選べない未来
言葉がわからないのは不便だった。
治療の合間に言葉を教わり、少しずつこの世界の会話を覚えた。
ある日、自分が「ティファ」と呼ばれていることに気づく。
文字を覚えた頃には、古い机や服にも同じ名前が残されていることを知った。おそらくこの家にいた誰かの名前なのだろう。
与えられた服は少し大きい。──歳の近い、娘がいたのだろうか。
だが、そのことは詳しく聞かなかった。
あれから五年が経った。
春には畑を耕し、夏には草を刈り、秋には収穫を手伝う。土の匂い、刈った草の青臭さ、実った麦の乾いた匂い。季節ごとに移り変わる匂いを、随分覚えた気がする。
家畜の世話や、山菜採りも覚えた。
言葉も随分流暢になり、農業も指示無しで手伝える程に成長した。
家畜の解体だけはどうにも苦手だったが、世話になっている以上は、向き合わざるを得なかった。
殺し、奪い、捌き、食べる。
その度に「いただきます」に力を込めた。
前世での労働は苦痛でしかなかった。休んでも疲れが取れない、眠れない。
それが今はどうだ。どれだけ体を動かし、疲れていようが一瞬で眠れる。倦怠感も残らない。
「子供の体ってすごい…」
どこか他人事に呟きながら、雲を見上げる。今日もよく晴れている。乾いた風が畑の土埃を巻き上げていった。
「意外と…天職かもなぁ…」
残りの飼料を片付けようと視線を落とすと、家の前にローブの男が二人来ていた。
「初めて見るな…新しい商人さんかな」
男達はマルコ夫妻としばらく何か話して帰って行った。胸のブローチが印象的だった。
マルコ夫妻の表情は、どこか暗かった。
「おじさん。餌やり終わったよ」
「あ、ああ…ありがとう、ティファ」
「……?」
五年前の神災からこっち、辺境での流通は途絶え、復旧の目処も立たないままだという。
村へ商人が来ることは滅多になかった。来たとしても塩や布を少し交換するだけだ。
牛や羊を売りたくても買い手は見つからず、冬を越せないと判断されれば泣く泣く潰す事もあった。
「ティファ、今日も勉強するの?」
「うん。魔法学の本買ってくれてありがとう」
「そう…あまり遅くならないうちに眠りなさいね」
「わかった、ニーナおばさん」
部屋に戻り、ランプを灯す。橙色の灯りが古い蔵書を照らし出す。表紙を捲るたび、紙の湿った匂いが鼻をくすぐった。
「魔道…から出力…マナ操作の方法…は…」
ゲームでいうMPの事だろうか。どんなゲームだったかは、もう記憶が曖昧だ。
「マナの出力先…は…手や指先が好ましい…」
つまり、血のようなもの。魔核という臓器で作られ、全身を巡っている。
「出力先は…手…指…」
自分の指を見る。
マナの存在は感じられない。それでも血液だと思えば想像はしやすい。
例えば、指先から血が溢れるように。
──パチッ。
「わっ」
静電気だと思った。指先が僅かに痛む。
「まぁ、急に使えたら苦労しないよね」
本を閉じて灯りを消す。きっと明日も忙しい。
温かい布団に潜り、ティファは眠りに就いた。
******
子供の体はよく眠れる。だから何も気づかなかった。
「……ッ!?」
体の異変で目を覚ますと、口は既に塞がれていた。今日は月がない。何も見えない。
大きい何かが自分を襲っている。足掻きもがいても敵わない。
あっという間に手足を縛られる。抱えられる仕草から人である事を察した。
(おじさん…おばさん…っ!)
無事だろうか。担がれたまま明かりの灯る部屋を見遣る。通り過ぎる一瞬、夫婦の姿を確認した。
二人は泣いていた。テーブルで項垂れるマルコを、ニーナが抱くように。
ティファは理解した。自分は売られたのだと。
「大人しくしてろ」
荷馬車に投げ入れられる。板の隙間から夜風が吹き込み、藁の匂いと汗の匂いが鼻を突いた。よく見ると、それは昼間に見たローブの男だった。
生活、苦しそうだったもんな。それでも食べさせてくれた。本を買ってくれた。恨みなんてない。
ただ、悲しい。なぜか涙は出ない。
「大丈夫?」
荷馬車が走り出す。車輪が石を踏むたび、体が跳ねて縄が食い込んだ。同じように売られた子供だろうか。少し年上であろう少女が縄を外してくれた。
「揺れるから。これくらいは…ね」
似たような境遇なのだろう。目元が寂しい。
暗闇に目が慣れると、他にも子供がいる事に気づく。皆どこか不安気で、自分がこれからどこに行くのかは想像に難くなかった。
ああ、なんて重苦しい。この世の不条理を詰め込んだような空気。
(なんか…そんな歌なかったっけ…)
曲名はもう思い出せない。なぜだか耳に残っているメロディーを、そのまま口ずさむ。
「わ、すてき。いいおうたね。なんておうた?」
無邪気な声がする。話しかけてきたのは、パチャという女の子だった。
「さあ…なんだったかな…」
「しらないの? へんなの」
「…随分呑気なんだな」
これから奴隷になるにしては、明るい子だった。この年頃なら、きっと肉親であっただろうに。
「やめとけよ。まだ小さいんだから。これからどうなるかなんてわかっちゃいねえよ」
少年はカイルと名乗った。先程縄を解いてくれたアンナと同い年だという。
「カイルも…?」
「…みんなそんなもんだよ。世界的に奴隷制度が廃止されたって、欲しがる奴は欲しがるし売る奴は売るんだ」
妙に達観した少年に見えた。彼にもきっと事情があるのだろう。
「…アンナもか」
「うん…うちは作物が育たなくて…小さい弟や妹もいたし」
近くにいた幼い子供達をぎゅっと抱き締める。
「ちょうど、君達くらいの」
「わー」
「なーにー」
抱き締められた二人は兄妹だという。兄のルキ、妹のミィデ。
売ったところで、働けもしないだろうに。
「ねえ、おねえちゃんのおなまえは?」
「……」
「ないの?」
「…ティファ」
「きれいななまえ」
「…私もそう思う」
パチャの明るさに少し救われた。これから奴隷生活が待っているとしても、きっともう簡単に自死は選ばない。
自分だけなら、きっとそれで良かった。
「パチャは…」
「なーに?」
「パチャはどうなる?」
「おい…!」
カイルに制止されるも、聞かずにはいられなかった。
パチャだけではない。ルキも、ミィデも。こんな小さい子供が、自分と同じ奴隷になるのだ。
「パチャはねえ、おかあさんのためにいくの。パチャはとおくにいくけど、パチャががんばるとおかあさんよろこぶんだぁ」
うれしいの。パチャは無邪気に笑う。暗い荷馬車の中で、その笑顔だけが妙に白く浮かんで見えた。
カイルはわかってないと言った。幼い子供が、奴隷のなんたるかなど。
ティファはパチャの目を見る。パチャの笑顔は少しも揺れていなかった。
違う、この子は。
(知ってる)
わかってる。きっと知っている。自分がこれから、どこへ向かうのか。その先も。
全部わかった上で笑っている。
(こんな…子供が…?)
ティファはパチャを抱き締めた。──小さい。細い。怖いくらいに軽い。
(未来を…選べない…?)
ティファの中で何かが目覚める。
(そんな…そんな事が…)
それは祝福の発芽には程遠く、暗く悍ましい。
(あってたまるか!!!)
純然たる怒りだった。




