↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

91/138

第15話 境界(5)

 結衣が、好きだ。


 雫が死んでしまったと聞かされた後、瑞樹は深い絶望の中で、雫の好きだった景色を見るように、オタクの世界にどっぷり浸かった。


 アニメを観て、漫画を読み、小説やフィギュアにも触れた。


 その活動の中でSNSに登録して、『ころも』とネット上で毎日のように話すようになった。


 ころも——水橋結衣との最初の出会いは、顔も名前も知らない、広大なインターネットの海の中だった。


 そして紆余曲折あって、劇的な出会いを果たした。


 広大な海の中の話かと思ったら、金魚の水槽くらい狭い世界の話だった。


 結衣は、瑞樹の暮らす街から電車でたった一本の隣町で一人暮らしをする、同い年の女子高生だったのだ。


 それから頻繁に会うようになって、かけがえのないオタク友達として、楽しくて心温まる日々を送っていた。


 そして気付いたら、どうしようもなく彼女を好きになっていた。


 いつからなんて、明確な時期はわからない。つい最近、彼女の笑顔を意識し始めた気もするし、もっと前の、顔も知らない『ころも』として夜通しやり取りをしていた時から惹かれていた気もする。


 ただハッキリと断言できるのは、瑞樹は今、結衣のことが大好きだということだけだ。


——結衣は、どう思ってるのか。


 何度も考えて、期待しては打ち消して、ただの仲のいい友達だろうと無理やり結論付けた。


 一緒にいる時に凄く楽しそうに笑ってくれるし、心配になるほど無防備で人懐っこいし、ちょっとエッチで小悪魔的にからかってくるけれど。


 それでも、瑞樹と結衣を根底で繋いでいるのは、お互いが重度のオタクであるから。その一点だけだから、それ以外の親密なスキンシップに、恋愛的な意味はない。


 そう、必死に思い込もうとした。


 二人の関係はどこまで行っても友達だと結衣は思っているのだろうと、そう結論付けたのだ。


 結衣に告白して、この気持ちを真っ直ぐに伝えてない一番の理由は、そこにある。


 怖いのだ。


 気持ちを伝えて拒絶され、今のこの心地よい関係が完全に壊れてしまうのが、何よりも怖かった。


 月並みな不安だと思う。ラブコメ作品でよくある、ありふれた葛藤だ。自分がその状況になるなんて思いもしなかったけど、実際になってみたら、その恐怖が痛いほどわかる。


 不安が、いつなんどきも影のように寄り添ってる。


 結衣との時間が楽しければ楽しいほど、温かければ温かいほど、それを失う明日を考えて、告白の足踏みをしてしまう。


 結衣を心から好きだからこそ、「好きだ」と言えない。


 瑞樹は。


 古河瑞樹という男は。


 自分はそんな純情で、器が小さくて、どこにでもいるありふれた恋する男なのだと、そう思っていた。


——そう、思い込んでいたのだ。


 純情な被害者のフリをして、思い込んで、自分の腹の底にある穢さを隠して見ないふりをしていた。


 その方が、自分にとって何百倍も都合が良かったから。


 好きだの嫌いだの、恋だの愛だのする面倒な恋人にならなければ、結衣とアニメや漫画とかの好きなものを、これまで通り純粋に二人で共有して楽しめるから。それだけ感じていればいい、関係性の破綻などという余計なリスクは考えなくていいから。


