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1107:公武神道(下)

江戸の復興事業が進む中で、公武幕府はフランス政府から新しい打診を受けていた。

その打診とは、青龍と薩摩、長州などで行われている交易活動を東アジア地域に拡大し、貿易立国として多くの地域や国との交流を広げようというものであった。

公武幕府としては指導者である徳川家基やその側近となっている田沼意知の改革志向も相まって幕府一丸となって開国姿勢に赴いて交易の促進が執り行われるようになったのである。

その改革の第一歩として、フランスへの輸出品の拡大と工業機械の輸入の拡大を行ったのである。


蒸気機関を専門に作る工場が大坂の堺で誕生し、初の蒸気機関生産工場が作られたのである。

また史実でも製鉄所が作られた八幡にも、製鉄技術を学ぶ学校が作られてフランスの技術者が教師となって日本人に教える【八幡製鉄研究所】が誕生したのもこの年であった。

家基の采配と、田沼意知の手腕が遺憾なく発揮し、日本は工業立国の基盤を構築することに成功したのだ。


産業基盤体制の構築には多額の費用が掛かったが、蘭学者を中心にフランス語の翻訳と尺貫法をメートル法に換算する道具なども導入し、主に堺を中心に工業地帯が誕生したのである。


この堺に出来た産業基盤となる工業製品の多くがネジであったり、グリボーバル砲やマイソールロケット砲に使用されている部品や留め具などであった。

また、堺で作られているネジは蒸気機関を内蔵した工業機械で製造されたこともあり、品質が均一化されたことにより信頼性も一定の評価を得ることが出来たのである。

主に兵器として使われていたネジであったが、これを民生用として転換する動きが見られたのも大きな特徴である。


この民生用のネジと規格化された建築資材の搬入が行われるのようになったのも、ある一人の武士の死が原因となっていた。


史実において、日本の建築物の多くがネジを使わずに木材の楔を使って強度を増やす方式を取っていた為、日本独自の木造建築物が多く建てられることとなっていた。

……が、浅間山大噴火によって関西方面に流民として流れ着いた関東の民衆の受け皿として急造された三階建ての木造長屋の耐久性は今ひとつであったために、台風による強風や大雨によって急造で作った箇所が脆くなり、建物が破損ないし崩落する事案が1791年から1796年までに28件が報告されている。


このうち最も悲惨であったのが1795年7月22日に大坂天王寺七坂の一つである真言坂に急造建設された三階建ての長屋において、一階を寺小屋にして勉学を学ばせる授業をしていた武士と、授業を受けていた6歳から15歳までの子供25名が劣化した外壁と屋根が崩落する事故に巻き込まれて死亡するという痛ましい事故が起こったのである。


この事故で亡くなった教師は牧野禄十郎という武士であり、元々譜代大名に数えられていた小諸藩の牧野家の縁類に属していた者でもあった。

現に、譜代大名時代に小諸藩が存在していた頃は彼も譜代大名の牧野家を補佐する役割を与えられており、決して身分もそこら辺の下級武士ではなく、馬に騎乗することが許される上士と呼ばれる身分でもあったのだ。


決して生活に困窮するような事は無く、むしろ上士であったことから幕府や藩から支給される給与も上から数えた方が早く、牧野禄十郎は何不自由ない武士としての生活を堪能していた。

その生活が一変することになったのは浅間山大噴火によって、彼の立場などは全て変わってしまった。


浅間山大噴火によって小諸藩は大規模な火砕流と、噴煙によって壊滅的打撃を受け千曲川がせき止められて、今では北佐久郡に位置する場所には大きな湖が出来ており、公武幕府においては「佐久湖」という名称が付けられている。


そして、彼の生まれ育った小諸の街も湖の中に沈んでいる。

浅間山に面していた斜面の田畑は火砕流によってすべて流されており、小諸藩の城にも火砕流が押し寄せて城の警護に当たっていた者や、牧野家の関係者の大部分が犠牲になってしまった。

小諸藩の藩主であった牧野康満や牧野禄十郎らは田沼意次の指示で江戸に出向いていたため難を逃れたが、領民5万人のうち生き残ったのは僅か2千人にも満たない人数であった。


牧野康満らは小諸藩の被災状況から復興を断念し、京都に身を寄せることとなった。

だが、牧野禄十郎は小諸藩の生き残った者達を支援するべく大坂に身を寄せて生活する事になった。

彼は同じ小諸藩で生き残った子供たちを引き取り、大坂において小諸塾という寺小屋を作り、その傍らで日雇いの仕事として大工などをしていたとされている。


上級武士から一気に庶民の中でも貧しい部類に入る生活になってしまったが、旧小諸藩の藩士などからの支援金によって生活を支えており、困窮している者に食糧や生活費を渡していたことから公私共に義理人情に厚い人物として慕われていたのである。

亡くなった日も、子供たちに文字の読み書きを教えている最中であった。

牧野禄十郎は崩れてきた瓦礫からすぐ近くにいた子供を庇うようにして亡くなっており、庇った子供は奇跡的にも生存することができたのだ。


そんな牧野禄十郎が家が崩れて亡くなったと聞かされた時に、旧小諸藩出身の者達は大いに悲しみ、また亡くなった子供たちの遺族らもこの事故の陳情を旧小諸藩藩主である牧野康満らに申し立てたのである。


牧野康満は、旧領民からの陳情を受けた上で、大坂などに点在している三階建ての急造長屋の耐久性が低く、崩落事故が度々起きている現状を踏まえて幕府側に対策の徹底と、建造物の強化のために強度を上げるため均一化された釘やハンマーなどの導入を進言したのである。


この進言はすぐに受け入れられた上に、幕府側も譜代大名の藩士であり地元でも慕われていた武士が子供を庇うように亡くなっていたことを知り、他の藩の譜代大名らも三階建ての急造長屋での窮状の訴えが藩の武士たちからも漏れていることを踏まえて、大規模な改装工事や急造長屋をより強度の高いものに変更するといった建て替え令を出したのである。


この建て替え令によって、大坂に作られていた百棟以上あった三階建ての長屋の中でも建物の作りが甘く破損や雨漏りなどが酷い建物を中心に建て直しが行われる事となった。

その建て直しに際して、均一化された釘などを使って行われており、中でも青龍からもたらされた耐震性を高める木造建築の製法などが輸入されていた。


普段は杭を打ち込んで壁も塗り込んでしまうものであるが、壁にバツ印のように交差させて強度を高める工法が伝わり、新しく作られた三階建ての長屋にこれが導入されたのである。

理論上において、これは地震の深さや揺れの長さにもよりけりであるが震度6強にも耐えうる強度を持つことになった。


人々は牧野禄十郎の犠牲によって、この工法でつくられた長屋が出来上がったことを踏まえて【禄十郎工法】という名で広く使用されることになったのである。

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