1話 婚約破棄の10秒前に巻き戻る
婚約破棄を告げられた、その直後。
私は全身を焼く痛みに蝕まれながら、血を吐いて倒れこんだ。
「はっはっは! シャーロットはこれで死んだ! 邪魔者は……いなくなった!」
視界がぼやけていく中、顔を上げると、そこには愉悦を浮かべて見下ろす婚約者がいた。
「ジェイコブ王子殿下……っ。どうして、私を毒殺するのですか……!」
「悪女のお前にはわかるまい! 金回りのいい家だからと言って、悪女を娶らなければいけない俺の気持ちが……! それだけではなく、私の足まで引っ張るとは……どこまでも憎らしい女だ!」
悪女。
その言葉を聞いた瞬間、私の冷えた体に血液が沸騰したように巡った。
私は侯爵家の令嬢であり、乙女ゲームで横暴の限りを尽くす悪役令嬢。
実際、今の今まで悪女と呼ばれるにふさわしい振る舞いをしていた。
そしてシナリオ通り、最後は毒殺されてしまったのだ。
(そ、そんな……。せっかく記憶を取り戻したのに、死の未来を回避できなかった……)
血を吐きながら、私は脱力した体を崩れ落ちさせる。
視界は暗くなっていき、耳元にはジェイコブの高笑いが突き刺さった。
(せめて、毒を飲まされる前に記憶を思い出せれば……。どうして……)
私は涙を流しながら、ぼやけていく視界の中、意識を失った。
◇
「以前から思っていたんだ。お前のことは鼻持ちにならない女だと!」
「え……!?」
一瞬の出来事だった。
目を開けた瞬間に、世界が明るく色を取り戻し、まるで夢から覚めたかのように引き戻された。
目の前ではジェイコブが、私の死の直前に吐き捨てていた言葉を繰り返している。
「私は、お前との婚約を破棄――」
「――……っ!!」
ジェイコブの言葉が終わる前に、私は彼から離れるように駆け出した。
ガシャ――ンッ!!
何も考えてはいなかった。
ただ、この場にいてはいけないと告げる本能のまま行動を起こした。
その勢いのまま、ガラスの破片を撒き散らしながら窓を突き破る。
「う……っ!」
落ちた先は、手入れの行き届いた植栽の上だった。
二階からの落下だったが、擦り傷こそあれど、動けなくなるほどの負傷はない。
「に、逃げなきゃ……!」
ジェイコブはこの国の第二王子。
その気になれば、理由を捏造してでも私を追撃することなど容易だろう。
私は、正門に最も近い右の道、遠いけれど裏門へ通じる左の道へ視線を走らせる。
「とりあえず、右に逃げましょう……!」
今は一秒でも時間が惜しい。
最短ルートで王宮を脱出でき、人目も多い右の方が生き残る確率は上がるはずだ。
私は転がるように植栽から抜け出し、右の正門に向けて足を踏み出した。
一本道を走り抜け、角を曲がろうとした、その瞬間。
「いたぞ――!」
「きゃ……!?」
角から現れた兵士に、私は叩きつけられるように芝生へ組み伏せられた。
「第二王子に危害を加えた罪で、お前をここで処断する――!」
「あ……っ!」
背中を刺す衝撃とともに、私は再び暗闇の中に飲み込まれた。
◇
「う……あ!?」
視界が開けると、舞い散る葉とともに、植栽の中で私は青空を見上げていた。
「ま、また……巻き戻っている……? 何が起きているの……!?」
混乱する頭を押さえながら、私は右の正門方向に視線を向ける。
あちらに行けば、追っ手の兵士にその場で殺されてしまう。
「……もう、それなら左しかないじゃない!」
私は植栽の木々から滑り落ちながら、左の裏門方向へと疾走した。
ヒールの高い靴は脱ぎ捨てて、息が上がる胸を押さえつけ、ただ夢中で走った。
「はぁ……はぁ……!」
しかし、普段運動をしていない私の体はこの緊急事態についてこない。
とうとう足がもつれて、地面へ転げてしまった。
「いった……!」
傷だらけの体を起こしながら、私は這いずるように少しでも前に進もうとする。
だが、このままでは裏門に到達する前に捕まってしまう。
「ここまでなの……!?」
全く状況が分からないが、死を回避する力が与えられたというのに、足が震えて立つことすら叶わない。
恐怖と悔しさで、視界が涙で滲んでいく。
