第2話 太陽を宿した女
クレハの感覚では、魔素は光の粒のようだ。
しかも、森で見る動物のように、一瞬感じとれてもすぐに見失ってしまう。慌てて追いかけようとすると自分が迷いそうになるので、大人しく引き下がる。
ここ最近の魔素感知の練習はその繰り返しだった。
「一瞬とはいえ、まさかもう感じとれるようになったとはな」
「すごいでしょ! お母さんの話でピンときたんだから!」
オルディアに向かう馬車の中、クレハは胸を張った。
クレハはたまに、炎の日に兵士の仕事へ向かうグランスについて行くことがあった。
クレハが住むオレクス村から、馬車で揺られること約二時間。シルフェオン王国の中でも有数の都市、オルディアに到着する。
「わかってるな、クレハ。人通りの少ない場所や裏路地には近づかない。三時の馬車で必ず帰ること。いいな」
「わかってるってば。あたしそんなにバカじゃないわ」
何度も言わなくてもわかっているのに、グランスは毎回同じことを言い含める。
以前、帰りの馬車で一緒になったオレクス村の住人に愚痴をこぼしたところ、微笑ましそうにされたのも記憶に新しい。
「じゃあ、父さんは行ってくるな。気をつけて帰るんだぞ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
クレハは、兵舎の入口で見張りに立っている兵士とも顔見知りだ。
父を送り出す前に二人の兵士に挨拶をすると、笑顔で手を振られたので気分が良い。
苦笑するグランスに手を振ると、クレハは踵を返した。
「よし、行きますか!」
オルディアは広い。クレハは何度も訪れているが、未だ町全体の地図を把握しているわけではなかった。
主な行動範囲は、西街区にある兵舎周りと様々な店が立ち並ぶ中央通り、そして東街区にある巡行士ギルド周辺だ。
クレハはまず中央通りへと向かった。
中央通りでは、綺麗な外装のお店から豊富な品物が並ぶ露店まで、様々な店がごった返している。
クレハのお気に入りは、美味しい肉串が買える露店と、魔法具を並べた出店、武器防具専門の鍛冶屋に、お洒落な服が飾られた服屋だ。
「昼ごはん代しかないから、武器も服も買えないけどね」
今日の手持ちを探ると、ちゃりちゃりと軽やかな音が鳴る。
銅貨三十枚で三十ティラル。帰りの馬車代も合わせると余りは出そうにもない。
「木剣の手入れ道具とか、新しい靴とか買いたかったのになー」
昼食を抜いてこっそりお金を貯めておく戦法は、クレハの腹の虫により毎度妨害されている。
今日も、クレハの鼻が肉串の甘塩っぱいタレの匂いを嗅ぎとった。
——食べもの以外は眺めるだけになりそうね。
その後もクレハが中央通りを満喫していると、町中に鐘の音が四度鳴り響いた。
「あ、十二時だ」
オルディアと、そこから分かれたオレクスでは鐘の鳴らし方が同じだ。昼十二時を告げる鐘が聞こえると、にわかに騒がしさが増す。
これから皆、昼休憩に入り、飲食店や露店は混雑するだろう。
クレハは本格的に混み合う前に、人波を縫って東街区へと移動した。
「ふん、来たか」
「クレハちゃん、こんにちはー!」
クレハが駆けた先、巡行士ギルドの近くの広場に少年と少女が待っていた。トリルとアーチュの兄妹だ。
クレハを見つけてぶんぶんと手を振るアーチュに、大きく手を振り返す。
茶髪に空色の目をしたそっくりの兄妹だが、偉そうな兄と人懐っこい妹では表情の動き方が全く異なる。
「クレハちゃんは、もうごはん食べ終わったの?」
「うん。なんでわかったの?」
「ふふ、ここ、ついてるよー」
「はっ、タレつけてら! クレハはガキだな」
アーチュに口元を指され、クレハは慌てて口を拭う。指の腹を舐めると馴染みの味がした。
顔に熱が集まると同時に、クレハはぐっと眉を寄せる。
——あたしたちと二つしか変わらないくせに!
