第1話 オレクスの少女
オレクス村に建つ一軒のレンガ造りの家。その一室に、カーテンの隙間から朝日が射しこんだ。光は、眠る少女と、枕元に置かれた木剣を照らしている。
「うーっ、はぁ」
体を起こし、クレハは天井に向け大きく伸びをした。瞬きするたびに焦点が定まっていく。
しばらくの間、重い目蓋を擦っていたが、次第に頭が冴えてくる。
「……そうだ! 今日はお父さんが帰ってきてるんだった!」
今日は生命の神の日——生の日だ。
生命の神とは、神々の力を調和させ、すべての生き物に命を与えた、生神イノアのことである。
人々は、明日からの活力を得るため、生神へ祈りを捧げる。
しかし、クレハにとっては、父の帰宅の方が重要なことであった。
生の日は父の仕事が休みになる。週のほとんどを他の町で過ごしている父が、一週間ぶりに家に帰ってくるのだ。
クレハは、軽快な足どりで階段を飛び下りた。
「お父さんお母さん、おはよう! 朝ごはんできてる?」
階下には、鮮やかな赤髪の男性と、淡い茶髪の女性がいた。
クレハの父グランスと、母であるハンナだ。
飛び出すように顔を見せたクレハへ、ふたりは朝の挨拶を返す。
「クレハったら朝から元気。ふふ、今日はお父さんがいるものね」
「ハンナ、お前からも言ってくれよ。せっかくの休みにお父さんをこき使うのは控えたら、って」
「お父さんってば、生の日くらいしか帰ってこないじゃない。愛娘の面倒くらい見なさいよね!」
ため息をつくグランスに対し、クレハは腰に手を当て物申した。ハンナはにこやかに微笑んでいる。
「どんどん口が達者になって……女の子はこんなものなのか?」
「そうねぇ。娘に頭が上がらない父親はよく見かけるわね」
「ふふん! お父さん、ここでは二対一よ」
「……娘は母親によく似るって、このことか」
グランスは俯きがちに頭を掻いた。
クレハは父譲りの赤い髪をしている。瞳も父と同じ金色。顔立ちもどうやら父似のようで、グリッテス一家を見たことがある人は皆、『お父さんそっくりね』とクレハに向けて笑う。
——どうせならお母さん似がいいのにな。
クレハは赤い毛先を指に巻きつけた。
「さて、朝食にしましょうか。クレハ、運ぶのを手伝って」
「はーい」
冷たい水で手を洗うと、クレハはハンナから受けとったパンとスープを、食卓へ並べた。
食欲をそそる匂いに、空っぽの胃袋が騒ぎ出す。三人はおのずと祈りの形をとった。
「生神の恵みに感謝を。いただきます」
湯気がのぼるスープへ息を吹きかけると、小さな池がさざ波を立てる。母特製のスープは、今日も格別の味だ。
続いてちぎったパンを一口。外側が軽快な音を立てて崩れ、顎を動かすたびにほのかな甘味が口内に広がる。
渇きを感じ、クレハはまたスープを飲んだ。
「お父さん、今日の稽古は何時からにする?」
「あー……昼寝から起きたら、とか」
「昼寝って、せっかく早起きしたのに!」
「父さんはもう少し寝たいんだよ。それにほら、お腹いっぱいだと万全に動けないだろう?」
グランスは、今にもあくびをしそうな顔でゆっくりとパンを咀嚼した。
——あたしは、昨日から木剣を手入れして待ってたっていうのに。
クレハの小さな唇がきゅっと尖る。スープを無意味にくるくるとかき混ぜていると、ハンナが穏やかに笑った。
「まあまあ、お父さんもお疲れなのは本当でしょうし、お昼寝させてあげたら? その間、クレハは私の手伝いをしてくれない?」
「お母さん……手伝いはするけどさあ」
「その分きっかりお昼の三時から。クレハの気が済むまで付き合ってもらいなさい。ね、あなた」
クレハと同じ金色の瞳をしたグランスが、縋るようにハンナを見ている。対するハンナは、優しく穏やかに微笑み続けた。根負けしたのか、渋々と父が頷く。
クレハはにんまりと笑うと、スープの鶏肉をごくりと飲みこんだ。
*
食事を終え、クレハは服を着替えに自室へと戻った。
腰にはベルトと、左右それぞれに木剣のホルダーをつけ、さらにお気に入りの赤い布を巻きつけた。
赤い腰布は、母からお守りにと渡されてから、いつも欠かさず身につけている。
「よし。完璧」
鏡のまえでくるりと一回転すると、赤毛の尻尾と腰の赤布が、つられて宙を舞った。
