第16話 告白
宮の森東高校の学校祭は、単なる高校の学校祭という枠組みを大きく逸脱した、地域を巻き込む一大エンターテインメントフェスティバルだった。
広大なグラウンドを使用して、生徒たちの有志による多彩な模擬店が立ち並ぶのはもちろんのこと、地域内外の有名飲食店やフードトラックまでが協賛として集結する『食のエリア』。
校舎前の長い並木道や石畳の広場を贅沢に使用して、手作りの雑貨やアンティーク小物、衣類の販売、さらには射的やスマートボール、巨大巨大迷路などのアクティビティが所狭しと並ぶ『物販・遊戯エリア』。
巨大な体育館を丸ごとライブハウスに見立て、軽音部のバンド演奏やダンスパフォーマンス、有志によるお笑いライブやステージ企画が朝から晩まで絶え間なく繰り広げられる『芸能・イベントエリア』。
そして、三階建ての校舎全域を使用し、各クラスや有志団体が創意工夫を凝らしたアトラクションや展示、お化け屋敷、カフェなどがひしめき合う『校舎内アトラクションエリア』。
生徒たちの家族や親戚、他校の友人はもちろんのこと、学校に関係のない一般住民や観光客までもが自由に入場可能となっており、二日間の開催期間で訪れる総来場者数は延べ五万人にも達するのだという。
一般の入場者からは、招待券がなければ数百円の環境整備協力金という事実上の入場料を徴収するシステムをとっており、その総額だけでも莫大な金額になる。それらの収益はすべて、翌年の学校祭の運営費や設備の拡充、さらには夜空を彩るフィナーレの打ち上げ花火の資金に回されているらしい。
五万人とは言っても、一般客の八割以上は屋外の屋台ゾーンを歩き回って夏祭りのような開放的な気分を味わったり、初日の夜に打ち上げられる壮大な花火が目当てだったりする。
そのため、特に屋外エリアの熱狂ぶりは凄まじかった。
とにかく、宮の森東高校の学校祭は、普通の高校生が経験するようなささやかな行事とは次元が違っていた。
「……マジで、人が多すぎだろ……」
模擬店やクラスの出し物に一切参加していない無所属の瑞樹は、屋外の『食のエリア』の片隅に一人佇み、これまで経験したことのない圧倒的な人混みと熱気にあてられていた。
時刻は、まだ朝の九時を回ったばかり。
開門の合図と共に、まるでダムが決壊したかのように、待機列を作っていた数千人の来場者が雪崩を打って校内へと流れ込んできたのだ。
グラウンドの外周をコの字型に囲むようにプロの飲食店や露店がズラリと並び、中央の広大なスペースには高校生たちが運営する個性的な模擬店と、何百脚ものパイプ椅子が並べられた巨大な飲食スペースが設置されている。
どこもかしこも、開場からわずか数十分で、足の踏み場もないほどの群衆で埋め尽くされていた。
炭火で肉を焼く香ばしい匂い、焼きそばのソースの焦げる匂い、甘いクレープの香りが、初秋の少し汗ばむ陽気と、何万人もの人間が発する熱気と混ざり合い、息苦しいほどの熱風となって吹きつけてくる。
「……これ、絶対に見つけられないな」
瑞樹は、完全に状況を見誤っていた。
朝イチの開場直後であればまだ空いているだろうと高を括り、結衣との待ち合わせ場所をこの『食のエリア』の入り口付近にしてしまったのだ。
しかも、「着いたらすぐに互いに気付けるだろう」と、細かい目印を決めず、大体の場所しか指定していなかった。
これは本当に困った。
先ほどからスマホを取り出し、メッセージアプリで何度か連絡を入れているが、電波が混雑しているのか、それとも結衣が移動中なのか、いまだに既読がつかない。