十二歳のトリルと、十歳のクレハとアーチュではそう変わらない。
トリルを睨むと、彼の口角が挑発的に上がった。
「わたしたちはこれからごはんなの」
「わかった、待ってるね。トリルは早く食べてよね!」
「うるせっ」
クレハは長椅子に座るアーチュの横に腰かけ、ふっと息を吐く。
——打ち合いまで時間があるし、魔素感知の練習でもしておこうかな。
オルディアを訪れると必ずと言っていいほど、クレハはトリルと木剣の打ち合いをしている。
各地を巡り、様々な依頼をこなす巡行士——その卵を育てる巡行士養成所に通うトリルは、クレハにとって手頃な相手だ。
「ふーっ」
クレハはゆっくりと目を瞑った。
日頃様々な場所へ向いている意識を、自身の体内へ集中させる。オルディアの空気を肺いっぱいにとりこみ、体の隅々へ意識を巡らせた。
かくれんぼで隠れた子を探すように探していくと、やがて緩慢に明滅する光の粒が感じとれた。
一粒見えればいい、二粒以上見えたら上々。そのまま光を見失わないよう集中する。
「クレハちゃん、どうしたの?」
「んー、魔素感知の練習してるの」
「魔素感知ぃ? おまえ、どこで習ったんだよ!」
「お父さんからよ。もう、集中できないから黙ってて!」
「……もう、できるのかよ」
トリルにしては低い声が聞こえ、泡が弾けるように目を開いた。口を曲げた少年は食事の手を止めている。
「はっはーん、悔しいんだ。あたしは天才だからね、一人でもできるのよ。独学ってやつ」
「悔しくねえよ! 俺だってもう魔法使えるんだからな。それで、おまえはどこまでできるんだ?」
「……魔素感知、の一歩目」
尻すぼみになるクレハに、トリルは言葉を理解するよう黙ったかと思えば、機嫌良く笑い出す。
「……なんだよ。はっ、なーにが天才だ! まだまだ何にもできてねーってことじゃん」
「そのうちできるようになるわ! 魔法だってぽんぽん出せるようになるし」
「クレハちゃんすごいねー!」
アーチュの真っ直ぐな賞賛に鼻が高くなる。
トリルはというと、にまにまとバカにしたような笑みを浮かべ、大きな口で挟み焼きを食べている。
——後でこてんぱんにしてやるんだから!
クレハは怒りを胸に、瞼をぎゅっと閉じた。
それから打ち合いまでの間、光の粒は見えなかった。
*
打ち合い相手のトリルと、見学兼審判のアーチュが昼食を食べ終わった。
クレハは手首足首を回し、軽く跳ねて準備運動を始める。
靴紐よし、赤布よし、双剣よし。
高い位置でひとつに結んだ髪を、二束に分けて引っ張る。結び目がぎゅっと締まり、気合いが入った。
「準備はいい?」
「いいぜ。どこからでもかかってこい!」
「じゃあいくよー。よーい、初め!」
アーチュの掛け声とともにトリルが突っ込んでくる。クレハは双剣を構え、トリルが持つ片手剣の軌道を予測した。
クレハの胴を真正面から狙う一撃を、剣で右へと往なす。そして、振り上げた右手でトリルの左肩を狙ったが、彼が持ち直した木剣に振り払われた。
一度距離をとり、今度はクレハから攻勢をかける。
「はあっ!」
「ちっ、おらっ! やあっ!」
トリルの左半身側へ回りこみ、左手で木剣を振り抜く。続く右手は、彼の胴に向けて横突きを叩きこんだ。
トリルは咄嗟の反応により、斜めに構えた木剣でクレハの攻撃を受け止める。
——前は横突きが入ったのに……!
カン、と甲高い音に合わせ、ふたりとも弾かれるように後退した。
「とらぁっ!!」
トリルが両手で構えた木剣を勢いよく振り下ろし、クレハは横っ飛びに躱す。そこを目掛けて横払いがくるのを転がって逃れた。
地を蹴り死角へ入り込もうとするが、トリルも体ごとクレハを追い、決して背を見せようとしない。
養成所に通い始めてから、トリルはめきめきと腕を上げている。元々クレハと同じくらい強かったが、単純な力の強さではもう敵わないかもしれない。
——でも、負けたくない!
