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第17話 余韻(2)

 結衣は、何も答えないまま。無言で瑞樹の食べかけの焼きそばをスルスルと食べ進める。


(……あれ?)


 その様子があまりにも普通過ぎて、瑞樹は『あれ? 俺、思わず言っちゃったけど、もしかして今のは心の声で、口には出てなかった?』と、図らずとも冷静な思考に戻った。


「あのー……結衣さん?」


 いや、そんなはずはない。


 確かに瑞樹は、今、自らの口でハッキリと言ってしまったのだ。


『好きだよ』と、結衣に伝えてしまったのだ。


 結衣は最後の麺を飲み込み、ゆっくりと割り箸を容器に置くと、体ごとこちらに向いた。


 そして、コホンと一つ小さな咳払いをして、ジッと瑞樹の茶色い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「……ラブの方……で、いいんだよね?」


「……お、おう……」


 良かった。ちゃんと聞こえてはいたみたいだ。


 結衣はポッと頬を薄紅色に赤らめて、瑞樹の目を見つめたまま、静かに答えた。


「そっか……ふーん……」


――そっか?


――ふーん?


 なんだ、その肩透かしな反応は。


 照れてるような感じはあるし、決して嫌な気にはなってなさそうだけど。

 YESともNOとも取れない、その曖昧な反応の意味がわからない。


 瑞樹が困ったように視線を左右に泳がせていると、結衣は堪えきれないように「ぷっ」と吹き出して笑い、瑞樹の大きな両手を、自分の両手でギュッと掴んで握りしめた。


「ふふっ。……私も好きだよ、瑞樹くんのこと。もちろん、ラブで」


 少し照れたように、はにかんでそう言う結衣は、いつもの小悪魔的でも意地悪でもなく、ただ純粋に年相応の女の子の笑顔を見せてくれた。


「……ま、じかっ……!」


――結衣も、好きだと言ってくれた。


 そうだったら嬉しいなと、今までの結衣との近い距離感での関わりで、都合よく期待していた。思わずにはいられないような、そんな思わせぶりな関わり方をしてきたからだ。


 でもやっぱり心のどこかで、『結衣という生き物は、元来そういう距離感で無自覚にスキンシップを行うオープンな女の子で。そこにオタクとしての好意こそあれど、恋愛的な意味での好きだからという理由ではない』と、そう予防線を張っていたのだ。


 でも、好きだと言ってくれた。


 瑞樹の中でずっとつっかえていた、自己嫌悪と罪悪感の塊が、音もなくどこかへ綺麗に消え去ったのを感じた。


 内心、かなり興奮している。


 待ちに待ったお気に入りの漫画原作が、最高の制作会社でアニメ化決定した時以上に、心臓がバクバクとドキドキしている。


 けれど瑞樹は、必死に大人の男としての平静を装って、なんとか次の言葉を紡いだ。


「えっ……と。結衣の反応を見てから後出しで言ってるみたいで、すごく申し訳ないんだけど……。その……俺と、付き合って、くれるのか?」


 好き同士であるなら、正式にお付き合いをして恋人になる。


 それは、ごく自然な流れだ。


 恋愛絡みの感情の機微に乏しい瑞樹でも、それくらいは知ってる。


 しかし、結衣の反応は、瑞樹の予想を斜め上に裏切るものだった。


「うーん……瑞樹くんは、そうしたい?」


 その予想外の質問に、瑞樹は素っ頓狂な声を出してしまった。


「へっ!?」


 あまりにも情けない反応だったからか、結衣はクスッと笑って、瑞樹の手をまた強く握り直した。


「ごめんね。瑞樹くんのことは本当に好き。好きなんだけど……」


「……いいよ。ハッキリ言ってもらって大丈夫だ」


 結衣の意図がわからない。


 傷つくかもしれないが、このままでは前に進めない。


「意図が汲み取れないから、遠慮せずに、正直に言って欲しい」


 瑞樹が真剣にそう言うと、結衣はコクリと頷いた。


「これは、完全に私の個人的な趣味の……我儘なの。だから、それに無理に従う必要は、瑞樹くんにはないんだけど……。……私たちの形は、友達のままじゃ、ダメ、かな?」


 まだ、わからない。


 好き同士なのに、友達のまま?