さて、どうしたものか。
瑞樹が額の汗を手の甲で拭い、困り顔で爪先立ちになりながら人混みをキョロキョロと見回していると――。
「……あ、いた」
ごった返す濁流のように人が流れていく中で、少し空いたブースの端で足を止め、何やら会話をしている一組の男女に目が留まった。
女の子の方は、結衣だ。
動きやすさを重視したのか、ぶかっとしたダボダボのサルエルパンツに、シンプルなオーバーサイズの白Tシャツというラフなスタイル。ふわりと風に揺れる、肩まで伸びた茶色いショートヘア。
少し離れた背中越しでも、瑞樹の目は一瞬で最愛の少女を見分けた。
そして、その結衣に親しげに話しかけている男の方は――間違いなく、うちのサッカー部の部員だった。
真夏のホストクラブのような、前を開けたラフな薄手のスーツ姿で、襟足の長い髪の毛をワックスでビシッと逆立てて決めている。
胸元にはジャラジャラとシルバーアクセサリーが光っていた。あれは遊から相談された、サッカー部模擬店の『客引き役』の衣装だ。
どうやら結衣はその客引き絡まれ、執拗に勧誘されているらしい。
男たちの気持ちは痛いほどよくわかる。今の結衣は、作り込まれたメイクや派手なファッションをしているわけではないが、素材そのものが飛び抜けて可愛らしく、人混みの中でも嫌が応にも目を惹く存在感を放っているのだから。
瑞樹は人混みをかき分けて二人の元へと小走りで駆け寄ると、結衣に身を乗り出していたサッカー部の男の肩を、無言でポンと叩いた。
「悪い。この子は、俺の連れだからダメだ」
「んー? なんですか……」
「あっ! 瑞樹くん!!」
瑞樹の声に気付いた結衣は、パァッと表情を輝かせ、勧誘の男など忘れたように瑞樹の右腕に両手でギュッと抱きついた。
その親密で隙のない様子を目の前で見せられたサッカー部の男は、「なんだよ、彼氏持ちかよ! 邪魔してごめんなさーい!」と両手を上げておどけ、すぐに次の獲物を探しに人混みの向こうへと消えていった。
「あー、助かったよー! もう、強引に腕引かれそうになって困ってたんだから! ていうか、人多過ぎじゃない、ここ!?」
結衣は瑞樹の腕から離れ、信じられないものを見るような呆れた表情で、周囲を埋め尽くす群衆を見回した。
「まさか開場直後からここまで人が多いとは思わなかったんだ。……広すぎて、絶対に見つけられないと半ば諦めてたよ」
「でも、ちゃんと見つけてくれたねー」
結衣は、太陽のように屈託のない笑顔を向けてニコニコと笑う。
その笑顔が、瑞樹はたまらなく好きだった。
心細い人混みの中で、ずっと会いたかった結衣に会えて、ただ彼女が笑ってくれた。それだけのことで、さっきまでの疲労感や不快な暑さは嘘のように消え去り、瑞樹の胸の奥は温かい幸福感で一気に満たされていく。
正直なところ、もう学校祭の展示などどうでもよくて、このまま結衣の手を引いて家に帰ってしまっても、何の後悔もないとすら思えた。
「――おはよう、水橋さん」
と、そこへ背後から落ち着いた声が掛けられ、二人が同時に振り向く。
そこには、両手に冷たい氷の入ったプラカップのドリンクを持った、長身の男――遊が立っていた。
「遊?」
「あ! 天音くん!?」
二人が驚いて目を丸くすると、遊は持っていた結露したドリンクのカップを、二人の前に差し出してきた。
ミルクティーと、レモンティーだ。
「ごめんね、さっきうちのサッカー部の連中が、しつこく声掛けちゃったよね。……お詫びに、これ。飲んで」
遊の格好を見て、瑞樹は思わず息を呑んだ。