「ふっ——はあっ! とっ!」
クレハは急旋回すると、トリルへ勢いよく飛びかかった。木剣を横に構えて防御の姿勢をとる少年へ、連続の斬撃を放つ。
しかし、トリルは体勢を乱すことなく、クレハの攻撃を受け止めた。
つば迫り合い、互いに力を押しつけ合う。
一見拮抗しているように見えるが、クレハはかなりぎりぎりだ。いつ押し返されてもおかしくない。
——それなら!
クレハは体勢を低くし、わざと力を緩めた。力の行き場を失ったトリルが体勢を崩す。クレハは容赦なく、よろめいた少年の右膝を打った。
木剣で足を打たれ、トリルの体がさらに揺らぐ。クレハは、彼が木剣を振り抜くより速く、脇腹へと打撃を叩きこんだ。
「やあぁっ!」
たたらを踏むトリルを、クレハは身を翻しながら躱す。続いて背後へ回り込むと、とどめの一撃を放った。
「はぁっ、はっ、あ、あたしの、勝ちっ!」
クレハは息を切らしつつ、余裕ぶった笑みを浮かべた。
倒れこんだトリルは拳を地面に打ちつけている。
一応審判でもあるアーチュに目をやると、兄を心配そうに見つめていた。
「……くっ、そぉ」
トリルの拳が振られる度に小さく土煙が起こる。
クレハは手を貸そうとトリルに近づきかけ、ふと足を止めた。
なんだか、嫌な予感がする。
「俺だって、俺だって強くなったんだ……」
「お兄ちゃん?」
木剣に打たれた箇所をかばいながら、トリルがゆっくりと立ち上がる。ふらふらと揺れていたかと思えば、いつの間にか右手を広げこちらへ向けていた。
兄に近づこうとしていたアーチュも、何かを察し足を止める。
「シガレイマライ……」
脳が警鐘を鳴らしている。
トリルが何事かを呟いた瞬間、彼の手のひらに向けて何かが集まっていくのがわかった。
——魔素。
クレハは、その何かが魔素であると直感する。
逃げなければ。
そう全身が訴えているが、体がうまく動かない。どくどくとうるさい鼓動が耳元で鳴っている。背筋が震え、足が凍りついたかのように固まっていた。
「サーズ!」
トリルの詠唱らしき言葉をきっかけに、魔素の光が横へ細長く伸びる。何もない場所に突如として現れた流体が、鋭い水の刃となり、クレハへと放たれた。
咄嗟に双剣を構えたが、きっと受けきれない。
迫り来る衝撃を恐れ、クレハはぎゅっと目を瞑る。
「……あれ?」
しかし、いつまでたっても痛みは訪れない。
恐る恐る開かれた金の瞳に、二本の足が映った。
「——は」
引き締まったふくらはぎを辿り、足の持ち主を見上げる。
クレハは目を焼かれた。
太陽が沈む西の空を凝縮したような橙色の髪。暴力的なまでにメリハリのあるしなやかな体。
背後に庇ったクレハと目が合うと、髪と同じ色をした瞳が強く眩しく輝いた。
「大丈夫かい?」
それほど大きくもないのに、よく通る声だ。
クレハは言葉を失い、こくこくと頷くしかできない。
「はは! 驚いてるようだね。魔法を見るのは初めて?」
差し伸べられた手に恐る恐る手を重ねると、勢いよく引っ張られる。
どうやらこの女性に助けてもらったらしい。
ようやく事態を飲みこむと、改めて橙の女性を見た。
「怪我はないね。よし」
面食いの自覚があるクレハでも、有無を言わさず美人だと叫びたくなるような美しい顔立ち。凛々しい出で立ちは一度見たら一生忘れられない。
クレハが呆然と女性を眺めていると、彼女はトリルの方へと向かった。
「少年、無事かい?」
クレハ同様、呆気にとられているトリルに真っ直ぐな声がかかる。
「お、俺、俺は——」
「——みなまで言いなさんな」
女性はトリルの目線まで屈むと、彼が打ち合いで負傷した箇所に右手を当てた。
「シガレイマライ、メティル」
ほのかな光がトリルの怪我を包みこむ。
光が消えると、痛みを庇うように立っていた姿勢が、自然なものへと変わった。
初めて——正確には二度目に見る魔法に、クレハは目を見張る。気づけばトリルの擦り傷や打撲はなくなっていた。
「少年。アンタが一番よくわかってるはずさ」