 そして。


 友達として純粋にそれだけを楽しんでいれば、もれなく結衣とイチャイチャ出来るからだ。


 まるで恋人のような甘い距離感で、恋人同士でしかやらないような密着や、お泊まりや、スキンシップが、合法的に出来るから。


 だから瑞樹にとっては、今のこの『友達以上恋人未満』という関係が、とてつもなく居心地が良くて、この上なく都合が良かったのだ。


 この自分の本性の醜さに、瑞樹はずっと気付かないふりをしていた。


 ひしひしと、熱烈に、彼女の温もりを感じていたはずなのに、そのズルい自分の穢れを、なきものにしていた。


 だけど、今日。

 遊が彼女とキスをしたという純粋な話を聞いて、友達と恋人の境界線を真剣に考えた時。


 そして、朱音から悲痛なキスをされた時。


 瑞樹は、自分の穢れを認めざるを得なかったのだ。


 反吐が出るほど醜い、己の狡さだ。


 友達の線を越える責任を負わずに、恋人としての甘い幸せだけを享受しようとしてる愚かさ。


 その生ぬるい状況を受け入れ、もっともらしい理由をつけて居座ろうとする傲慢さ。


 あわよくば、結衣の方から告白してこないかなと、ノーリスクで期待をする底なしの強欲さ。


 そしてその裏で、自分に直向きに思いを寄せてくれる朱音を、ハッキリと突き放すことができず、結果的に誰よりも深く彼女を悲しませてしまった。


 彼女の気持ちに恋人として応えることが出来ないとわかっているのに、優しいふりをしてなあなあなままの関係を続けたから、朱音を絶望の淵まで追い詰めてしまった。


 彼女に、あそこまで悲しいキスをやらせてしまった。


 全部、全部、瑞樹のせいだ。


 結局のところ、古河瑞樹という人間は。


 天音遊よりも他人を信じることが出来ず。


 城ヶ崎朱音よりも否定されることを恐れ。


 井上一花よりも、他者からの愛に飢えていたのだ。


——化け物。


 瑞樹という人間を形容する、一番わかりやすい言葉。


 矛盾と穢れを孕んだ、人ならざる者。


「……はぁ……っ」


 瑞樹は暗い自室のPCデスクに、力なく突っ伏していた。


 今すぐこの家から逃げて、この街から逃げて、誰も自分の醜さを知らない世界に行きたい。


 そんな逃避を考えながら、それでも無情にも過ぎていく時間を憎んで、瑞樹はただただその場から一歩も動かずにいた。


 明日は学校を休もうか。あんな顔をした朱音と、朝起きてどう顔を合わせればいいのかわからない。


 そんなことを思いつつも、だけど、今すぐ結衣にはすごく会いたい。そんな一貫性のない自分がまた嫌になる。


 延々に終わらない思考のループに入り込んで、かれこれ三時間は経過しただろうか。


 とっくの間に日付は変わって、深夜一時を過ぎていた。


 そんな時、自室の重い静寂と瑞樹の思考を遮断するように、ドアがコンコンっ、と小さくノックされた。


 誰とも話したくなくて瑞樹は無言で無視していたが、ガチャリとドアはゆっくりと開かれた。


 入ってきたのは、一花だった。


 薄手のパジャマ姿で、どこか悲しげな、すべてを悟ったような表情を浮かべている。


「みーくん。……ちょっと、話そっか」


「……あんまり、話したくは……ないな。一人にしてくれ」


 瑞樹が拒絶しても、一花は後ろ手に静かにドアを閉める。


「それは、聞けないお願いかな」


 一花は瑞樹のベッドの縁にちょこんと座り、瑞樹は重い体を動かして、デスクチェアを回転させて一花に向く。


 この深夜のタイミングで一花がわざわざ来たのは、十中八九、先ほどの朱音のことだろう。


 朱音から事の顛末を聞いて、瑞樹の無責任な態度を咎めに、糾弾しに来たのだ。


 そうに違いない。


「……俺を罵るなら、いくらでも聞く。俺が最低だった」


 しかし。

 月明かりに紛れて、一花はふわりと優しい笑みを浮かべた。


 瑞樹の緊張していた強張りが、その笑顔で一瞬で解ける。


 本当に、不思議な奴だ。少しだけ、荒みきった心に余裕が生まれた。


 そしてそんな瑞樹に、一花は諭すように、優しく語りかけるように話した。


「……みーくんはね。悪くないと思う」


「——いやっ……それはない」


 瑞樹は反射的に強く否定してしまう。


 しかし、一花はゆっくりと首を横に振った。


「悪くないよ」


「俺が……俺が朱音を悲しませたんだっ……!」


 瑞樹は立ち上がり、小さな一花の両肩を強く掴む。


「俺がハッキリしない態度をとって、朱音に期待させたままだったから。だから……あんな、悲しい行動をさせてしまった」


 キスをさせてしまった。


 瑞樹がそれに応えられるわけがないのに、それでも『もしかしたら』を信じて、彼女は最後の望みをかけてキスをした。


 朱音の唇も、肩を掴む手も、ずっと震えていた。


 まるで握手をする挨拶のような、ただ唇が合わさるだけの儀式。


 そこには恋人同士の愛しさや激情なんてものは存在せず、ただ果てしない虚しさと切なさだけがあった。


 瑞樹が、そんな思いをさせてしまったのだ。


「俺は、朱音の好意に甘えてたんだ。ずっと好きだと言ってくれて、猫みたいに懐いて離れないのが、ただ男として嬉しかったんだ」


 結衣だけではなく、結局瑞樹は朱音さえも、都合良く自分の手の届くそばに置いておきたかったのだ。


 大事で大切な幼馴染を、他の誰かに取られたくなくて、ただ手放したくなかっただけ。


「遅かれ早かれ、こうなることはわかってた。俺は結衣が好きだから、朱音の気持ちに応えることは絶対に出来ないんだから。なのに俺は……決断を先延ばしにした。そんな狡い俺が、悪くないわけないだろ」