準備を終え、慌ただしい足音を立てながら、ハンナの元へ駆けて行く。
掃除に洗濯、買い物の荷物持ち。母と荷物を分け合いながら、時には村人との世間話に口を挟む。
そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
「お父さん、早く早く!」
「わかったわかった」
クレハは父の手を引き、固い地面を蹴る。
たまに振り返ると、地面に伸びた影の頭で尻尾がぴょこぴょこ揺れていた。
小走りで着いたのは村のはずれ。雑草がまばらに生えた空き地のような場所だ。
目的地へ着いた途端、大股三歩分の距離を開けて、グランスと向かい合う。小刻みに跳ねながら、愛用の木剣を二本構えた。
「クレハ、素振りはどうした」
「えー、だって素振りってつまんないんだもん。お父さんがいなくてもできるし」
「何事も基礎が大事だぞ、って言ってもまだわからないか。まあいい、準備運動がてら一緒にやろう。実戦はそれからだ」
クレハの肩ががっくりと落ちる。グランスが木剣を構えるのを横目に見ると、クレハは木剣を掴んだまま周囲を見回した。
近くに手ごろな石がない。あれば思い切り蹴っていたところだ。
ふと、風が青い匂いを運んできて、顎をあげた。
ふわりと首筋を撫でる感触が心地良い。
目を閉じて浸っていると、突如として皮膚を撫でる風の勢いが強まった。
「なに!?」
空を切る音。グランスの木剣が、一瞬姿を消す。目を凝らすと、剣先が上へ下へと移動していた。
グランスが振っているのは、クレハが手にしている物よりも剣身が長く、重たい木剣だ。
クレハの腕では振るのが困難な代物を、軽々と操っている。そのとき生じた風が、クレハの肌を撫でた。
「……」
クレハの胸が脈打った。その手は迷いなく木剣を一本構え、手本を真似るように斜めの剣筋を描く。空に浮かぶ線を、剣先で素早く力強くなぞるように。
「力みすぎるなよー」
「わかってる!」
グランスから指南を受けつつ、素振りを一振り二振りと重ねていく。
クレハは、いつの間にか二本目の木剣も構えていた。
双剣は左右どちらにも剣を握るため、片手剣や両手剣と構えが違う。常に片方の木剣で防御の構えをとり、右、左、右と交互に振るった。
一心不乱に素振りを続けていると、額に汗が滲み前髪が貼りつく。
「双剣は扱いが難しいってのに、お前も強情だな」
「だって、かっこいい、からっ」
斬撃に合わせ、息を吐く。
そうして何十回と素振りを続ける。宙に傷跡が残るなら、クレハの眼前は斬り傷だらけになっているだろう。
丸い頬を滑り落ちる汗を、手の甲で拭う。
それから素振りを終え、小休憩を挟んだ後、木剣同士がぶつかり合う甲高い音が村のはずれに響き渡った。
「おりゃ!」
クレハの革のブーツが思いきり地を蹴った。
クレハが飛びこんだ先で、右手、左手と振るった双剣が、グランスの片手の構えに受け流される。
衝撃が細い指を痺れさせたが、得物をとり落とすには至らない。
「くっ、とりゃ! やっ! はぁっ!」
「勢いに任せてるようじゃあ、まだまだだな」
グランスの左肩を叩くつもりの一撃が右へ払われ、重ねた二撃目も難なく打ち落とされる。
クレハは体勢を立て直し、木剣の柄をぐっと握りこんだ。
「せやあぁぁっ!」
今度は全身の体重を乗せ、グランスの胴に向かって双剣で斬撃を放った。
しかし、木剣が筋肉を打った感触はない。クレハの攻撃はグランスに押し返され、体は後方へ弾かれた。
靴裏で土を削りながら踏み止まると、眉間に皺が深く刻まれる。額から滑り落ちた汗を手首で拭うと、生ぬるい感触が伝わった。
「あーもう!」
棒立ちのグランスを中心とし、クレハは円を描くように距離を測る。
クレハが考えつく攻撃の軌道は、時に笑い混じりの一瞥に打ち落とされた。剣を振るう前に、届かないことを思い知らされるようだ。
頭が煮えたぎりそうになる。
拳を握るように柄を持ち直すと、全身の力をすべて足に集めた。勢いよく土煙が巻きあがる。
「このっ——!」
クレハはグランスの背後へ素早く回りこみ、鍛えられた背中へ叩き斬りを放った。小回りのききを活かした奇襲は、今日一番の出来だ。
——とった!
