勘違いというのはあっけなく
Side グレース
朝はいつもの時間に目が覚めた。昨日の夜、父に抱きしめられて安心したからかもしれない。気づけば深い眠りについていたようで、寝不足特有の重さはない。だが、心は不思議とざわついていた。胸の奥にまだ昨夜の出来事が残っていて、夢ではなかったと告げてくる。
枕元に置かれたカーテンの隙間からは柔らかな朝の光が差し込んでいた。いつもなら「また今日も同じ一日が始まる」と思うだけなのに、今朝は違った。外の廊下からは、控えめに抑えられた話し声が微かに聞こえる。いつもより多くの人が廊下にいる気配がして、自然と背筋が伸びた。
「……誰か、いるの?」
声を掛けると、すぐに扉がそっと開いた。現れたのは昨日、私の寝室の前で必死に殿下を止めようとして真っ青になっていた侍女だった。彼女は私の顔を見た途端、安堵したように大きく息を吐いた。
「グレースお嬢様……!おはようございます。旦那様が『なるべく寝かせてあげてほしい』とのことでしたので、起こすのを控えておりました。お加減はいかがですか?」
その目元は少し赤く腫れ、隈までできている。私のために泣いてくれて、眠れなかったのだろう。胸の奥がじんと熱くなった。安心させるように笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
「とんでもありません……! もし差し支えなければ、旦那様がお会いしたいと仰っていますが……」
「ええ、着替えてから伺うわ」
「かしこまりました。すぐにお伝えいたします!」
彼女が走り去ると、別の侍女たちが次々と入ってきた。手際よく私を支度させ、髪を整え、深い青のドレスを着せてくれる。鏡に映った自分の姿は、思っていたより顔色は悪くなく、昨夜泣き腫らした目も化粧で上手に隠されていた。けれど、内心の揺らぎまでは隠せない。
「グレース」
着替えが終わると同時に、扉の向こうから父の声がした。普段と変わらない落ち着いた声。侍女に扉を開けさせると、父がゆっくりと入ってきた。
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう。少し話がしたいのだが……いいか?」
父は私の部屋にあるソファへと歩み、座るよう促した。向かい合って腰掛ける。父とこうして穏やかに言葉を交わすのは、母を亡くしてからほとんどなかった。自然と心が引き締まる。
「前に話したことがあるな。王家の人間は特別な存在に惹かれる。我々はそれを『王家の血が選ぶ』と表現してきた。覚えているか?」
「……はい。運命の女性、というやつですね。だから私は、いつかその人が現れたら殿下の婚約者の座を妹に譲るのだろうと思っていました」
「その時点で既に誤解していたのだ」
父は額を押さえ、深くため息を吐いた。
「最初、王家に資金を渡す際には持参金の名目にした。そして婚約者にあげたのはクロエの方だった。年齢差の都合で、オクレール公爵令息の方にクロエをと考えていたからな。お前は殿下と年が近いし、交流も取りやすい。だから当然、お前を王室に、クロエをオクレール公爵家に嫁がせるつもりだった」
言葉を区切るごとに、父の表情には疲労が滲んでいた。
「だが——ジェミリア殿下はお前を望んだ。強く、断固として。私も、オクレール公爵も、そしてヴァイスも悟ったのだ。『王家の血』が選んだのはグレース——お前だ、と」
「えっ……」
思わず息を呑む。頭の中が真っ白になる。あの視線、あの笑み——私に向けられたものだと思ったことなど一度もなかった。殿下がクロエを見つめた時の輝きこそが本物だと信じ込んでいた。
「お、お父様。それは殿下の勘違いではありませんか?クロエと私を取り違えたとか……」
「ありえん。顔合わせの場にいたのはヴァイスとお前だけだ。クロエはその時、まだ貴族の場に出せる段階になかった」
「で、でも……」
言葉を探すが見つからない。父の冷静な声が続く。
「殿下は、借金返済が済んだ後も婚約を解消しなかった。それどころか、返済が終わった事実を隠し、お前を逃げられなくしている。もしクロエが運命の相手なら、とうの昔にお前を解放していたはずだ」
「……」
「そして、婚約者の挿げ替えを私が持ちかけた途端に王宮を抜け出し、既成事実を作ろうとした。歪んでいようが、その執着は紛れもない『想い』だ」
最後の言葉は氷のように冷たく、父が心底怒っていることが伝わった。それでも、娘の意思を尊重しようとする眼差しがそこにあった。
「グレース。お前の気持ちはどうだ?どうしても嫌なら、私はどんな方法を使ってでもお前を殿下には渡さない。私は人の心に疎い。だが、お前の母は言葉で伝えてくれたから理解できた。だからお前も、言葉で教えてほしい」
——父は、本当に私を守ろうとしてくれている。クロエだけを大切にしているのではなく、私も。ヴァイスも。皆それぞれに愛されていたのだと、昨夜の抱擁でも感じた。
静かに息を吸い込む。
「……昔、王妃様の葬儀の時、泣かずに空を見上げていた殿下を見て、私は思ったのです。支えたい、と。私と同じように母を亡くした殿下が、いつか涙を流せるように。そのために、私は隣にいたいと」
記憶の中の光景が鮮明に甦る。白い百合に囲まれた棺、誰よりも冷静に立ち尽くす彼。私はただ、ハンカチを差し出すことしかできなかった。けれど、それが私の始まりだった。
「ずっと……その気持ちは変わっていません」
父は目を細め、感情を堪えるように頷いた。そしてゆっくりと立ち上がり、扉を開いた。
「だ、そうだ。殿下」
そこに立っていたのは、酷く疲れた顔をしたジェミリア殿下と、面白そうに笑みを浮かべる兄——ヴァイスだった。殿下の瞳は、驚きと喜びと、罪悪感と……複雑な感情が入り混じった色をしていた。