さっきの男と同様、いや、それ以上に気合の入った、黒いサマースーツの前を大胆にはだけさせたスタイル。サラサラの黒髪は大人っぽくオールバック気味にセットされ、首元にはシルバーのネックレス、細い指にはリングが光っている。
どこからどう見ても、夜の歓楽街のナンバーワンホストだ。これで本当に、自分と同じ高校一年生なのか。あまりにもルックスが完璧すぎて、男の自分から見ても理不尽なほどにイケメンでムカつくレベルだった。
自分の横にいる結衣が魅了されてしまわないかと、咄嗟に瑞樹が結衣の顔色を窺うと、
結衣は遊のイケメンぶりなど全く気にする様子もなく、ただ純粋に喉が渇いていたようで、ニコニコと両手でレモンティーのカップを受け取っていた。
「わー、ありがとー! ちょうど喉乾いてたんだー!」
その色気より食い気な、いつもの結衣の変わらない姿に、どこか深く安心している自分がいた。
瑞樹は無自覚に張り詰めていた肩の力を抜き、はぁと小さく安堵の胸を撫で下ろす。
「じゃあ、僕のシフトはこれからだから、もう行くね。……水橋さんはさすがにうちの店には来れそうにないだろうから、こうして顔だけはちゃんと合わせておきたかったんだ」
遊は、ミルクティーを瑞樹に手渡し、ニコッと自然で爽やかな笑顔を見せた。
以前の遊なら、人間嫌いで他人にこんな温かい笑みを向けることなど絶対にあり得なかった。彼女である中村紗綾香と出会ってから、遊は彼なりに少しずつ心を開き、人間として確実に成長しているのだ。
その事実が、瑞樹には無条件に嬉しかった。さっきまで心の片隅で燻っていた小さな嫉妬や不安が、遊のその誠実な笑顔で、途端に綺麗に吹き飛んだ。
「サンキュー、遊。……接客、無理しすぎない程度に頑張れよ」
「うん。ありがとう、古河。二人とも、学祭楽しんで」
そう言って小さく手を振り、遊は周囲の女子たちの熱い視線を浴びながら、巨大なサッカー部の模擬店ブースへと戻って行った。
遊の背中を見送りながら、結衣がトンッと瑞樹の肩に自分の肩をぶつけてくる。
「……あれが、噂のホストクラブ?」
「そ。やばいだろう、うちの高校の自由さ」
遠巻きに、サッカー部の連中が運営する巨大なテントブースが見える。
遊と同じような派手なスーツやシャツを着崩した男たちが、テーブル席に女子高生や年上の女性客を座らせ、身振り手振りを交えて談笑しながら、高価なノンアルコールドリンクや軽食を振る舞っている。
周囲の健全な模擬店とは一線を画す、完全に異質な空間。キラキラとした高校生の爽やかな青春とはかけ離れた、ギラギラとした欲望と妖艶な雰囲気が色濃く漂っていた。
「……やばいね。完全に夜の街じゃん」
結衣は呆れたようにケタケタと笑い、そして、ごく自然な動作で、瑞樹の空いている左手をサッと握ってきた。
「瑞樹くん、いこ! 他のお店も、いっぱい見て回りたい!」
「お、おう……!」
(……ここでも、普通に手を繋ぐのか……)
最近は二人で出かける時は当たり前のように手を繋いだり、腕を組んだりしていた。以前はそれが結衣にとっての正常な距離感なんだと自分に言い訳をしてあまり深く気にしていなかったはずなのに。
あの日、自分の心にある結衣が好きだという決定的な感情と、自らの穢れを明確に意識してしまってからは、こうして肌が触れ合うたびに、心臓が跳ね上がるような強烈な照れと緊張を感じてしまう。
すれ違う何千人もの来場者や、同じ学校の生徒たちの視線も、嫌が応にも気になってしまう。