クレハの口に笑みが浮かぶ。
しかし、喜びもつかの間、予想外の衝撃に細い背中が傾いた。
「甘いぞ」
「うわっ!」
クレハが、グランスの右肩から左腰へ斜めに振るった双剣。それを、父は振り向きざま、片手で逆方向に叩き落とした。
クレハの小柄な体躯は容易に体勢を崩される。次の瞬間、どしん、と重い音がした。
「っいったぁ!」
「おっと、大丈夫か?」
転んだクレハにグランスが手を差し出す。
クレハは衝撃で取り落とした木剣を拾うと、父の手を借りて立ち上がった。
——今日はここまでかあ。
稽古の終わりを意味するように、双剣をホルダーへしまう。尻と手を払うと、ぱらぱらと土が舞った。
「あーあ、また当てられなかった」
「お父さんは強いってことさ」
「お父さんは大人で、男の人だもん。筋肉とか力とか、あたしとは全然違うし」
クレハはそっぽを向き、足元の小石を蹴った。
一足先に石段へ腰かけた父を追って、軽々と隣へ飛び乗る。
「でも、やりようによっては一撃くらい当てられる。クレハもわかってるんだろ? 前に教えたこと、やろうとしてたもんな」
頭をわしわしと撫でられた。
膝から下をぶらぶら揺らし、声にならない唸りを漏らす。
以前、父から教わったこと。
一つ、双剣の強みは手数の多さ。
二つ、力が足りないなら、すばしっこさを活かして死角から攻撃すればいい。
今回も、半ば勢い任せになりながらではあるが、教えに沿った攻撃をした。それでもグランスには通じなかった。
体格差を負けの理由にはできないと理解はしているが、悔しいものは悔しい。
頬を膨らませかけたところで、クレハはふと目を見開く。
「あたしも魔法が使えたら、もっと強くなれるかな」
「魔法?」
突然の言葉にグランスが首を傾げた。
魔法とは、何もない所から大きな力を発生させる不思議なもの。才能があれば一言二言唱えるだけで使える、というのがクレハの認識だ。
「お父さんも使えるんでしょ? ねえ、なんて言えば魔法が使えるの? 教えてよ」
「あのなあ、そもそもクレハの魔則が何かもわからないだろ?」
「……まそく、って何?」
今度はクレハが首を傾げる。
「詳しく説明すると難しいんだが——まあ、簡単に言うと得意なもの、だな。炎、水、氷、地、風、雷。人にはそれぞれ、扱いやすい魔法の種類があるんだ」
グランスの太い指が立てられる。クレハは指の向こうに、今しがた告げられたものを思い浮かべた。
燃える炎、流れる水、冷たい氷。どれも想像するだけで心が弾む。
固い地、吹きすさぶ風、轟く雷。自由自在に扱う姿はどんなにかっこいいだろうか。
クレハの脳内を六色の自分が舞い踊る中、グランスは言い含めるよう続けた。
「炎が得意なら炎専用の言葉、水なら水専用の言葉って、その人の得意な魔法によって唱える言葉も違うんだよ。だから教えられないな」
「えー、全部教えてくれたらいいじゃん。片っ端から試してみればどれが得意かわかるよ」
「ほーら、そういう危ないことを言うと思った。わけもわからず魔法を使うなんて、一歩間違えたら大事故になるんだからな」
グランスは凛々しい眉をひそめ、魔法の危険性をつらつらと語る。次々と並べられる恐ろしい事件に、クレハの背筋がぶるりと震えた。
半分脅しであろうとも、未知への恐怖は容易に膨らんだ。
「ま、大げさにビビってるくらいがちょうどいいさ」
「じゃあさ、あたしの魔則が何か調べてよ」
「簡単には調べられないんだよ。専用の道具がいるのさ」
グランスが肩をすくめると、クレハは軽く頭突きした。娘の八つ当たりには慣れているのか、父は喉をくつくつと鳴らしながら受け止める。
時折吹く風が火照った体を冷ましていき、長さの違う赤い髪がひらひら揺れた。
「魔法が使えれば強くなれると思ったのに」
「ただ使うんじゃなくて、使いこなせるようになれば父さんにも勝てるかもな」
「本当!?」
