彷徨の果て
馬車の件があった翌日。長い雨が上がり、雲の隙間から光が差していた。
まだ油断ならない空模様だが、出立には十分な天気だ。濡れた石畳が朝日を跳ね返し、水溜まりに千切れた雲が映り込んでいる。
「じゃあね。なかなか楽しかったわ。ご縁があったらまた会いましょ」
「ああ。そっちも元気で」
「達者でな」
「次会っても苦い薬は飲まさないでくれ…」
「それはそちらの態度次第よ」
リコを「おばちゃん」呼ばわりしたトリューだけが、苦い顔でぼやいていた。リコは大きなトランクケースを手に、軽やかな足取りで町影へと溶けて行った。
「じゃあ俺らも行くか」
「まだベロがおかしい…」
「いい勉強になったろ」
町を抜け、しばらく穏やかな街道を歩く。地図によれば、このまま街道を進んでも翌日には次の町に着く。
しかし、またいつ降り始めるともしれない空模様を見上げ、少しでも先を急ごうと森を抜ける道を選んだ。
治安がいいのか、比較的穏やかな森だった。そこかしこに獣の気配がする。木漏れ日が揺れる下草を照らし、昨夜の雨の匂いがまだ土に残っていた。前日までの雨で濡れた土に注意しながら、先へ先へと進んで行く。
昼時になり、何か食べるかとトリューが獲物を探す。ガジも賛成し、一度荷物を下ろす。
「じゃあ、ティファは水場探して来てくれ」
ガジにそう言われたが、ティファはすぐに答えられなかった。──やけに頭が重い。
「ティファ?」
再度名前を呼ばれ、はっとする。軽く首を振り、2人の元へ歩み寄る。
「悪い。ぼーっとしてた」
「大丈夫かお前」
「なんか顔赤くねえ?」
そうだろうか、と自分の頬を触る。言われてみれば確かに、やや熱を持っている気がする。
昨日はだいぶ雨にも濡れた。風邪でも引いただろうか、と考えたところで、トリューが青い顔をして口を開いた。
「もしかして生理じゃ…!」
「違う」
「お前知ってんのか」
「前に酒場のおば…女将に怒られた」
あの拳骨痛かったぁ、とトリューは頭をさすっている。一応学んではいるんだなと感心した反面、複雑な気持ちになった。
「たぶんただの風邪だから」
「そうか? 無理すんなよ?」
「なら早く町に着いた方がいいな。急ぐぞ」
「悪いな」
結局昼休憩は諦め、そのまま町へ向かうことになった。
******
「ほいよっ」
ざしゅ、と軽い音がする。大きな鹿角の魔物が、ゆっくりと倒れていく。
「一応いるにはいるんだな、魔物」
「マナを溜め込んで変異したり、増殖した生物の総称だからな。どこにだっている」
「難しい話はわかんねえ」
「難しくねえ」
前を歩く2人の軽口が、やけに遠く聞こえる。ティファは一度も武器を抜かないまま、ただ歩いていた。
視界は狭く、ぬかるんだ土と2人の足元だけがぼんやりと映っている。木々のざわめきさえ、水の中で聞くように遠い。
「また出た」
がさり、と茂みが揺れるのが見えた。何かが飛び出したようだが、ティファにはそれが何かはわからなかった。
「お前1人でやれんだろ」
「たまにはガジもやれよ」
「お前らでどうしようもなくなったらやってやる」
「えー。じゃあ今度はティファがやってよ」
「ああ…」
トリューの声で、双剣を握る。だが、なぜだろうか。いつもの数倍、重い。
「おいティファ。大丈夫か」
「ふらふらだぞ?」
「だい…じょうぶ…」
柄を握り締め、標的を見据える。しかし、視界が揺らいで魔物がよく見えない。マナも上手く感じ取れない。木々の緑が滲み、音が遠くなる。
ぐ、と踏み込もうとした瞬間、膝の力が抜けた。そのまま、地面に倒れ込む。頬に触れた土は、昨夜の雨を含んでひんやりと冷たかった。
「ティファ!」
「おい!」
