四人目
「ふっふーん。次はどこの町に行こうかしら」
鼻歌を歌いながら、リコは地図を広げた。町の外れにある乗り合い馬車の定期便発着所で、自前のトランクケースに座り目的地を探していた。
乾いた風が吹き抜け、旗竿の布がぱたぱたと音を立てている。砂埃の舞う広場には、荷を積んだ馬車が数台、出発の時を待っていた。
「こっち方面だとヴァルモンスには行かないのよねえ…でも都会って人が多いし…」
うーん、と首を捻る。特に目的地のない旅だと、行き先を決めるのに苦労する。贅沢な悩みを抱えて、リコは地図を畳んだ。肩から掛けた鞄に地図をしまう。
「ま、なるようになれだわ」
足を揺らしながらのんびり馬車を待っていると、遠くから聞き覚えのある声がした。
その方向を見遣ると、町の方から物凄い速度で誰かが走って来る。地を蹴る足音が、次第に大きくなって近づいてくる。土埃を巻き上げ向かって来る〝それ〟は、確かに自分の名前を呼んでいた。
「見つけたーー!! リーーコーー!!」
「あら、昨日のお兄さん」
トリュー、だったかしら。記憶を掘り出し、ついでに無礼な失言も甦って青筋が浮かぶ。
だが、彼は昨日の気の抜けた表情とはまるで違った。切迫した何かが感じ取れる。
近くまで到達すると、上がり過ぎたスピードを殺すようにズザザと音を立ててリコの前に滑り込んだ。全身から汗が吹き出し、苦しそうに肩で息をしている。両膝に手をつき、肩を大きく上下させる様子から、余程遠くから走って来たのだろうことが窺えた。
「何かあったの?」
トリューはぐ、とひとつ息を飲み、用件を伝える。
「頼む…ティファを…助けてくれ…ッ!」
******
リコは運良くまだ昨日の町に滞在していた。トリューは地面を蹴り抜くような勢いで駆け続け、一晩で森を抜けた。
事情を説明すると、「すぐに案内なさい」とリコは答える。その言葉に強い安心感を覚え、リコと荷物を担いで再びトリューは走った。白んでいく空の下、二つの影が街道を駆けていく。
道半ば、ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。見上げる間もなく、それは次第に強さを増していく。
雫が顔を流れる。道がぬかるみ始めても、トリューは構わず地を蹴って進んだ。濡れた髪が額に張り付き、視界を遮ってなお、速度は緩めなかった。
「来たか」
「ゼェ…ッ、ゼェ…! ハァ…み、みつけた…ッ!」
休む間もなく一昼夜駆け回ったトリューは、酷く疲弊していた。膝が震え縺れそうになる足を、なんとか踏ん張って留める。雨で濡れた服が、重たく体に張り付いていた。
しかし、今はティファの方が危険な状態にある。宿で休むこともできず、昨晩よりもさらに衰弱していた。
「診療所はあるのね? そこを借りるわ。運んでちょうだい」
「任せろ」
ガジが立ち上がり、村の診療所へと向かう。大きな体で雨から庇うように身を屈め、急ぎながらも揺らさぬよう慎重に運んだ。主人の許可を得て、ティファを診察台に寝かせる。
「治せそうか」
「まだわからないわ。まずは対症療法よ。衰弱しきってる」
リコは肩に掛けた鞄から数種類の薬瓶を取り出し、小型の蒸留器に並べていく。かすかな泡立ちの音を立てて、液体が静かに抽出されていく。その傍ら、すり鉢で薬草を潰す乾いた音が重なった。
張り詰めた沈黙の中、二つの音だけが規則正しく響く。ティファが液体を飲むこともできないと判断すると、村医者に点滴の準備を促した。
──静かに時間が流れていく。雨は未だ止まず、夜の帳が空を覆っていく。ランプの灯りだけが、薄暗くなった室内を照らしている。ガジとトリューは、拳を固く握り締めたまま、祈るようにリコの作業を見詰めていた。
「あった…これだわ。ツツグモに噛まれて感染したのね」
「わかったのか」
「……ッ!」
リコの手元を見ると、ティファの腰部分が赤黒く変色していた。痣にしては黒く、禍々しい。
「噛まれたことに気づかなかったのか…初期治療はされてないわね。肺炎に心筋炎、循環不全…酷い状態よ」
淡々と症状を連ねられ、血の気が引いていく。ガジのこめかみにも冷や汗が流れる。不安は秒を重ねるごとに募るばかりだ。
「治る…?」
不安そうにトリューが尋ねる。リコでも治せなかったら、もう当てがない。ティファの体力ももたない。リコだけが本当に、最後の希望だった。
リコはトリューの気持ちを察したように、ふわりと微笑んだ。
「安心なさい。治せるわ」
その言葉だけで、2人の心は救われた。トリューは大きく息を吐き、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。ガジも肩の力を抜き、逞しい腕で顔を一度拭った。
******
──雨の音がする。ぼんやりとした頭のまま瞼を開けると、薬品の匂いが鼻についた。窓を叩く雨粒の音が、やけに遠く聞こえる。
「ティファ!」
「おお…目ェ覚めたか…!」
声がする方に顔を向ける。まだぼう、とした頭で、それがガジとトリューだと認識した。
「……おなかすいた」
同時に腹の虫が喚く。随分長く眠っていた気がする。
ガジとトリューはしばらく呆けた後、堰を切ったように笑い出した。
「あっはっは! お前…ッ、まじ、ほんとさぁ…!」
「ぶわっはっはっは! 心配させやがって!」
そのまま2人は床に崩れ落ちる。トリューはベッドに肘をつき、ガジは座り込んで膝を叩いた。