「ああ。クレハは父さんと母さんの娘だからな」
大きな手がクレハの頭を撫でる。
髪が乱れる、と文句を言いかけた口は、グランスが続けた言葉によって動きを止めた。
「よし、一つだけ練習の仕方を教えてやる」
「本当!?」
クレハの金色の瞳が夕焼けを吸いこみ、きらきらと光を増す。今にも飛び上がりそうな勢いで身を乗り出した。
「魔法を使うには魔素ってのが必要だ。その魔素を感じとれるようになる練習さ」
「魔素を感じる……どうすればいいの?」
「そう焦るな。まずは目を閉じて、ゆっくり深呼吸する。体の中に意識を集中させるんだ」
グランスの言うがままに目を閉じた。
大きく息を吸いゆっくりと吐き出すと、おのずと全身のこわばりがほぐれていく。
「魔素は目に見えないし声も聞こえない。匂いもないし触れもしないんだ。でも、どんな場所にも魔素はあるし、どんな生き物の体にも魔素は巡っている。俺にも、クレハにも、そこの草や虫にもだ」
「うーん……難しそう」
これまで魔素の存在すら知らなかったのに、いきなりそれを感じとれと言われても、無理な話に思える。
難しさに音を上げそうになったが、どうしても魔法が使いたい。
クレハは、体内の魔素を捉えようと必死になった。瞼の裏、胸の奥、普段は意識しない場所を探っていく。
「んー……」
真っ暗な洞窟を手探りで歩いているような、流れる川に落ちた小石を探しているような、そんな感覚。
風の音も草の匂いも今は遠い。
自分の体だけに集中し、手当たり次第に指を伸ばした。
「…………」
「おーい、今日はそこまでにしとけ」
男性の声が、閉じていた世界へひびを入れた。
一拍遅れてグランスの声だと認識した途端、村から運ばれてきた夕飯の匂いが鼻に入りこんでくる。
いつの間にか詰めていた息を吐くと、なんとなく、遠くに感じていた自分が帰ってきたような気がした。
「っはぁーー。全然わからなかった」
「すぐにできるならみーんな魔法が使えてるさ」
太い指にくるくると眉間の皺を伸ばされ、クレハは脱力する。
魔法で一発どかんと逆転、というわけにはいかないようだ。
小さな唇が尖ると、そのぶんグランスの笑みが深まった。
「ほら、母さんが夕飯の支度をして待ってるぞ」
帰路を先行く父の背がどんどん遠ざかっていく。
その背は、まるで今のクレハがどこまでやれるか、試しているようだ。
固く拳を握る。
「……絶対、すぐできるようになってやる」
クレハは同年代の男の子と剣で打ち合っても負けたことがない。今日は成果がなかったが、細かく教えられないまま初めてやったのだから、できなくて当たり前だ。
——次こそは上手くやってみせる。
深く息をつくと、決意を新たに父を小走りで追いかけた。
*
生まれて初めて魔素感知の練習をした日から、クレハは一日も欠かさず訓練を続けていた。
起きて一回、昼間に一回、寝る前に駄目押しのもう一回、と行うのが習慣になっている。
念のため、時間も場所も変えながら何度も集中したが、未だ靄みたいなものしか感じとることができない。
「今日もだめだったかあ。お父さん、また明日オルディアに行っちゃうしな」
自室の壁にかけた暦表の前に立つと、今日の日付の下に大きなバツ印をつける。
前回グランスが帰ってきた生の日から、炎、水、氷、地、風、雷、と六つの属日が巡り、また週の最後である生の日が終わった。
父の仕事は、クレハが住むオレクス村の近くの都市、オルディアの治安を守る兵士だ。明日、炎の日になれば、父は次の生の日までオルディアに行く。
「本当にできるのかな」
少し不安になった心を押しこむように布団へくるまった。
双剣の稽古も、魔素感知の助言をもらうのも、週に一日だけしかできない。グランスには、焦っても結果はついてこない、と言われているけれど。
——でも、早く魔法を身につけてお父さんをぎゃふんと言わせたい!
