死してなお
金魚が死んでいる。
水は濁り、緑がかった膜が水面を覆っていた。底には食べ残しの欠片が黒く沈んでいる。
いつ飼ったものだったか。最後に餌を与えたのがいつだったかも、もう思い出せない。
壁のカレンダーは数ヶ月前で止まったまま。テーブルには飲みかけの薬が並び、封も切らずに埃を被った袋もある。ゴミ箱の中では、細かく破られた便箋がまだ何か言いたげに沈んでいる。
閉じたままのカーテンが、エアコンの風にわずかに揺れる。昼か夜かもわからない薄暗い部屋に、ヘッドホンから漏れる音だけが響いていた。
舞にとって唯一の楽しみだったアニメが、今日終わる。
エンディングでは、主人公とヒロインが抱き合ったまま、静かに息を引き取った。
「メリバかぁ…でもまぁ、アクションは好きだったな」
ヘッドホンを外すと、静けさが部屋に戻ってくる。片付いたテーブルの上、便箋の一枚だけが几帳面に置かれていた。
『遺書 佐倉舞』
部屋は綺麗だった。
死ぬ前にやるべき事は、昨日終わらせた。
捨てるものも、片付けるものも、もう何も残っていない。
ただ疲れた。涙さえ、とうに枯れる程に。
舞は静かにベランダに立つ。夜風が頬を撫でる。見下ろした地上の光は、やけに遠く見えた。
「来世はどうか…幸せになれますように…」
終わりを夢見て、飛び降りた。
死は穏やかだった。少なくとも、この時は。
******
死は眠るよう、とは聞いていた。
確かに穏やかだった。痛みもなかった。
だがさすがに目覚めるとは聞いていない。
(死ねなかったのかな…)
不安になった舞は周囲を見渡す。暗くてよく見えないが、息苦しい。何かに埋もれている。土か、それとも灰か。ざらついた感触が肌に張り付く。
やっとの思いで這い出ると、舞は息を呑んだ。
──熱い。焼けた肉の臭いが鼻にこびりつく。喉の奥まで焦げ付くような、むせ返るような臭気だった。
辺りは燃えている。パチパチと爆ぜる音、崩れ落ちる瓦礫の音、そして誰かの悲鳴。今まで自分が埋もれていた何かは、人の形をしていた。
「……ッ!」
体が先に拒絶する。異物を吐き出したいのに何も出ない。一度は枯れた涙が溢れて止まらない。
(なんで…)
死んだはずだった。終わったはずだった。死んだら楽になると思った。
(なんで…!)
そんな思考ばかりが巡る。もう一度死ねばいいのか。でも何度死んでもこんな地獄だったら?
どれだけ考えても時間は舞を待たない。近くで大きな爆発が起きた。熱風が肌を叩き、人だったものらしい欠片が飛ぶ。
降り掛かる血。肉。骨。
舞は怯えた。理由もわからぬまま、ただ本能が悲鳴を上げていた。
何への恐怖かはわからない。死への恐怖は自死の時点でなかったはずなのに。
怖い。その一心が足を動かした。
崩壊した建物を這い出ると、そこは火の海だった。
石造りの建物が崩れ、夜空を焦がすように炎が燃え上がっている。舞い上がる火の粉が、まるで悪い星のように降り注いでいた。
見た事のない生き物が人を襲っている。咆哮と悲鳴が交錯し、焼け落ちた建物の下から腕が覗いている。外に出ても地獄は続いていた。
逃げ場はどこか。すがるように辺りを見回す。気づけば自分は服を着ていなかった。体が妙に小さい。走る足も短い。まるで子供のようだった。
だが今は構っていられない。死体から布を一枚剥ぎ取り、当てもなく走る。
熱い。痛い。苦しい。足も、体も火傷だらけだ。生きたい理由もないのに、恐怖だけで走った。
しかしそれももう終わる。先程人を襲っていた生き物が、舞の道を塞いでいた。
「あ…」
後ずさるも、逃げ場などなく。舞は膝をついてうずくまる。
獣は飛ぶ。牙が今舞に届こうという瞬間、首と胴が切り離されていた。
「Arnā...!? Nafil vel raš!?」