チラリと横目で繋いだ手と結衣の横顔を窺うと、結衣はいつものように周囲の目など一切気にせず、ニコニコと楽しそうな笑顔で、次はどの屋台の何を食べようかと、好奇心旺盛にキョロキョロと首を巡らせている。
この密着に胸を高鳴らせ、過剰に意識しているのは、やっぱり自分だけなのだ。
そこに男としての微かな悔しさを感じつつも、それでも『友達という安全な立場を利用して、彼女の温もりだけを独占している』自分の狡くて穢い本性が脳裏に浮かんで、そんな自分への嫌悪感が再び湧き上がってくる。
――もう、このままじゃダメだ。
結衣の優しさと人懐っこさに甘え、自分の都合の良いようにただ距離を置かず、関係性を曖昧なままにしておくのは、もう絶対に終わりにしなければならない。
それはつまり、今の関係が壊れる恐怖を乗り越えて、自分の言葉でハッキリと思いを伝え、二人の間に何かしらの明確な結末を迎えるということだ。
昨日までと同じ自分たちではなく、すべてが変わってしまう。
それが、どうしようもなく怖い。
だけど。
この狡い逃げ場所に居座り続けることは、絶対に人間としてやってはいけないことだった。
周囲の喧騒が遠のき、繋いだ結衣の小さな手の熱だけが、やけに鮮明に感じられた。
(……今日、言おう)
瑞樹は繋がれた小さな手の温もりを握り返し、その騒がしい熱狂の空の下で、静かに、しかし強く決心した。
***
それから二時間ほどかけて、二人は熱気溢れる食のエリアを歩き回り、揚げたての唐揚げ棒や焼き鳥、たこ焼きなどの買い食いを存分に楽しんだ。
そして、締めとして購入した山盛りのブルーハワイとイチゴのかき氷を両手に持ち、奇跡的に空いたパイプ椅子の飲食スペースへと腰を下ろした。
さすがに学校祭の休憩ブースは一つ一つのテーブルが小さく、椅子が横並びではなく向かい合う形で設置されていたため、いつもは密着してくる結衣も、わざわざ椅子を移動させてまで隣にくっついてこようとはしなかった。
白い会議用テーブルを挟んで、正面に向かい合って座る。
椅子に座った瞬間、結衣は「ふうーっ……」とドッと疲れた表情を浮かべ、テーブルの上に突っ伏すように項垂れた。
「暑い……そして、人が本当に多すぎる……。瑞樹くん、ここは本当にただの高校の学校祭なの? なんかのフェスじゃないの?」
「今のところ、完全にただの巨大な野外フェス会場だよな……。俺も行ったことはないけど、噂に聞くコミケとかも、きっとこんな感じの熱気なんだろうな」
先月訪れた、結衣の通う大谷高校の学校祭も華やかでフェスのようだとは感じたが、宮の森のそれは、根底の規模と動員数がまるで違っていた。
大谷高校の学祭が地域の市民会館や地方の野外フェスだとしたら、宮の森東高校のこの行事は、首都圏の巨大ドーム公演や全国規模のフェスに匹敵するほどの熱量と密度だ。
出店の絶対数と、行き交う人間の数が違いすぎる。
さっきのかき氷を一つ買うだけでも、長蛇の列に並んで三十分以上は掛かったのだ。
さらに、体育館で繰り広げられている軽音部の重低音の効いたロックなバンドサウンドが、グラウンドの至る所に設置された巨大スピーカーから大音量で流されており、足元の地面がビリビリと震えるほどの熱気も相まって、自分が今ライブ会場にいるのか学校祭にいるのか、もはや脳が錯覚を起こすレベルだった。
結衣は、熱気のせいで既に半分以上溶けてジュースになりかけているイチゴ味のかき氷をストローで吸い上げながら、ジッと正面から瑞樹の顔を見つめてきた。
「疲れたよな。体調、大丈夫か? 人当たりしてないか?」
瑞樹が心配そうに問いかけると、結衣はストローを口から離し、ぶんぶんと勢いよく首を振った。
