祈りの行方
暗い石壁と石畳。小さく灯った蝋燭の火が、二人の足元を照らしている。湿った空気が淀み、どこかで水の滴る音だけが、規則正しく響いていた。
「聞いた? マルクト。ニンチェンがやられたらしいわよ」
高いヒールの音が響く。少女は口を尖らせ、二つに束ねた黒髪と大きなリボンを揺らした。
「いいよ。どうせ失敗だ」
蝋燭の火に照らされたふわふわのフードが赤く染まる。少女はマルクトのフードについた長い飾り耳とポンポンで遊んでいる。マルクトは嫌がる素振りも見せず、ただ前だけを見て歩いていた。
「どうして誰も聖女様を降ろさないのかしら」
「ホドの布教が足りないんじゃないの」
「アタシのせいだって言うの?」
ホド、と呼ばれた少女は不機嫌そうにマルクトのフードの耳を引っ張った。
「実行部隊はアンタでしょーが」
「ボクは忠実に実行している。タンラの信徒は聖女様よりニンチェンへの信仰を取ったんだ。……腹立たしいね」
「他の神への信仰なんか許さなきゃいいのよ」
「それは教義に反します」
ぴしゃり、ともうひとつ声が響いた。明かりの向こうに、背の高い男性が立っている。
「聖女様はどんな神への信仰もお許しになる。全ての生命の源──神樹の化身なのですから」
男性は分厚い本を抱き締め、愛おしそうに目を細めた。指先が、古びた表紙を慈しむようにそっと撫でている。
「わかってるよ。コクマー以外も揃ってるの?」
「残念ながら。ゲブラーは東方に掛かりきりですし、ビナーも相変わらず。竜の眼の研究にお熱のようです」
「ケセドさんは?」
「新しい孤児院の建設だそうです。〝調達〟は済ませておいたとのこと」
「そ。ならいいや」
三人は扉を開ける。重い扉が軋んで、鈍い音を立てた。中には大きな円卓に、十の席が設けてある。一つには銀の甲冑を着た凛々しい中年男性。もう一つには筋骨隆々の厳めしい男性。イェソドも揃っていた。
「おう、これで全員かよ」
「相変わらず集まり悪いね」
「みんな忙しいんだから仕方ないんじゃない?」
「わかってるなら労ってほしいです……」
イェソドの大きな溜め息が零れる。マルクトは席を見渡して口を開いた。
「で? 何の用なのケテル」
「……アビスに動きがあった」
アビス。その名が出た瞬間、全員の顔色が変わった。ホドはワイングラスを回す手を止め、コクマーは本を閉じる。円卓を囲む空気が、ぴんと張り詰めた。
「それは……是非協力を得たいですね」
「まだ痕跡を追っている。だが鎖魄衆にも何か掴んだような動きがあった。邪魔が入ると面倒だ」
「ならなおさら……ボクはロマーニに行くとしよう」
マルクトは引き摺る程長い袖をふわりと浮かせ、席を降りた。
「種は撒いた。後は贄があればボクが現地に行くだけだ」
「毎回思うんだけど、贄って現地調達じゃダメなわけ?」
血のように赤いワインに口をつけ、ホドが首を傾げる。コクマーは教典を眺めながら優しく答えた。
「孤児の方が足がつきませんからねえ」
「その経営費とか僕がやりくりしてるんですけど……」
イェソドが頭を抱え、机に突っ伏した。巻き毛がしおれたように垂れ下がっている。
「イェソド飛空艇用意して。帰りは転移するから回収よろしく」
「帰りも乗って帰って来てくださいよぉ……」
「待て。ネツァク。お前も行け」
終始静かだったケテルがマルクトを制止する。
「なんでじゃ。戦闘でもあるんなら歓迎だが」
「近くで〝黒騎士〟の目撃情報があった。ニンチェン討伐直後だしな……何もないとは言い切れん」
「わかった。行くよネツァク」
「黒騎士かや! 会えるといいのう!」
「邪魔されない方を祈って脳筋」
小さな体と大きな笑い声が、暗闇に溶けていった。残された円卓に、蝋燭の炎だけが静かに揺れている。
一方、某国孤児院
夕暮れの光が、小さな礼拝堂のステンドグラスを通して床に色とりどりの影を落としていた。
「シスター……お話が……」
修道服に身を包んだケセドは、青年に呼ばれにこやかに振り返った。
「どうしました? お話とは?」
「それが……デンジとカロアが……ニアも……探したんですが……」
青年は俯いたまま、震える手で服の裾を握り締めている。
「まぁ……なんと痛ましい……」
ケセドは胸を抑え、一粒の涙を流した。その場に跪き、祈りを捧げる。組んだ両手の間で、涙が静かに床へ落ちた。
「でも大丈夫……聖女様はきっと受け入れてくださいます……あの子達も幸せになれることでしょう」
「はい……!」
青年は安堵したように顔を上げた。夕闇が紅く染まる。ケセドの影が長く、長く伸びている。
******
──ここはどこだ。
ティファはぼんやりと辺りを見渡した。
木の床。古い台所。窓にカーテン。カレンダー、時計……。
酒瓶や空き缶が転がっている横で、自分は小さく踞っている。
誰かが殴られている。鈍い音が、壁越しに何度も響く。次は自分の番だと、音を立てないように縮こまっている。膝を抱える腕に、爪が食い込むほど力がこもっていた。
(ああ、昔の夢か)
酷く朧気な、もう遠い昔のような。前世と言っても、思い出せることはもう少ない。ずっと今を生きることで精一杯だった。役に立つような知識も、この世界にはほとんどない。
(──嫌だったな)
どれだけ生きても、努力しても、心はすり減る一方だった。忘れてしまえた方が、ずっといい。
(──帰りたい)
私が生きる場所は、もうここじゃない。小さく踞ったまま、ひたすら朝を待った。
ようやく目覚めることができると、全身汗まみれだった。シーツが肌に張り付いている。
(──久々に見たな)
汗を拭い、ベッドを降りる。相部屋のリコ達はまだ眠っていた。穏やかな寝息に耳を澄ませ、ティファは足音を忍ばせて風に当たろうと病室を出た。空はまだ白み始めたばかりだった。
(大丈夫──私はティファ・キルメリアだ)
前世が何であろうが、今はそう名乗って生きている。冷たい風を大きく吸って、ひとつ吐き出す。肺の奥まで、澄んだ朝の空気が満ちていった。
親の顔も知らない。夢に出てきた親もろくでもなかった。だが今は、たくさんの人に救われて生きている。
(シスター……私頑張るよ)
東の空が、ゆっくりと薄紅に染まり始めていた。




