第15話 境界(6)
「ちょっ……! 待てって、一花! 今、朱音と顔を合わせづらいんだが……!」
一花に強引に手を引かれて薄暗い階段を登りながら、瑞樹は焦った囁き声で必死に抵抗する。
「見るだけでいいから。ほらほら、おいでー」
一花はそんな瑞樹の抵抗など意に介さず、楽しそうに、そして悪戯っぽく笑ってズンズンと進んでいく。
「なんだよ、見るだけって……」
やがて二階の朱音の部屋の前に着くと、一花は振り返り、「シッー」と自分の唇の前に人差し指を持ってきて瑞樹を制した。
そして、朱音の部屋のドアノブをそっと回し、音を立てずに数センチだけドアを開けた。暗い廊下に部屋の中のオレンジ色の明かりが細く差し込み、一花はその隙間から中を覗き込むよう、目で促してきた。
(……見るだけって、そういうことか)
朱音は今も、一人で悲しみと絶望に暮れて泣いてるんじゃないかと瑞樹は思っている。
だから、そんな痛々しい姿を直視したら、尚のこと自分の罪悪感が湧き上がり、彼女とは距離を置きたくなってしまう。
そんな姿をわざわざ見せて、一花は一体何がしたいのか。
瑞樹は恐る恐る、一花に並んでそのドアの隙間から、部屋の中を覗いてみた。
朱音は、大きなベッドの上にうつ伏せになっていた。
顔を枕に深く埋め、ジャージ姿の細い両足を、バタバタバタッ!と忙しなくシーツに打ち付けている。
そして。枕越しに朱音が発したくぐもった大声で、瑞樹は完全に唖然とする。
「——瑞樹くんとキスしちゃったキスしちゃったキスしちゃったっ……!! はぁ〜〜〜っ! やっちゃったぁ〜〜〜っ! キャハァ〜〜〜ッ!!」
「……」
瑞樹は無言でゆっくりとドアから顔を離し、一花が静かにドアを閉めるのを見届けると、キョンシーのようにギギギと首を回して一花に振り向いた。
一花は暗闇の廊下で、ニコニコと満面の笑みでこちらを向いていた。
ジワリと額に冷や汗が滲み、瑞樹は追いつかない脳の処理を無理矢理再起動させて、掠れた声で呟いた。
「……な、なんだあれは……」
まるで、未知の深海生物を初めて目撃したかのような、情けない悲鳴を帯びた声だった。
一花は、そんな瑞樹を見て優しく笑みを浮かべた。
「朱音ちゃん、脱衣所から帰ってきてからずっとあんな感じだったよ。泣いてもないし、辛そうでもないの」
「……マジで言ってる?」
「うん。最初こそ少し落ち込んでたけど、それも『無理やりしちゃって、みーくんに嫌われてないかな』とか、そっちの心配だけ。ずぅ〜と朱音ちゃん、ああやってみーくんとちゅーしたことの余韻に浸って、嬉しがって悶えてるんだよ」
「……ほんと羨ましい……」と小さく呟いた一花の言葉は、混乱の極みにいる瑞樹の耳には届かなかった。
瑞樹は信じられずにもう一度、自らドアを数ミリ開けて朱音の部屋の中を覗き込むが、ベッドの上をゴロゴロと転がり回りながら枕を抱きしめる朱音の、同じ光景が続いていた。
思い込み?
被害妄想?
独りよがりな罪悪感?
とにかく、瑞樹が先ほどまで自室で思い悩んでいたような最悪の状況ではないのが、一目でわかった。
瑞樹は一気に全身の力が抜け、その場の廊下の床にへたり込んでしまった。
「……そっか……そっか……!」
良かった。
それが、瑞樹の心底からの素直な気持ちだった。
一花がしゃがみ込み、床に座り込む瑞樹と視線を合わせる。
「みーくんがあまりにも一人で勝手に自分を責めてるから見せたけど、本来はあの朱音ちゃんの浮かれた気持ちも、悲しむ気持ちも、朱音ちゃんだけのものなんだよ」
「……そう……だな」
あんまり覗き見していいものではなかった気はしている。
でも、今この瞬間も朱音が絶望の淵に立たされていなくて、本当に良かった。
ほんの半年前までは、あいつらに絶望を与えて殺そうとまでしていた相手。しかし今は、絶望どころか、少し悲しませることすらしたくない。
彼女は、大切な幼馴染だから。
瑞樹は一花を真っ直ぐに見つめ、小さく、しかし確かな感謝を込めて呟いた。
「ありがとう、一花。……間違いなく、俺はお前に助けられた」
「いーんだよー。私も、みーくんが大好きだからね。助け合うのが私たちの関係、でしょ?」
「ああ。……俺も、みんなが大好きだ。これからもお前の言葉に頼らせてもらうよ、一花」
「……うん」
一花は、少しだけ切なそうに、でも嬉しそうに笑って。そして、しゃがんだまま両手を広げた。
「ご褒美、ちょーだい」
抱き締めて。その無言の合図だ。
瑞樹は尻餅をついたままの体勢で一花に擦り寄り、自分の足の間に一花を収めて、そのままギュッと抱き締めた。
風呂上がりのみんなと同じ、フローラルなシャンプーの匂いがふわっと香って、一花の柔らかく華奢な体が瑞樹にピッタリとしがみつく。
「ありがとな、一花」
瑞樹が感謝を込めて優しく頭を撫でてやると、一花は猫のように嬉しそうに目を細めた。
その時。
朱音の部屋の中から、タッタッタッとドアに向かって歩く足音が迫ってきた。
(朱音が来る!)