「……大丈夫か?」
「え……?」
涼やかな低い声が頭上から降り注ぐ。
おそるおそる見上げると、そこには青みがかった銀髪を流す青年が立っていた。
無表情ではあるが、太陽の光を受ける青の瞳には、やわらかな光が宿っている。
「あなたは……」
その青年の美しい顔立ちに見覚えがあった。
会話こそしたことがないが、彼は公爵家の嫡男として名を馳せている男性。
「テオドア様……?」
「君はシャーロット侯爵令嬢だな。何でこんなところに……そんな姿でいる?」
「そ、それは……」
「――おい、こっちを探すぞ!」
怒号にも似た声が鼓膜を打ち、背筋を凍らせながら振り返った。
まだ姿こそ見えないが、私の命を狙う追っ手がそこまで迫っている。
「……追われているのか?」
「は、はい……。申し訳ありません! 今は事情を説明している暇が無いので失礼します!」
私がふらつきながらも、体を奮い立たせて必死に立ち上がろうとする。
だがその意志に反して、膝に力が入らず体勢を崩してしまう。
「あ……っ」
「……!」
倒れ落ちそうなところを、流れるような動作でテオドア様が受け止めてくださった。
華奢そうな見た目に反して、その腕は私を支えてくれる。
「あ、ありがとうございます。もう、大丈夫ですので……!」
このまま一緒にいるところを見られれば、彼まで巻き込んでしまうかもしれない。
いや、そもそも彼が自分にとって味方かどうかも分からないのだ。
テオドア様から離れようと、体を引こうとした。
「シャーロット嬢、今しばらく動かないでくれ」
「え……? あ!?」
テオドア様は、礼装用のマントをはためかせながら、私をその胸元に抱き寄せた。
同時にマントで、髪すら見えないほどすっぽりと覆い隠した。
「テ、テオドア様!?」
「……声を出さないでくれ」
視界がすべて閉ざされ、テオドア様の胸元に沈み込んだ。
触れるだけで焦がされそうな熱に包まれたまま、鼓動の境目すらなくなっていく。
しばらくすると、鎧のこすれ合う音と共に、怒号のような声が飛び込んできた。
「おいそこの男! 女を見なかったか!」
「何用だ。私は今取り込み中だ」
「……あ、テ、テオドア様!?」
「逢瀬の最中だ。これ以上邪魔をすれば、ただではおかない」
「し、失礼いたしました……!」
テオドア様の声はどこまでも凪いでいて、落ち着きを感じさせる声音だった。
とてもその場しのぎの嘘をついているとは思えないほどに。
「行ったようだな。平気だったか、シャーロット嬢」
「大丈夫、です……」
マントが取り払われると、熱を冷ますかのように清涼な風が舞い込む。
彼の顔を見上げると、やはり無表情のままだった。
危害を加えられる心配はなさそうだが、感情の機微が分からず、私を庇ったその意図が読めない。
「怪我をしているな。手当をしたほうがいいだろう」
「お気遣いありがとうございます。でも、見ての通り追われている立場なので……」
「それならば公爵邸に行こう。我が家まで来れば、おいそれと手は出せないはずだ」
「え!? そんなご迷惑をおかけするわけには……」
「遠慮をするな。それに……君には聞きたいこともある」
「私に、ですか……?」
今助けてくれたことに、裏があるということだろうか。
彼をこのまま、信用してもいいのだろうか。
すでに二回も死の運命を辿った私は、どうしても慎重になってしまう。
「その体では歩くのも厳しいだろう」
頭の中で考えを巡らせていると、彼は私の肩に手を回した。
「へ……あ!?」
そのまま彼の胸元に横抱きでかかえられ、有無を言わさずに歩を進められてしまう。
「歩けます! あの、下ろしてください……!」
「大人しくしているんだ。それにこの状態のほうが、追っ手の目に触れにくい。すぐそこの裏門にある公爵家の馬車まで辛抱してくれ」
抗議の声は軽やかにかわされ、私の言葉は彼に聞き届けられない。
横抱きにされたまま、私は顔を赤くしながら馬車へと運び込まれた。
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