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同日 ニューヨーク
ニューヨークの街中で目にするのは簡易テントを張った建物や『臨時病院』の看板が立てかけられた工場に向かう人達の姿であった。
多くの人間が咳を繰り返しており、中には家族や仲間によって支えられて辛うじて立っている者もいた程である。
すでに感染者が10万人を超えている北米複合産業共同体において、強毒性の強いウイルスに変異したインフルエンザに苦しめられていたのである。
実質的に北米複合産業共同体を影で支配しているリーゼロッテや、その上司であるポリニャック元伯爵夫人ですら病魔に侵されており、いずれも生死の境を彷徨う程の重症を負っていたのである。
「リーゼロッテ……リーゼロッテはどうしているの……」
「ポリニャック様……今、リーゼロッテ様は病に伏せられておられます。代理の者が黒薔薇の業務を担っておりますが、これまでにも黒薔薇の主要メンバーの半数が流感に感染しており、重篤化して亡くなった者も出ております。経理担当者が今朝亡くなっております」
「……今、私が病によって倒れるわけにはいかないのよ……あのフランスに、フランスへの報復が出来るまでは死ねないわ……」
「ご安心ください。我々が総力を挙げて欧州協定機構軍を撃退するべく新兵器の開発を早急に進めて参ります。ですのでどうか今は安静になさっていてください」
部下の言葉に安堵したポリニャックは静かにうなずく。
今では呼吸が苦しく、辛うじて受け答えと喋ることが精一杯なのである。
鎮痛薬などを服用して痛みを和らげているものの、ポリニャックの右腕であったリーゼロッテに至っては、すでに多臓器不全に近い状態となっており、これまでの謀略や諜報を行っていた知識も人脈も今まさに失われようとしているのだ。
黒薔薇のトップが病によって倒れ、大勢の北米複合産業共同体の市民が苦しめられている流感。
この流感の原因となるインフルエンザに関して言えることは、北米複合産業共同体が厳格な市民区分制度を作ったことが遠因であるとされており、直接的な原因となっていたのは渡り鳥の一種であるカモの一種であるカナダガンであった。
このカナダガンは北米を中心に繁殖している鳥であり、そこまで珍しいものではない。
そして繁殖しているからこそ、これらの鳥は多くの群れを作っており、同時にタンパク質を取るために貧しい市民たちがお金を出し合って購入する貴重な食糧であった。
散弾式の銃を使ってこれらのカナダガンを仕留めて、仕留めたカナダガンを調理したり販売したりして生計を立てている者も多かった。
「新鮮な鳥肉はいかがかな?今日は大量に採れたんだ!」
「あら、もう焼いておいてくれたのかしら?」
「勿論!これらの肉は新鮮で美味いよ!3セントでいいよ!」
「ありがとう。それじゃあ3セント出すから1羽を頂戴」
特にニューヨークに住んでいた三等市民の多くが、食事にありつける事すらやっとの状況においてカナダガンは食糧と見なされていたのである。
7月下旬頃、ニューヨーク州から大西洋に流れ出るハドソン川の下流域であるニューヨークの近くで衰弱していた複数のカナダガンを発見する。
カナダガンは警戒心こそあれど、北米では繁殖をしている種類の鳥であり、可食部分はやや少ないものの脂っぽくなくさっぱりとした味わいが特徴的であるため、これらの鳥を食べることについて独自の食文化が構成されていったのも事実である。
衰弱していたカナダガンは容易に人の手でも摑まえることが出来、しっかりと過熱・調理をした上で鴨肉の一種として振る舞われたのである。
この時、衰弱していたカナダガンは100羽前後と言われており、うち23羽は既に息絶えていたともされている。
三等市民にとって、弱っているとはいえ肉を食べれる事はごちそうであり、食肉加工などに携わっていた人物がこれらのカナダガンを鴨肉として調理し、大勢に振る舞ったのである。
しかし、これがいけなかった。
調理したカナダガンを食べた者には異常は見られなかったものの、既に衰弱していたカナダガンを触って調理を行った複数名が流感の症状から一気に急性呼吸不全などを伴う劇症症状を起こして肺炎で亡くなったのである。
発症から死亡まで6日間程度だったと言われている。
集合住宅では独身世帯が身を寄せ合ってゲホゲホと咳をしながら痛みが通り過ぎるのを待っている。
「くそっ……身体が痛んで力がでない……」
「なんでこんなに具合が悪くなるんだ……」
「駄目だ、呼吸が苦しい……肺が痛む……」
「苦しい……だれか、だれでもいいから水を……」
多くが呼吸器疾患などを併発していたが、これらの患者の多くが三等市民に分類されている有色人種であったこと、また有色人種専用の病院に配属されているのも白人の医師が多く、彼らが罹患した原因も三等市民ゆえに変な食べ物を食べて集団食中毒に陥ったからではないか?という決めつけと、この症状が集団発生してしまった場合には、医師としての責務を放棄したとして責任問題になることを恐れて罹患者の問題に対しては『お腹の風邪が一部地域で流行しており、2週間程で良くなるだろう』と記載した上で、抜本的な治療対策を行ずに感染に対して実質的に隠蔽をしてしまったのだ。
そして、その隠蔽をしたことによってお腹の風邪や従来の流感よりもタチの悪いインフルエンザが流行してしまうことになったのである。
それが鳥インフルエンザウイルスであり、毒性が強く現代においても危険なウイルスとして分類されているH5N1型鳥インフルエンザウイルスの亜種でもあったのである。
衰弱していたカナダガンが罹患していたのは現代で分類されている所のH5N1鳥インフルエンザの亜種であり、この鳥インフルエンザの亜種は飛沫ならびに接触感染を通じて広がるものであった。
そしてこのインフルエンザウイルスは変異も早く、通常の鳥インフルエンザは人から人への感染は稀であったが、すぐに人から人への感染を引き起こすようになってしまったのである。
感染力が拡大した鳥インフルエンザによって、ニューヨークを起点に感染が広がっていったのだ。
人から人への感染が拡大するのが顕著になったのは8月8日ごろと言われており、ニューヨークを中心に季節外れの流感が流行し、当初こそ風邪が流行しているので注意とだけされていたものが、やがて感染拡大とそれに伴う重症化が顕著になると、北米複合産業共同体の経済基盤として活動していた造船所や蒸気機関を内蔵した新兵器開発を行っていた工場でも感染が広がり、一等市民などにもこのインフルエンザが猛威を振るうようになったのである。
そして北米複合産業共同体内での感染拡大によって、欧州協定機構軍への潜入工作などを行っていたスパイにも伝わり、やがてそれがフロリダを起点に感染拡大が起こったのである。
北米複合産業共同体での感染状況が深刻であることが判明したのは8月30日であり、この日、ナポレオン率いる軍団がノーフォーク造船所の近くにある集落を占領した際に、その集落で焼却処分が間に合わなかった機密情報が記した速達便によって判明したのである。