火照った顔と手足を布団からさらけ出し、ぎゅっと目を閉じた。
*
次の日、グランスは朝早くに、馬車で都市オルディアへと向かった。
クレハはハンナとともに父を見送り、いつも通り家事をこなしていく。
「クレハ、今日は久しぶりに夕焼けを見に行かない?」
「いいわね! ちょうどよく晴れてるし、綺麗に見えそう!」
ハンナは空が好きだ。特に夕焼けの空には目がない。
ハンナにつられ空を見るたびに、クレハも空の雄大さや美しさに惹かれていった。
空好きの親子の共通見解は、「オレクスで空を見るなら丘」だ。
村の近くにある小高い丘に上り、クレハとハンナは腰を下ろす。
「うわぁ……」
「うっとりするわねぇ」
視界の端から端を埋め尽くす空は、見事な色をしていた。
頭上には雲一つない青空の名残があり、地上へ近づくにつれ橙色に染まっていく。黄金の太陽が、地平線へゆっくりと隠れていく。
クレハはその美しさに惹きこまれた。
「昼は一人で皆を照らしてくれた太陽が、夜は月や星に役目を交代するのよ。その直前にね、自分を忘れないでって空を真っ赤にしてしまうの。ほんの少しの間だけね」
ハンナが時折語る空の話は、おとぎ話のように現実味がない。それでも何度も聞きたくなる。
母と肩を寄せ合いながら、心地よい声に耳を傾けていた。
「私ね、夕焼けの空は、甘くて温かい色でいっぱいだと思うの」
ハンナの手がクレハの後頭部を撫でる。優しい手つきに胸が温かくなり、目が潤み始める。クレハは必死に泣くのを堪えた。
「クレハもお父さんも、真っ赤な髪に金色の瞳。私の大好きな夕焼けの色よ」
「お母さん……」
「焦らなくても大丈夫。負けず嫌いなのはわかってるわ。でも、毎日食事で祈りを捧げる時にはできてるじゃない」
やっと、ハンナがクレハを励ましてくれていることに気づいた。優しい母の肩に、頭をこつんと寄せる。
「食事のお祈りとは違うんじゃない?」
「そうかしら。お祈りの時、私はここにいますよって伝えられてるわよね。魔法だって同じことよ、きっと」
「同じこと?」
「私は魔法に詳しくないから、正解を教えることはできないけど。私はここにいて、あなたもそこにいるのねって、伝えたらいいんじゃないかしら」
クレハの肩にハンナの腕が回り、そっと抱き寄せられた。
クレハはここにいて、ハンナが隣にいる。そして魔素はどこにでもある。クレハの中にもハンナの中にも、きっと隣にも。
——魔素にも語りかけてみればいいのかな。
そのやり方は、これまでの無我夢中な探し方よりも、しっくりくる気がした。
「お母さん、天才」
「そうでしょ。クレハのお母さんだもの」
クレハは、もう一度空を視界いっぱいに捉える。
温かな色がどんどん地上へ近づいて、太陽は半分隠れていた。今にも濃紺の夜空が下りてきて、そろそろ月や星が見え始めるはずだ。
——お母さんの言うとおり、太陽が忘れてほしくなくて空を真っ赤に染めているのなら。いつも側にいるのに忘れられている魔素は、もっと寂しいのかもしれない。
クレハは、太陽が完全に沈むまで、空から目を離さなかった。
「ふーっ」
寝支度を整えベッドに座ると、大きく深呼吸した。日課になった魔素感知の練習だ。
これまで心に居座っていた逸る気持ちは、片隅で小さく萎んでいる。
もう一度深く呼吸をし、瞼を閉じた。体の内側を覗き、魔素を探し始める。
頭、胸、腕、腹、それに腰、足と順番に意識を巡らせた。ひとつひとつ、そこにいるんでしょ、と声をかけるように。
ふと、違和感があった。小さな小さな光の粒をうっすら感じたような気がした。
「今のが魔素!?」
驚いて目を開けた瞬間、消えてしまう。
もう一度脱力して挑戦したけれど、今度は感じとれたかどうか、曖昧だった。
しかし、昨日までの無反応に比べれば、微かに光が見えただけでも大きな進歩だった。
「たぶんこれだよね……ふふ、やった! やっぱりあたしはできるんだ! お母さん天才!」
クレハがぴょんぴょんと飛び跳ねるのに合わせ、ベッドがぎしぎしと軋む。
このまま練習を続ければ、魔素感知を自在にできるようになるはずだ。まだまだ時間はかかるかもしれないけれど、絶対にできるようになる。
「明日からも頑張ろう! そして、早く魔法を使えるようにならなくちゃ!」
クレハはベッドで跳ね続け、はしゃぐ音を聞きつけたハンナから苦言が飛んでくる。
それでも上機嫌に笑う少女の横顔を、窓辺から月と星が照らしていた。