声が、遠い。頭が酷く痛む。呼吸が苦しい。朦朧とした意識の向こうで、シスターの声を聞いた気がした。
******
「ティファ!」
「おい!」
赤いような、青いような顔をしたティファが倒れる。すぐに駆け寄り体を起こすが、息が荒い。なのにぐったりしている。
「ガジ、どうしよう!」
慌ててガジに助けを求めると、ガジは素手で魔物を投げ飛ばしていた。その後すぐに側にしゃがみ、ティファの額に手を当てる。
「ひでえ熱だな…すぐ医者に診せる。急ぐぞ」
「うん!」
ティファをガジが抱え、トリューはガジの荷物を代わりに持った。急げばすぐに森を抜けられる。
2人は魔物が襲う間もない速度で森を駆けた。木々が後方へ飛ぶように流れ、荒い息遣いだけが響いた。
森を抜けた先にある町の診療所に、急いで駆け込む。ティファは息も絶え絶えに、苦しそうだった。
町医者はティファの診療を始める。落ち着かない様子で治療を待つが、医者はなぜかなかなか治療を始めない。薬棚が並ぶ小さな部屋に、沈黙だけが重く垂れ込めていた。
「どうした。早くしてくれ」
ガジが急かすと、医者は暗い顔で振り向いた。その表情に、嫌な予感がした。
「すまない…これはただの風邪じゃない…しかも…私には原因がわからない…」
「は!?」
思わず立ち上がった。がたん、と椅子が転がる。
「なんで! お前医者だろ!」
「本当にすまない…私の腕が足りんばかりに…」
白い髭を蓄えた町医者は、申し訳なさそうに俯いた。トリューの握る拳が強くなる。町医者の誠意が見て取れるだけに、悔しさの矛先がわからなくなっていた。
「ただの風邪じゃねえことはわかるんだな?」
「ああ…胸部に赤い発疹が出ている。普通の風邪ならこうはならない」
「十分だ。他を当たる」
「すまないね…」
いくぞ、とガジに促され、診療所を後にした。
その後も町を駆け回り、医者や薬師を当たってみるものの、誰1人としてティファの治療ができる者はいなかった。そうしている間にも、ティファはみるみる衰弱していく。
結局2人はその町を諦め、隣の集落に望みをかけることにした。小さい村だが、医者の1人くらいはいるかもしれない。
日はとうに落ちた。顔のない月が2人を冷たく見下ろしている。可能な限りティファを揺らさないよう、2人は走った。
希望を持って隣村に到着したガジとトリューだったが、現実は残酷なものだった。その村の医者も、ティファの病気の原因を突き止めることはできなかった。
挙げ句、これ以上連れ歩くのは危険だと判断し宿を取ろうとすると、「疫病は御免だ」と宿泊を断られた。
「んだとてめえ!」
「よせトリュー。悪かったな。行くぞ」
「でも!」
つい激昂したトリューを、ガジが制止する。息苦しそうに浅い呼吸を繰り返すティファを見て、トリューはようやく握った拳を引っ込めた。
「クソっ…! まともな医者はいねえのかよ…!」
トリューは焦っていた。忌々しげに小石を蹴る。
ティファを診てくれた町医者が、まともだったことは理解している。今自分が吐いた台詞が、理不尽であることも。
だがこうしている間にも、ティファはどんどん弱っていく。何もできない無力感と苛立ちが、トリューの焦燥を加速させた。
「まともな医者…か…」
毛布に包み、温めるようにティファを抱えて縁石に座るガジがふと呟いた。星が瞬いている。雨でないことだけが、不幸中の幸いだった。
「あの嬢ちゃん、まだ近くにいねえか」
「あっ…!」
ガジの言葉で、お団子頭が脳裏に浮かぶ。
──あいつなら、リコなら。
ティファはガジに任せ、トリューは全力で地を蹴った。
ガジは腕の中の熱を確かめるように、そっとティファを抱え直す。星明かりの下、ただ祈るように、小さくなっていく背中を見送った。