「……悪くないよ」


 一花は、瑞樹の懺悔を聞いても、変わらず優しく笑った。


「なっ……!」


 一花は、自分の肩を掴む瑞樹の震える手を、両手でそっと優しく包み込んで取る。


「なんだろう……みーくんは、何でもかんでも、全部、自分の責任で上手くやろうとし過ぎだと思うんだ」


「……はっ……?」


「みーくんに聞くね。朱音ちゃんがみーくんを好きになったのは、なんで?」


「……それは、俺が……」


 瑞樹がそう仕向けたと言ってもいい。


 あの凄惨な過去から救い出し、信頼と依存を勝ち取るために、いつだって朱音の絶対的な味方になって支えてきた。


 その全てが、復讐のための打算だったとは言わない。幼い頃は、純粋な気持ちで手を差し伸べてきたと思う。でも、そうなるようにコントロールして仕向けていたのも事実だ。


 そしてそれらは失敗に終わっていたと思わされたけど、結果として朱音が瑞樹を異性として好きになったのなら、過去の行いの成果はあったとも言える。


 瑞樹の行いのせいだと、言える。


 でも、一花は静かに首を振る。


「違うよ。朱音ちゃんがみーくんを好きになったのは、みーくんが仕向けたからじゃないよ。朱音ちゃん自身の心が、決めたんだと思うんだ」


 一花は、真剣な瞳で瑞樹の瞳を真っ直ぐに射抜く。


「誰の影響でも、誰のせいでもなく。朱音ちゃんがみーくんの優しさに触れて、みーくんを好きになったから、好きなの。……それだけだよ」


「だから、それは俺が——」


「ううん。そこに、みーくんの意思はあんまり関係ないよ。好きになるって決めたのは朱音ちゃんなんだから。……そこを否定するのは、朱音ちゃんの気持ちに対して、凄く失礼で違うと思う。朱音ちゃんは朱音ちゃんなりにたくさん悩んで考えて、それで自分で答えを出したんだから。それを『みーくんのせい』で片付けるのは、やりすぎだよ」


 瑞樹は、一花の言葉の重みに耐えきれず、力無くデスクチェアに座り込む。


「じゃあ、なんだ……。今、朱音が辛い思いをして泣いてるのは、朱音が勝手に決めたことなんだから、朱音自身のせいだって言いたいのか?」


 一花は少し困ったように笑って、小首を傾ける。


「その『誰かのせい』っていう考え方自体が、私は違うと思うの。……自分で決断した人には、結果に対しての責任があるっていうのはわかるよ? でもそれは、決断した人を糾弾する理由になっちゃダメじゃない?」


「じゃあ、一体誰がこの責任を取ればいいんだよ……? 俺のせいで朱音を苦しめたこの罪は、誰がどう贖えばいい? 朱音は、このままずっと辛いままだろ」


 一花は、ビシッと瑞樹の鼻先を人差し指で指差す。


「そんなの知らん! でいいんだよ、みーくんは」


 一花はゆっくりと腕を下げて、姿勢を正す。


「みーくんは、上手にそこも自分の手で処理しようとし過ぎなんだよ。……時には、一歩引いて手放していいと思う。決めたのは朱音ちゃんだよ。朱音ちゃんだって馬鹿じゃないんだから、結衣さんの存在も知ってるし、自分が傷つくかもしれないことくらい、ある程度の想像はできてるよ。……辛いのも、悲しいのも、フラれるかもしれないのも、全部分かった上で、それでもみーくんを好きになったんだよ。この決定に……朱音ちゃんの覚悟と決意に、みーくんが何か変な責任を感じて口出しするのは、違うと思う」


「……」


「辛いのも、悲しいのも、全部朱音ちゃんの大切なものだよ。それを自分で経験して、私たちは少しずつ強くなるんだから。だから、それを誰かのせいにして逃げたくないし、みーくんにも、変に責任を感じて勝手に罪滅ぼしみたいな慰めをして欲しくない。……全部全部、自分のもの。それが恋なんだと思う。……もし、自分の感情を誰かのせいにしたら、それは恋じゃなくて、ただの醜い独占欲でしょ」


 一花が言っていることは、瑞樹の頭でも、論理としては理解は出来た。


 簡単なことだ。朱音の恋の結末に、お前が責任を感じて口出しするな。そういうことだ。


 誰のせいとかじゃなくて、全ては朱音自身の決断なのだから、それをどうこう処理するのは朱音自身にだけ許される権利。瑞樹が「俺が悪い」としゃしゃり出てくる道理はないのだ。


 頭では、理解は、出来る。


「……お前の言う通りかもな、一花」


 でも、そんな簡単に感情は割り切れない。

はいそうですか、俺は悪くありませんでしたと、綺麗に切り替えることなんてできない。


「でも、俺は……多分、これ以上傷つけないために、朱音と距離をとってしまうと思う。朱音が大事だからこそ、きっと俺は、逃げてしまう……」


 一花は、はぁと呆れたように深いため息を吐いて立ち上がり、瑞樹の右手をギュッと取った。


「……みーくんは、ほんと頭堅くて面倒臭い男だねー。ちょっと、私についてきて」


「えっ、なっ、どこに……?」


 一花は、とびきり悪い顔をしてニヤリと笑った。


「朱音ちゃんの部屋」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。