蕎麦とウィスキー
いつものバーに行くと、タブレットを取り出したAI氏がマスターに何やら説明しているところだった。
私はいつものマテイィーニを注文してからAI氏にたずねた。
「何を話してたんです」
「時蕎麦の真実ですよ」
「時蕎麦、というと落語の?」
「はい」
AI氏が蕎麦をたぐりよせる仕草をして見せる。
「屋台の蕎麦屋を相手に銭を一文ごまかすやつです。江戸落語の『時蕎麦』は、元々は上方の『時うどん』だったんですけど、まあそれはおいといて」
AI氏はタブレットの図を見せてくれた。横道にそれなかったのはいい心がけだ。
「この図のように、二十三時から一時あたりが九つと呼ばれていたんです」
「はあ」
「九つから八つ、七つ、ときて午前の十一時頃に四つになり、そのあとはまた九つから八つ、七つ、とカウントダウンして四つでおしまい。こういう変な時制になっていたわけです」
「うん、確かに変だ。テニスのポイントカウントなみに変だ」
「まあ、あっちはサーティーのあとがいきなりフォーティーになりますからね。元々はフォーティーファイブだったらしいですけど。……それはさておき。時蕎麦では屋台の親爺の手に八つ目の銭を置いたあと『今なんどきだ』とたずねるわけです。それで蕎麦屋がココノツですと答えて、トオ、ジュウイチ、ジュウニと数えていき客は一文得するわけです」
「ああ」
「それを見ていたアホが、別の蕎麦屋で同じ事をします。これが間の悪いことにイツツドキで……」
図を見ると、五つ刻は十九時から二十一時になっている。
「そうか。夜でも早い時間だったんだ」
「それでアホは三文損をするというオチになっています」
「なるへそ」
タイミングを見計らってマスターがマティーニを差し出す。
「マティーニでございます。……私、子供の頃かららずっとこの落語の意味が理解出来なかったんですよ。今日、説明していただいて初めて納得できました」
AI氏に頭をさげている。
「でも、この蕎麦屋もけっこうアホですね。商売人なら注意しておかないと」
私のツッコミに二人もうなずく。
「ところで、蕎麦といえば蕎麦のウィスキーを置いてましたよね。次はアレをロックで」
マスターがニヤリとする。
「アレですね。エデュー・シルバー」
マスターは、棚の下の扉を開ける。秘蔵の酒が隠してある場所だ。
「何なんです、それ」とAI氏。
「世界で唯一、蕎麦百パーセントで作られているウィスキーなんだ」
「それって、蕎麦焼酎と違うんですか?」
「全然違うよ。なんと、フランスはブルターニュ産だ。飲み比べてみるといい」
「では、僕も一杯、お願いします」
マスターが気を利かせる。
「蕎麦焼酎も飲まれますか。うちにあるのは那由多の刻ですが」とマスター。
「もちろん」
私たちそれぞれの前に、琥珀色の液体が入ったグラスと透明な液体が入ったグラスが並べられる。そししてチェイサーも。
「あっ、これ、本当にウィスキーの味だ」
「蕎麦焼酎は淡泊、というかストレートだとちょっとクセがあるな。まさしく焼酎だ。こうして飲み比べてみるとはっきりとわかる」
タブレットを触っていたAI氏が、顔を上げて言った。
「『刻そば』って焼酎もあるんですね。初めて知りました。焙煎蕎麦を使っているそうです」
「焙煎蕎麦ですか。確実に飲んでいただけるというのなら入れますが」
マスターは「うーん」とうなる。
「一度、居酒屋かどこかで試してきて下さいよ。言われたからってほいほい仕入れてちゃ、商売あがったりなんで」
「ちっ、商売人だねえ。ところで、今ナンドキだ」
「へいっ、ナユタノトキで」