「体調は大丈夫! でも、もう屋外の人の波はお腹いっぱい……。もう少し平穏で涼しいところに行きたいよ。私の体力ゲージが、そろそろ活動限界を迎える……」
HPはもうゼロよ、やめたげてと結衣は小さく溢す。
「そしたら、クーラーの効いてる校舎の方に行こうか。……そうだ、一花と朱音もそれぞれ催しものをやってるから、少し休憩がてら、そこを見に行かないか?」
その提案に、結衣は少しだけ真顔になり、気まずそうに視線を彷徨わせて苦笑いした。
「……私、二人から嫌われてないかな? ほら、前にバッタリ会った時に、結構お互いに敵意剥き出しだったし……私も私で、売られた喧嘩を買うみたいに、ちょっと大人気ない態度取っちゃったと言うか……」
――それは、少し前の出来事だった。
あの頃はまだ、朱音が瑞樹に向ける感情をこじらせており、それを一花が応援していた時期だった。瑞樹自身はそんな幼馴染たちの感情の裏側にまだ気づいておらず、そして朱音たちもまた、水橋結衣という他校の少女の存在を一切知らなかったのだ。
女の勘というやつで、自分たちの幼馴染にただならぬ親密な関係の女の子がまとわりついていると察知してはいたようだが、結衣の家の近くのコンビニ前で初めて鉢合わせたあの時。確かに朱音と一花は、隣に立つ結衣に対して明確な警戒心と敵意を向け、言葉の刺を向けて食ってかかっていた。
あの時の、いつ刃傷沙汰になるか分からないようなヒリヒリとした焦りと冷や汗は、今の瑞樹の脳裏にも鮮明に焼き付いている。
「……あー。でも、今はもう全然大丈夫だと思うぞ」
瑞樹は、あの修羅場を思い出して苦笑いを浮かべながら答えた。
「今となっては、二人とも結衣という大切なオタク友達がいることをちゃんと認めてくれてるし。俺が休みの日に結衣と遊びに行ったり、お泊まり会をすることにも、もう誰一人として口出しはしてこないからさ」
しかし、結衣はまだスッキリと煮え切らない様子で、かき氷の氷をスプーンでつついた。
「それはまぁ……表面上はそう言ってくれてるのかもしれないけどさ。……朱音さんは、今でも瑞樹くんのこと、異性として好きなんだよね?」
「……そう、だな。それは、否定できない」
「だとしたら、私がこうして瑞樹くんの隣にずっといるとこを見るのは、やっぱり女としてすごく嫌なんじゃないのかなーって。……そもそも、瑞樹くんは二人に、私のことなんて説明してるの?」
「えーっと……それは、その……」
――『結衣が、好きだ』。
それは、朱音はおろか、一花に対しても、そして遊に対しても、瑞樹が自らの覚悟として堂々と宣言していることだった。
だからこそ、こうして週末に結衣と会うのも、親密に一緒にいるのも、すべて瑞樹自身が心の底からそうしたいと望んでいるからだと、幼馴染たちは全員が正しく理解し、その上で見守ってくれているのだ。
しかし、肝心の告白をまだしていない今の段階で、どうやってこの事実を結衣本人に伝えればいいのか。
瑞樹が言葉に詰まって言いよどんでいると、結衣がこちらの隙を見つけたと言わんばかりに、ニヤッと小悪魔的な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「えー、なになにー? その怪しい反応。……もしかして瑞樹くん、『俺は結衣のことが好きで好きでたまらないから、俺の恋路を邪魔するな!』とか、恥ずかしい台詞を二人に言ってたりするー?」
「――っ……!!」
図星だった。
ほぼその通りのニュアンスで宣言していたのだ。