「付き合うって契約はしないけど、お互いがお互いを好き同士であるっていう事実は共有してる、みたいな……」


「……そうしたいのはわかったけど、そうする理由がまだわからないかな」


 結衣はバツが悪そうに、恥ずかしそうに視線を畳に逸らして、モジモジと答えた。


「……憧れ……? 知的好奇心……? うーんと、その……。禁断の、イケナイ関係、みたいな……秘密の背徳感が、リアルで……やりたい、ので……」


 どんどんと声が小さくなって、ただでさえ小さな体が、さらに小さく丸まっていく。


 だが、その特有のフェティシズムの告白で、結衣の真の意図が、瑞樹にはやっとわかった。


「……なるほど。要するに、先生と生徒、あるいは血の繋がらない兄と妹、みたいな。ラノベやアニメによくある『両思いなのに、立場上付き合えない秘密の関係』みたいなシチュエーションを、リアルでやりたいってことか」


「――そうっ!!」


 図星を突かれた結衣が、パァッと顔を上げ、キラキラと瞳を輝かせた。


 この輝きは、オタクが自分のニッチな好奇心や性癖を完全に理解してもらえた時にだけ見せる、特有の光り方だ。


 それなら、話は早い。


 見せたいアニメがあると言われれば、徹夜してでも見るし、小説の手伝いを請われれば、全力で手伝う。


 友達だけど、好き同士でいようとオタク仲間に言われれば、その通りにしてあげる。


 これは、瑞樹にとって最も得意な『簡単なお願い——ロールプレイだ。


「……のった!」


「えっ!? いいの!?」


 しかも、楽しそうだ。


 何故なら、一般常識で考えれば、全く意味がわからないからだ。


 好きなら普通に付き合えばいいのに、敢えてその契約をせず、友達のままでいるというのだ。


 意味がない。合理性もない。意味がわからない。


 だけど、結衣はそこにロマンを感じて、どうしてもそうしてみたいと心から思ったのだ。


 オタクとして、瑞樹がその楽しそうな提案にのらないはずがなかった。


「ほんと!? すごく意味わからない、面倒臭い提案だと思うけど……本当にいいの?」


「マジで意味がわからないけど、楽しそうだから、のるよ。その話」


「……ありがとうっ……!」


 結衣は、心配そうな顔から一転。心底嬉しそうに、花が咲くように明るく笑った。


「ただ!」


 瑞樹は、両手で結衣の手を強く握り返した。


 このゲームを始める前に、絶対に確認して、ルール化しておきたいことがあった。


「俺の正直な気持ちを言うから、結衣の意見も聞かせてくれ」


「わかった」


 頷いた結衣の目を、瑞樹は真剣に見つめる。


「正式に付き合うわけじゃないのなら。他人からすると、俺たちはただの仲のいい友達だし、そのスタンスをお互い崩すつもりもない。だから当然、お互いが誰か他の人間から告白されたり、アプローチされる可能性もあるわけだけど、その時のスタンスは、ちゃんと『好きな人がいるから』で断る、でいいんだよな?」


 結衣が、真剣な顔でコクリと深く頷く。


「別に、結衣を疑ってるわけじゃないんだけど——」


「大丈夫。私も、多分同じこと考えてるから」


 結衣は、気まずそうに苦笑いした。


「浮気の、話だよね」


「うん」


『付き合う』という正式な同意を伴っていない以上。例えば瑞樹が他の女性と良い雰囲気になっても、結衣は彼女として胸を張ってダメだと言えない。


 お付き合いは婚約と違って法的な拘束力はないけれど、それでもお付き合いしているという事実が自他共に認められていれば、周囲を巻き込んだ社会的な拘束力やモラルは生まれるのだ。


 高校生のカップルなら、尚更だ。


 そして瑞樹たちは、お互いがお互いを好きだと認め合いながら、それでも友達でいることを選ぶ。


 論理的、あるいは表面上だけで言えば、他の誰かと遊ぼうがキスしようが、浮気は浮気と認められないのだ。


 それが、瑞樹はどうしても嫌だった。


「……正直に言う。結衣が俺以外の他の男とイチャイチャするのは、俺は嫌だ」


「うん。それは私も、全く同じ思い。……私から友達のままでってお願いしておいて、すごく虫がいい勝手な話だけど。対外的には友達の体は守りつつ、心の中ではカップルのつもりではいて欲しい」


「わかった。約束する」


 瑞樹は深く頷いて、少し胸がホッとした。


 結衣も、同じ独占欲の思いでいてくれたのだ。


 こういう時、やっぱり結衣は最高だ。本音をぶつけても、変に拗ねたり邪推したりしない。言葉を言葉のまま捉えて、言いたいことの本質を汲み取ってくれる。


 この面倒で繊細な擦り合わせの作業は、おそらく結衣としか出来ないだろう。


 だからこそ、瑞樹は彼女を好きになったのだ。


「あと、朱音のことだけど……というか、一花も含めてだな」


「うん」


「あのシェアハウスの生活は、今すぐには辞められない。これに関しては、俺個人の問題じゃなくて、幼馴染それぞれの家庭の事情と、両親たちとの取り決めだからだ。……高校卒業までは、申し訳ないけど、朱音と一花がいる家で、今まで通り暮らすことになる」