獣がいたはずの場所に、黒い甲冑の男が立っていた。外国語だろうか。言葉はわからない。
「Elna qarif!?」
何か言っている。でもわからない。
男が持っている大剣から血が滴っている。次は自分が殺されるのかもしれない。
怖い。喉が焼けて痛い。息も苦しい。涙だけが止まらない。
「……!」
男は舞に背を向け、大剣を翳した。獣が複数這い寄って来ていた。
「...Vel na. Domina rašek. Nafil... vel Raven.」
その声は嫌に透って、耳に残った。
絶望に烟る地獄の中で、それだけが舞に届いた。
男は舞の背後を指差して叫ぶ。
「RAŠEK!!!」
走れ、と言われた気がした。夢中で炎の街を走った。
******
あれからどれくらい経ったのだろうか。足の裏は裂け、火傷は膿み、服代わりの布には血がこびりついていた。
街を抜けて、荒野に出て、日が暮れて、朝が来て。何度目かの太陽が恨めしい。
結局、あの黒い騎士は自分を助けてくれたのだろうか。どのみち助からないなら、あの場で死んでいても良かったのではないだろうか。
そんな事を思いながら、ついには力尽きる。
遠のく意識を手放す直前、誰かに抱き上げられた気がした。
冷たい甲冑の感触だけが微かに残っている。
******
──体が重い。
軋む瞼を開けると、日差しに目が眩んだ。どうやらまた、生きているらしい。上体を起こすと鈍い痛みが走った。
包帯が巻かれている。手当てをされたのだろうか。あの黒い騎士だろうか。
部屋を見回しても誰もいない。木造の天井。古びた床板がわずかに軋む。窓から差し込む柔らかな光。
古い木の匂いが、なぜだか心を落ち着けた。
そしてベッドから降りて気づいた異変。体が小さい。
自分の体を見る。やはり小さい。およそ五歳くらいだろうか。
「なん…で…」
窓硝子に映る少女は、幽霊のようだった。
色の抜けた長い白髪。痩せ細った手足。濁った青灰の瞳だけが、虚ろにこちらを見つめていた。
生前の姿とは似ても似つかない。
もし、もしも、例えば。漫画やゲームのような転生物語だとしたなら。あまりに酷い展開ではないか。
有名作品のような美少女に転生できたわけでもない。何の能力もない。堕ちた先は地獄だった。
三十五まで生きてみたけれど、結局何も変えられなかった。
だから終わらせた。それなのに。
目の前の事実を受け入れられず、舞は崩れた。
「死んだほうが幸せだって…信じてたのに…」
新しい絶望の前に、扉が鳴る。年配の女性だった。
「Arnā, filia? Tha'lim arnā?」
また知らない言語だ。
何を言っているのかはわからないが、女性の雰囲気は柔らかい。泣き崩れる舞を支えてベッドに戻そうとする所作にも慈愛が感じ取れた。舞の警戒心も次第に解れていく。
食事を差し出され、食べるように促される。…あたたかい。いい匂い。湯気が頬を撫でる。
スープを一口舐める。全身に血が巡った気がした。
続いて二口、三口。パンにも齧りつく。
──沁みる。擦り傷を消毒した時に似ている。少し痛い。でも、優しい。
枯れたと思った涙が、また溢れた。
食事を終えると、泣き腫らした目を伏せて呟く。
「ありがとう…ございました」
どうせ伝わらないだろうが、言っておかなくてはと思った。
女性は少し困ったような顔をしている。
「...Elna. Nafil noš arnā. Vel, filia.」
そう言って笑った。相変わらず意味はわからない。
だが、不安と絶望に潰された舞を安心させるには十分な笑顔だった。
──きちんと、お礼を言いたい。
涙を拭いながら、舞はそう思った。
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