トリルの傷を治し、女性は彼の胸を小突いた。
クレハには何のことかよくわからないが、トリルはどうやら自覚があるらしい。目を伏しがちに逸らしているのが見える。
「魔に呑まれるな。従えるほど強くなりな」
彼女の言葉に、トリルの目が丸々と見開かれた。空色の目は潤んでいるが、涙は溢れない。それどころか、唇を強く噛んで、一度だけ強く頷いた。
それを見た女性は満足そうに笑うと、トリルの頭をぽんぽんと撫で、どこかに行ってしまいそうになる。
クレハは、考えるより早く彼女の元へ駆け寄った。
「あ、あの! 助けてくれて、ありがとうございました!」
「ああ。これくらい、どうってことないさ」
感謝の礼から顔を上げると、女性はにやりと笑んでいる。
クレハは彼女から目を離せないまま、ぽつぽつと話しかけていた。
「お名前を、聞いてもいいですか」
「ん? アタシの名前? アタシはソルディア」
ソルディア。
目の前の女性はソルディアと言うらしい。クレハは胸の中で何度も名前を呼んだ。
ソルディアが顎をしゃくり、右手を差し出してくる。クレハの名前を聞いているのだろう。
クレハは自分の口の中で繰り返し、噛まないよう大きく口を動かした。
「あたしはクレハです。クレハ・グリッテス」
「クレハ、ね。アンタに似合う名だ」
手甲をしたソルディアと握手する。胸の真ん中が熱くなった気がした。
クレハがソルディアを見つめると、彼女は不敵に笑う。咄嗟に目を逸らしたクレハの頬は、ほんのり赤くなっていた。
「実はアンタらの稽古を見てたんだけどね。二人とも、なかなかいい筋してるじゃないか」
「そ、そうですか!?」
クレハは喜色をあらわにした。
強く美しくかっこいいソルディアに褒められ、嬉しくないはずがない。
それに、ソルディアは明らかに実力者だ。物凄い速さで迫り来るトリルの魔法からクレハを守っただけでなく、その身に傷一つついていない。
クレハはふぅ、と息をついた。
「でもね。クレハ、アンタは今のままじゃもったいないよ」
「——え?」
「アンタ、今の自分が、アタシに一撃入れられると思うかい?」
「そ、れは……」
ソルディアはきっと尋常ならざる実力者だ。
しかし、トリルに勝った今、クレハは父にも剣が届くかもしれない、と感じている。ソルディアにも一撃、ないし二撃くらいは入れることができるかもしれない。
クレハは口を開こうとしたが、もごもごと言い淀んだ。
「一撃どころか、って思ってるようだね。ふふ、いいねぇ。強気な姿勢は嫌いじゃないよ」
「あ……」
「ねえクレハ、アタシと模擬戦してみないかい?」
「模擬戦ですか!?」
クレハが大声を上げると、聞き耳を立てていたらしいトリルとアーチュも驚愕に目を見開いている。
クレハの脳が熱で浮ついた。
模擬戦は嬉しい。しかも、見るからに強いソルディアとだなんて。
——実力を試す時だ。
クレハの胸が高鳴った。
「模擬戦、お願いします」
「そうこなくっちゃね」
ソルディアは快活な笑い声をあげる。
双剣の片割れを手渡そうとすると、彼女は首を振って断った。クレハが万全の状態で戦えるよう、トリルから片手剣を借りるようだ。
彼女はトリルから木剣を受け取ると、数度空を斬っている。その鮮やかな剣筋に、クレハだけでなく、トリルもアーチュも見惚れていた。
「クレハ、始めようか」
「は、はい!」
ソルディアはクレハの方へ向き直ると、靴の先で地面に何かを描き始める。彼女はその場で一周すると、周りを囲むように地面へ小さな円が描かれていた。
「今からアタシはこの円から出ない。アタシをこの円から出したら、問答無用でアンタの勝ちさ」
クレハは息を呑んだ。
これはクレハへの挑戦か、手加減か。
ソルディアの強い瞳がクレハを射抜いている。どちらにしろ、受けて立つしかない。
「わかりました」
「よし、じゃあ始めだ!」
こうしてソルディアとの模擬戦が始まった。
円から出ることができないソルディアは、クレハの攻撃を受けるしかない。
——それなら、一気に畳み掛ける!
