1108:壁
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1796年12月31日
ついに大晦日を迎えた。
普段であればお祝いをして喜ぶべき所なのだろうが、今のところ市中においては戦意高揚パレードが行われたり、人が集まってどんちゃん騒ぎをすることは減っている。
強毒性インフルエンザが上陸こそしていないものの、タチの悪い強毒性インフルエンザが北米大陸で流行している危険性を鑑みて、下手に集まって行動しないように呼びかけているのだ。
新大陸で発生している強毒性インフルエンザがパリにまでやってきて感染する可能性はゼロに近い。
現代のように飛行機や高速で移動できる船が主流ではないし、何よりも感染症対策を行っているのは普通のインフルエンザに感染している人も稀である。
サンソンも大晦日までに仕事を終わらせてくれた上に、今日までにパリで確認されている感染者の人数を把握してくれたのだ。
「今日までに流感に感染した者はパリで2400名となっております。前年と比較してもかなり人数は減っております」
「やはり、新大陸における強毒性の流感を警戒していることもあるが、皆が布マスクを着用してくれているのが一番効果が高いだろうな……」
「はい、この時期は空気が乾燥しておりますので風邪が流行する時期でもあります。庶民にも布マスクを無償で提供したこともあり、パリでは感染予防も兼ねて手洗いの実施なども合わせて行っている事もあり、風邪に罹患する人が減っているのも良い兆候でしょう」
「そうだな……この時期に風邪を拗らせると重症化する恐れもあるからな……流感いえど侮ってはいけない。下手をすれば脳にも炎症が広がってしまう怖い病だからね……」
流感が一定期間流行する病であるとはいえ、この時代において手洗いとマスクを普及させることが出来ただけでも万々歳だろう。
何と言っても、強毒性インフルエンザの症状と毒性、そして致死率は看過できないものがある。
すでに半年以上が経過しているが、これらの強毒性インフルエンザが発生した地域においてはある程度収束する気配こそ見せているが、それでも毎日の感染者数は横ばいからようやく減少に転じたところであり、北米複合産業共同体に至ってはあまりにも多すぎる死者に遺体の処理が対応できない程に、切迫した対応になっているという。
このヨーロッパ大陸まで強毒性インフルエンザが来ることは無い。
……と言いたいところだが、ゼロと言い切ることはできない。
何故ならカリブ海諸島において、複数名の罹患者が出てしまっているからだ。
いずれも検疫で発見されており、罹患者の多くが船員で若い世代で症状を軽症が多かったのである。
これらの船員は隔離されている事が多かったそうだが、中には寄港する直前に発熱と咳が出てきたという事例もあったため、強毒性インフルエンザが弱毒化した代わりに潜伏期間が長くなった可能性も捨てきれないのだ。潜伏期間が長くなれば、罹患していても発症するまでに期間が開いてしまうため、この発症までにどれだけ食い止められるかが焦点だ。
「サン=ドマングで6名、発症者はいずれも検疫で発見されたのが幸いだな……他にカリブ海諸島において発症者はどのくらいいるのかね?」
「今現在確認されているだけでも、スペイン領において25名、ポルトガル領で9名となっております。いずれも軽症であり、中等症以上の症状を発症している者はいません」
「普通の流感か……それとも毒性が弱まったかは分からんが、それでも北米大陸で猛威を振るっている流感がヨーロッパに流れてしまっては元も子もないからな。検疫はしっかりと厳格にやるように」
この時期に北米大陸で猛威を振るっている強毒性インフルエンザがとの見分けが付かない状況になってしまうと、油断して一気に感染が拡大してしまうリスクのほうが高いのだ。
感染というのはどうしても起こってしまう不可抗力のようなものではあるが、如何せんマスクをするという文化がない事と、ヨーロッパ諸国では相手の口元を見て話す文化が主流であるために、マスクをしていると何を考えているのか分からなくて怖いという印象を抱くらしい。
これはサンソンからの報告によるものであるが、北米大陸において欧州協定機構軍が占領している地域で配布された布マスクの着用の比率を計算した結果、着用者の数は16パーセントにも満たない数字だったという事が分かったのだ。
流石にマズいとのことで強権を発動してマスクを着用していないと罰金ないし拘禁刑が科されると通告したところ、一気に着用率が上がって殆どの人がマスクを付けるようになったそうだ。
例外的に、肌が物凄く弱くて布マスクを口元に覆うだけで肌荒れが起きてしまう人や、疾患持ちでマスクをすると呼吸が出来ない等の正当な理由がある場合に限り『特別例外許可書』を身に着けてマスクなしでも行動できるようにしたそうだが、それでもマスク着用を拒む人が複数名いるという……。
あまりにもひどい場合には罰則規定を強化して罰金刑以上の刑期を付けることで渋々従っているようだが、彼らにとってマスクを身に着けることは「苦痛」以外の何物でもないようだ。
そして恐怖の対象と見なされることもあるようだ。
「マスクは他にも、死を連想することが多く……やはりペストマスクなどを考えてしまう方がいらっしゃるのも事実です」
「ペストマスクか……あれは確かに一定の成果があったとされているけど、実際にはどうなんだ?」
「実のところ、ペストマスクを含めて18世紀初頭までのペスト対策においてはペスト医師による効果は一定の成果こそあれど、実際にはその効果が発揮する前に自身も感染して死亡するケースが多かったようです。我が一族の医学書でも、ペスト医師が生き残るケースの方が稀だったそうです」
「……やはりまだ今よりも感染症への対策について未解明の部分も多かった時代だからな。致し方無いとはいえ、やはりマスクを身に着けることは死を連想してしまう事も多いのだな……」
なにせ、ベルリンの戦いでペストが流行した事も鑑みれば、数年ないし数十年に一度のペースでペストがヨーロッパで度々流行したり感染が確認されている上に、その検査を行う医師が身に着けている鳥のような保護衣装を身に着けているのが恐怖であり、口元を見せれないのは病気を浴びている証拠であると考える人もいるそうだ。
口を見て相手の表情を伺う文化が根強い事もさることながら、やはり今まで根付いてきた風習や文化が変わることが、文化を無くす行為に思えてしまうのだろう。
今まで普通であったのだから、これまで通りでいいんじゃないかと考える人ほど固定概念……いや、正常デバイスを働かせてしまい、本当の危機が迫っても中々変えようとしないのだ。
サンソンからの報告を受け取り、欧州協定機構軍が占領している地域ではマシになっているとはいえ、以前として強毒性インフルエンザが流行している事に変わりない。
戦場もノーフォーク造船所の手前で停止して自然休戦状態となっているそうだ。