二人は慌てて体を離し、立ち上がろうとした。
ガチャ……。
「——わっ!」
部屋のドアを開けて、薄暗い廊下にいた瑞樹と一花が目に入り、朱音は飛び上がって驚いた。
「な、何してるの……? ……瑞樹、くんっ……!」
瑞樹と朱音の目が合う。
朱音は、先ほどの脱衣所での情熱的なキスを思い出したのか、みるみるうちに首元まで顔を真っ赤にして、「ひゃっ!」と短い悲鳴を上げて部屋の中に戻って行ってしまった。
二人は立ち上がり、そして一花が「ほら、行って」と瑞樹の背中を押し、瑞樹は覚悟を決めて朱音の部屋の中に入ることにした。
朱音はベッドの上に逃げ込み、頭から掛け布団をすっぽりと被って、隙間からこちらの様子を伺うように見ていた。
瑞樹が恐れていたような、絶望して心を閉ざした様子ではないのは、見て明らかだった。
一花が、布団にこもる朱音に向かって状況を説明してやる。
「みーくんがね、朱音ちゃんがすっごく悲しんでいるんじゃないか、それは全部自分のせいなんじゃないかって、ずっと一人で落ち込んでたの。だから私が、『それは違うよ』って話をして、連れてきたんだよ」
布団の隙間から、朱音がコクコクと頷く。
瑞樹は朱音のベッドの前まで歩を進め、しゃがんで朱音と同じ目線になるように向き合った。
「……一花と話して、全部納得した。朱音の気持ちも、俺がやるべきこと、やらなくていいことも、多分理解できた。……でも、俺のハッキリしない態度で、少しでも朱音を不安にさせて悲しませた事実はあると思う。……だから、それだけは謝らせてくれ。これは、俺の自己満だ。……ごめんな、朱音」
瑞樹の真摯な言葉に、朱音はバサッと布団を捲って、真っ赤な顔で瑞樹を見つめ、そして強く首を横に振った。
「ううん。あたしこそ、ごめんなさい。……瑞樹くんは結衣さんを好きなのに……瑞樹くんの気持ちを考えずに、勝手なことしちゃった。軽率だった。……ごめんなさい」
朱音はそう素直に謝って、ペコリと頭を下げた。
瑞樹の頭の中に、以前結衣から言われた言葉が蘇った。
『言わないと伝わらないよ。言葉にしなくても察してほしいなんて、ただのご都合主義で、傲慢だよ』と。
本当にその通りだ。
一人で勝手に頭の中で思考のループを巡らせても、すれ違うだけであまり意味がない。
こうしてちゃんと顔を合わせて、目を見て言葉を交わすことが、本当に大事なんだ。
瑞樹と朱音は顔を見合わせて、ふふっと少し照れくさそうに笑った。
それ以上に言葉はもう必要なかった。
「こらこら、二人だけの良い雰囲気にならないの」
一花が、しゃがんでいる瑞樹と、ベッドに座る朱音の頭を、それぞれコツンと軽く叩く。
「いたっ」と痛がる朱音を見下ろしながら、一花は真面目な顔で口を開いた。
「朱音ちゃん。さっきもみーくんに言ったけど、強引に一線越えたのは朱音ちゃん自身の責任だからね? 私は基本的に恋する朱音ちゃんの味方だけど、そういう線引きとかルールはちゃんと守らないと、応援出来ないからね」
「……はい」
一花は優しく笑うと、しょんぼりとした朱音の頭をよしよしと撫でた。
そして、ニヤリと悪戯っぽく口角を上げて、爆弾を落とした。
「……で? みーくんの唇は、柔らかかった?」
「——おいっ!?」
瑞樹は顔を真っ赤にして焦るが、女子二人は完全に無視。
「柔らかかった! ……でも、タコライスの味した!」
「直前まで夕飯食べてたからな! 生々しい感想やめろ!!」
どん底まで落ちそうだった瑞樹の深い悩みは、一花のファインプレーによって、温かい笑い声と共に綺麗に晴れて終えることができたのだった。