クレハは勢いよくソルディアに迫った。
「はあぁっ! やぁっ!!」
決して落とさないよう柄を握り、今のクレハが出せる最高速で剣撃を繰り出す。
軽々と片手で往なされるも、クレハは攻撃を止めない。手数の多さで押して、押して、圧す。しかし、そのどれもが華麗な剣捌きに返された。
「……全然、動いてない」
一度距離をとって位置を確認すると、模擬戦開始からソルディアは全く動いていなかった。
クレハは唖然となり、剣を取り落としかける。
「クレハちゃん、がんばれー!」
「が、頑張れよな!」
アーチュとトリルの声援を受け、拳を固く握るように柄を握りしめた。
——まだ終わってない。手数でダメなら、すばしっこさを活かす!
クレハはソルディアの死角に回るべく、彼女の周りを旋回する。
背後に回り視線を切ったはずなのに、何故か見られているような威圧感があった。下手に斬りかかれば即座に叩き落とされるだろう。
速度を上げたクレハは好機を見計らう。
「ここ!」
ソルディアが背後を伺うために、首の向きを入れ替える瞬間。クレハは一気に彼女の背へ迫った。
まずは左手の斬撃で木剣の動きを牽制し、右手の横突きで胴を狙う。
入った、と思ったのもつかの間、突きは剣身に阻まれていた。
——それなら左手で!
弾かれた左手を引き戻し横に払うと、ソルディアは手首を返しその身を守る。
また当たらない。
クレハは無我夢中で攻撃を続けたが、全て猫と戯れるかのように易々と払われ、受け流されて有効打になり得ない。
「うらあぁっ!!」
「——これで終いだよ」
無我夢中で繰り出した一撃が、一振りに叩き落とされる。
ソルディアの最後の攻撃は、何故か遅く見えた。
どこかで見たことのある剣筋。無駄を削ぎ落とした一閃。
それが、グランスの素振りのように、洗練された動きだと気づいた頃には、ソルディアの一撃に剣を弾かれ、体勢を崩しながら地面に尻をついていた。
——円の外に動かすどころか、一撃も入らなかった……!
クレハは地面を掻くように爪を立てる。
「やっぱりアンタは筋がいいね」
「……でも、一撃も入れられなかった、です」
引っ張り起こされてなお、目を合わせることができない。
ソルディアだけでなく、トリルやアーチュがどんな顔をしているかも見れずに俯くクレハに、彼女は小さく笑った。
「世界は広いよ、クレハ」
「え?」
「一歩踏み出せばアンタより強い奴なんて山ほどいる。二歩踏み出せばアタシより強い奴もわんさかいるのさ」
ソルディアは先ほどトリルにしたのと同じように、クレハの頭をぽんぽんと撫でた。
「その一歩を一気に飛び越えたくなるのもわかる。でもね、面倒で退屈な一歩こそ、明日の自分を支えてくれるのさ」
全て見透かされていた。
トリルにぎりぎり勝てただけで、父やソルディアに届くと思っていた。
父に何度言われようとも、素振りのような地道な努力よりも、楽しいことや早く効果が出ることばかりを沢山やってきた。
クレハの甘さに真っ直ぐ踏みこんだ言葉は、ぐさりと胸に刺さる。
ソルディアは優しく声をかけてくれているのに、芯の強い声に貫かれているようで、クレハは俯き続けた。
「……」
しかし、クレハは逃げることができなかった。ソルディアが逃げを阻むように、少女の横顔を射抜いている。
どこかクレハに対する期待を感じ、がたがたと心の奥が揺れる。
魔法も剣の腕も、見た目も心も何もかも。完膚なきまでに負かされた。惜しいところなど一つもない完敗だった。
「でも……」
——強く、なりたいな。
この人のように。
その思いに背を押され、眼球の熱さを感じながら、クレハはソルディアを見つめ返す。
「あははっ、いい目だ」
クレハの中で何かが弾けた。違う、焦がされた。
存在を丸ごと塗り替えるように、橙色の炎が少女を焼く。
自分の足で立ち上がったクレハに、ソルディアはさらに笑みを深めた。
「あなたは何をしている人なんですか」
「何をって、ああ職業のこと?」
頷くクレハにソルディアが歯を見せて破顔した。
「アタシはしがない巡行士さ」