ヤバい、このままでは告白の前に全部バレる。
心臓が警報を鳴らす中、瑞樹は必死に表情筋を総動員して、過剰なくらいの冷静さを装った。
「ふっふっふ……。よくぞ分かったな、水橋結衣! その通りだ! 俺は結衣という最高のオタク友達が世界で一番好きだから、俺たちの神聖なアニメ鑑賞会を邪魔するなと、声高らかに宣言してやったんだよ!」
「うわっ、出た、開き直りの魔王ムーブ! 全然目が笑ってないよ、瑞樹くん!」
あえて過剰なテンションでノッてみせることで、真実ではなくいつもの冗談のじゃれ合いであるかのように偽装する。
結衣はしばらくジト目で瑞樹の顔の細部をジッと見つめて探りを入れようとしていたが、やがて呆れたように「ふふっ」と小さく吐息を漏らし、からかうのを諦めた。
「……まぁいいや。とにかく、私が行っても修羅場にはならずに、安全で大丈夫ってことね。じゃあ行く」
――偽装作戦は、なんとか成功だ。
瑞樹はバレなかったことに、心の底からホッと安堵の胸を撫で下ろした。
「よし。じゃあ、まずはクーラーの効いてる一花のクラスの出し物のところに行こうか。……あ、そうだ、一花のクラスと言えばさ!」
瑞樹は先週経験した、あの『一から十までの名前コンプリート』という奇跡を思い出し、オタク仲間に教えるように嬉々として語り始めた。
「一花のクラスの出し物って、コンセプトカフェなんだけど。そこを手伝ってるスタッフの女子生徒たちの名前のラインナップが、マジで奇跡なんだぞ」
「えっ、なになに? どんな名前なの?」
「聞いて驚けよ。……一花、二ノ宮、三鷹、四葉、そして五十嵐がいるんだ」
その並びの意味と、まるで漫画のキャラクター設定のような美しさが一瞬で伝わったのか、結衣はパァッと顔を輝かせ、目をキラキラとさせた。
「ええっ、すごっ! なにその『実写版・五つ子ヒロインのラブコメ』みたいな綺麗な数字の並び! 仕込みじゃないの!?」
「だろ!? 気づいた時、俺も内心めっちゃ興奮してさ! ……でもな、俺の学校の奇跡は、まだここでの『五』では終わらなかったんだよ」
瑞樹はもったいぶってかき氷を揺らしながら、さらに続けた。
「そのあと、サッカー部の遊たちの模擬店の手伝いで、別のクラスの『六花』って子に会って。さらにそこには、『七瀬』と『八重樫』ってイケメンがいたんだよ」
「えええっ! すごすぎ!! 八まで連続で埋まることある!? ……ってことは、まさか九と十もいるの!?」
「いるんだよ、これが。帰り際の校門ですれ違ったんだが……『九条 十兵衛』先生だ」
「ぶっ……あはははは!! 嘘でしょ! ていうか、『十兵衛』って!」
結衣はたまらず吹き出し、テーブルに突っ伏して肩を揺らして大笑いした。
「本物の侍の名家の子孫らしいぞ? しかも、教鞭をとっている科目が日本史という完璧な設定だ」
「かっこよすぎなんだけど、その先生! 瑞樹くんの高校、なんだか名前の強者ばかりが揃ってるね! ラノベの世界じゃん!」
「だろ。この数字コンプリートのどうでもいい興奮と感動は、絶対に結衣なら分かち合ってくれると信じてたよ」
「うん、最高! 感動しちゃった!」
二人は周囲の熱騒も忘れ、テーブルを挟んで顔を見合わせ、声を上げて楽しく笑い合った。
やっぱり、こうして気兼ねなくオタク話で笑い合える、結衣と同じ目線で過ごすこの時間が、何よりも愛おしくて幸せだ。
すっかり溶けて生ぬるいジュースになった氷水を一気に飲み干し、二人は立ち上がると、賑やかな屋外のグラウンドに背を向け、涼しい風が待つ校舎内へと並んで歩き出した。