何がそんなに可笑しいのか、と考えていると、がちゃりと部屋のドアが開いた。
「あら賑やかだこと」
視線を向けると、すり鉢を抱えたリコが目に映った。朦朧とした意識の中で聞こえた声が、ぼんやりと思い出される。
「ティファ! リコが助けてくれたんだぞ! ちゃんとありがとう言え!」
「ふふ」
ごとり、と机にすり鉢を置き、リコはティファが寝ているベッドへ歩み寄る。「よいしょ」と登ると額に手を当て、熱と脈を測っているようだった。だんだんと意識がはっきりしてくる。
──そうだ。熱が酷くなって、森で倒れたんだ。
「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
簡潔に返事をして、リコは「うん」とひとつ頷いた。
「熱は引いたわ。でも食事は当分軽いものよ。消化管が傷んでるからね。投薬もまだ続けるわよ」
「ありがとう…」
ひょい、とベッドを降りて、リコは机の椅子に登った。小さい体でよじ登る姿が、なんだか愛らしく見えた。
むくりと体を起こすと、少し視界が白んだ。余程長く眠っていたのだろうか。
「私は病気だったのか?」
机で調合を始めたリコに尋ねる。健康や衛生には気をつけていたつもりだった。それでも防げないものだったのだろうか。
「虫に噛まれた覚え、ない?」
リコはすりこぎ棒を回す手を止めずに尋ねた。──虫。そう言われて記憶を掘り返す。最近の心当たりを探すと、あの温泉の風景が浮かんだ。
「……あるな」
「やっぱりね。腰部分だったから、自分じゃ見えなかったんでしょう」
椅子を降りたリコが、再びティファのベッドによじ登る。薄い寝巻きを捲ると、ティファの左腰を指で差した。
「ここ。噛まれた時は虫刺され程度でも、放っておくと厄介なのよ。初期治療をすればここまで重症にはならないのだけど…虫刺され程度じゃ、みんなそこまで気にしないのよね」
リコは困ったように「はあ」と嘆息した。
「でも、一応浄化魔法掛けたぞ?」
初期治療、と言われて、当時自分がしたことを思い返した。その時確かに、噛まれただろう部分に浄化魔法は掛けたはずだ。
「ちなみに、どんな浄化魔法を掛けたの?」
「ルスト…ってやつ」
シスターに教わった浄化魔法が、それだけだった。熟練者のシスターと違って、ティファは消毒程度の効果しか出せないが、それでも何もしないよりは…と思っていた。
リコは「なるほど」とひとつ呟いて、ティファの額をピンと指で弾いた。
「いて」
「消毒程度でも、と判断してルストを掛けたことは評価してあげる。でも、その後医者に見せず初期処置を怠った。結果、あなたは命を落としかけたのよ?」
言葉に詰まった。ぐうの音も出ない。弾かれた額が、ひりひりと痛む。
「この〝黒瘡病〟はね。潜伏期間が長いの。発症まで日が開くから、余計に気づきにくい。発症したら手遅れ、なんてザラにあるのよ」
リコの真剣な眼差しが刺さって痛い。ガジとトリューも、俯いて話を聞いている。
温泉ではたまたまティファが噛まれたものの、その場にいたガジとトリューも感染する可能性は十分にあった。下手をしたら、訳もわからず全滅していた。
「ま、これに懲りたら今後ただの『虫刺され』を甘く見ないことね。完治まではちゃんと面倒見てあげるわ」
そう言ってリコは言葉を結んだ。ティファの胸が、じわりと熱くなる。窓の外の雨音が、少しだけ和らいでいる気がした。
「……リコは」
「ん?」
ベッドを降りようとするリコを引き留める。足を投げ出したリコがにこやかに振り向く。
「リコは、なんで旅してる?」
聞いてみたくなった。この強い女性の、旅の目的を。何の為に、旅をしているのか。
「……あなたみたいにね。知識不足による医療事故を、少しでも減らす為よ」
そう答えて、リコは少し俯いた。その目元はなんだか寂しそうにも見えた。
「無知であることは恥じゃないわ。でも、間違った知識は時に人の命を奪う。助かるはずだった命が消えてしまうのは──やっぱり悲しいじゃない」
ふと、ミィデのことを思い出した。あの時、自分に医療の知識はなかった。できることなんてなかった。
でも──もし中途半端に身につけていたら。間違った知識でミィデを殺していたのは、自分だったかもしれない。
ぶるりと寒気がした。病の悪寒ではない冷ややかさが、ティファの全身を包んだ。
ティファは顔を上げ、リコの目をじっと見た。──翠色の瞳が、強く綺麗だ。ティファはひとつ決意をして、口を開いた。
「一緒に行かないか」
それは、ティファから初めての、旅の誘い。共に行きたいと心から思った、初めての願い。
「どこへ?」
「どこへでも。まずは、トリューの探し物かな」
床に座ったままのトリューは、肩を竦めて困ったように笑った。
「あら、何か失くしたの?」
「そんなとこ。私達には医療の知識がない。リコが一緒にいてくれると助かる。必要なら金も払うよ」
「あら! 雇ってくれるの? 私高いわよ~」
実年齢とは程遠い、愛らしい笑顔でリコは笑った。花のピアスがきらりと揺れる。蜂蜜のような髪が日差しを返して艶めいた。
「ふふ…言い値で払うよ」
リコが金で動く人間でないことは、よく知っている。冗談めかした誘いでも、リコは楽しそうに了承した。
雨はいつの間にか上がっていた。窓の外、雲の切れ間から差し込む光が、埃っぽい部屋の中を淡く照らしている。乾いた土の匂いが、開けた窓から流れ込んできた。
旅の仲間が増えた。また賑やかになりそうだ。