 結衣は、真面目な顔で深く頷いた。


「それは大丈夫。私も理解してるつもりだから。……それに、一花ちゃんたちの家庭環境が少し複雑なのも、前に聞いたしね」


「ありがとう。……それと、朱音だけど……友達の体を貫くなら、きっと朱音はこれからも俺を諦めないと思う。自分で言っててめちゃくちゃキモいけど、あいつからは、すごく好かれてるから……」


『朱音には、キスをされた』


 そう言おうとして、言い淀む。言わなくても、朱音は毎日のように好きだと態度で示してくる。


「――キスするくらい、だもんね?」


「て、え? なんで、知って……」


 結衣が、苦笑いでぽりぽりと自分の頬をかく。


「今日、お化け屋敷の時に、朱音さんから耳打ちで聞いたんだ。『瑞樹くんに無理やりキスしちゃった。ごめんね』って」


「そ、そうか……」


 結衣は瑞樹にスッと更に近寄り、コトンと瑞樹の胸に頭を寄せる。


 ふわっと香る結衣の匂いは、いつもより少しだけ、お祭りの炭火の匂いがした。


「その辺に関しては……女としてはもちろん嫌だけど。目を瞑ることにする。朱音さんもそうだけど、一花ちゃんも瑞樹くんのこと、家族みたいに大好きだろうし。瑞樹くんが大切にしている幼馴染との温かい距離感を、新参者の私の存在で壊したくないのも、本当だから」


 結衣は胸元から顔を上げて、瑞樹を下から見上げた。


「だから、そこも今まで通りで大丈夫だよ。そもそも、私が友達のままがいいってワガママ言い出してるんだもん、自分に都合の良いことばかり言えないのは、ちゃんとわかってるから」


「……うん。わかった。正直、そう言ってもらえると本当に助かる。俺にとって、朱音たちはかけがえのない大切な存在だから。好かれてるとか関係なく、ずっと大切に守りたいから。……でも、一線は越えないように意識して努力する。その気持ちだけは、信じて欲しい」


「うん……ありがとう。……好き」


 結衣が、ギュッと瑞樹の腰に抱きつく。


 今まで何度だってこうして抱きつかれたのに、好きだとお互いに言葉にしてからこうされるのとは、心臓の高鳴りが、温度が、全然違った。


 結衣は少し顔を赤くして離れると、コホンと咳払いをして姿勢を正す。


「えーっと。設定の事前の打ち合わせは、これくらいかな?」


「そうだな……うん、大丈夫だと思う。何か思うところや、すれ違いがあったら、その都度隠さずに話し合いをしよう」


「了解です!」


 結衣は可愛らしくピシッと敬礼をして、ニコッと笑った。


 瑞樹からも、心からの柔らかい笑みが漏れる。


 好き同士なのに友達のままという、一般には意味のわからない歪な関係に落ち着いてしまったが。

 一応、二人の間の気持ちのベクトルは完璧に共有できた。


 中々進み出せなかった関係性の一歩を、確かに踏み出せたのだ。


 瑞樹は立ち上がると、結衣に向かって両手を広げた。


「……抱き締めたい」


 結衣はビックリしたように目を丸くすると、小さく「ふふっ」と笑って立ち上がり。


 素直に、瑞樹の大きな腕の中にすっぽりと収まった。


「瑞樹くんから抱きしめたいって言ってしてくれるの、初めてだね」


「そりゃあ……俺が自分からしたら、そこに恋愛的な意味が出てきちゃうだろ。……ずっとしたくても、理性が邪魔して出来なかったんだよ」


「ふふっ。瑞樹くんって、鈍感なくせに、変なところは律儀で繊細なんだね。……私はずっと、『あなたが好き』って意味で、いろいろしてきたのに」


 ドクン、と。


 また瑞樹の胸が大きく跳ねた。


「……いろいろって、なんだよ?」


「んー。全部、かな。たぶん、ほとんど全部。……気付いて欲しかったなー」


「それは……悪かったな」


「いーよ」


 結衣は、ゴシゴシと甘える猫のように瑞樹の胸に顔を擦り合わせると、本当に幸せそうに目を細めた。


(……ああ……幸せだ)


 瑞樹は今、これまでの人生で感じたことのない、この上ない絶対的な幸福を感じていた。


――そして、それと同時に。


 瑞樹の心の奥底に封印されていた、ある感情が、今か今かと待ち侘びていたように、ゆっくりと鎌首をもたげて顔を出した。


 それは、すべてを無に帰すような、とても禍々しい深淵の黒色だとも言えるし。


 あるいは、生まれたての赤子のような、無垢で汚れを知らない純白だとも言える。


 とにかく、瑞樹はこの強烈な感情の正体を、痛いほどよく知っていた。


 知っていたからこそ、今まで必死に目を背けてきたのだ。


(――ああ、よかった。……これでようやく)


 愛する人を手に入れ、これ以上の幸せはないという最高潮の絶頂の中で。


 まるで、長かった映画のエンドロールを眺めているような、酷く客観的で静かな虚無感が広がっていった。

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