。
さらに警戒させてしまったかもしれない。
「ごめん、怖いよね。でもあなたの足じゃ、きっとあいつらから逃げることはできないわ。あたしが抱えて走るから」
通じないと理解していても、クレハは声をかけ続ける。
獣の右後ろ足には血が流れ、痛々しい様子が窺えた。その足ではリス型魔物から逃げることはできないだろう。
クレハは腰の赤布で自分の血を拭きとると、またゆっくりと手を差し伸べた。
「お願い。あんたを守らせて」
クレハがそっと獣の顎下に触れると、その手を容赦のない牙が襲った。
顔を顰めながらも、手を引くのを堪える。
痛みはあるが叫ぶほどではない。どうやら、獣も相当弱っているらしい。
それならば、とクレハは獣の動向を見守り続ける。
——でも、さすがに次攻撃されたら心折れちゃうかも……。
クレハの心が陰りそうになったとき、噛まれていた箇所から力が抜けていくのを感じた。
目を見開くクレハの前で、手負いの獣は横に倒れて気を失う。
「あっ!……大丈夫、息はしてる。あんた、頑張ったんだね」
クレハは獣が血を流していることに気づき、腰布を一筋破った。
患部の位置を確かめると、人間の傷と同じ要領で巻きつけていく。
そうして、ぐったりと荒い呼吸を繰り返す体を抱え、一目散にオレクスへと向かった。




