第15話 境界(4)
疲れた。
今日という一日が、というか午後からのたった数時間が、瑞樹の精神を削りに削り果たした。
一花のコンカフェから始まり、朱音の事故物件、そして遊のホストまがいの接客。
相談されること自体に関しては、別に良いのだ。
幼馴染たちが困ってるなら、助けてあげたいし、力になりたいと純粋に思っている。
文句は言わせてもらうが。
だから、瑞樹の精神を異常なまでにすり減らしたのは、これまで全く話したことのない他クラスの男女と、無理やり濃密に交流したことによるものだ。
普段、自分のクラスメイトとすらまともに交流したことのなかった瑞樹にとって、非日常のキャラクターを演じて意思を通わせて話すことが、こんなにも気を張り、疲れることだとは想像もしていなかった。
ただ、疲労困憊の中にも、少しだけ楽しいと思えることもあった。
ジュージューと音を立てて煮込まれる挽肉をよそに、瑞樹は指を折り数えながら一人呟く。
「一花、二ノ宮、三鷹、四葉、五十嵐……六花、七瀬、八重樫……」
今日一日で、数字を持つ生徒にかなり遭遇した。
そして、この奇跡はそれだけでは終わらず、学校からの帰り道にも出会ったのだ。
「……九条 十兵衛……先生」
校門ですれ違った歴史の教師。授業中の雑談によると、侍の名家の子孫だという。どう考えてもフィクションの登場人物みたいで、かっこよすぎるその名前。
とにかく、こうして一日で一から十まで見事にコンプリートして、瑞樹のオタク特有の心は静かに舞い踊っていたのだ。
誰に言っても、この謎の達成感と楽しさは絶対にわからないだろう。
「……結衣に教えてあげよう。結衣なら、きっと腹抱えて笑ってくれる」
結衣なら、このどうでもいい奇跡をわかってくれそうな気がする。
瑞樹は幼馴染たちより少し早くシェアハウスに帰ってきて、いつものように夕飯の支度をして彼女たちの帰りを待っていた。
時刻は十九時。
ガチャガチャと玄関で大きな音を立てて、幼馴染たち三人が帰ってきた。
「ただいま、みーくん!」
「遅くなってごめんね、瑞樹くん」
「原因は井上だ。準備が遅すぎるんだ」
「なによー! ゆーくんだって、先輩の女の子に捕まってたじゃん!」
慌ただしく、そして相変わらず賑やかで仲の良い三人。
「おかえり。先着替えてこい、ご飯は出来てるぞ」
瑞樹の声掛けで「はーい!」と一花が元気に答え、それぞれ二階の自室に戻っていく。
その中、ふと瑞樹はあることに気付いた。
「朱音」
階段を登ろうとする朱音の背中を呼び止める。
「ん? どうしたの?」
「……その、カーディガン」
「っ……!」
朱音は肩をビクッと跳ねさせ、バツが悪いようにスッと視線を逸らした。
(……やはり)
いつだったか、朱音の下着が透けていた時に貸した、瑞樹のサマーカーディガンだ。
中々戻ってこなくてすっかり忘れていたが、朱音がまるで自分のお気に入りの私服のように自然に使っている。
学校でも着ていたはずだが、全く違和感がなくて気付かなかった。
朱音は「あはは……」と誤魔化すように可愛く笑いながら、瑞樹の前までトコトコと戻ってやってくる。
メンズサイズだから大きくて合わずに、朱音の小さな手が萌え袖のようにすっぽり隠れてしまっている。
「……瑞樹くんの匂いするから、このまま貰っちゃおっかなーって思って」
「え、臭くないか?」
瑞樹は朱音の袖をクンクンと嗅ぐ。
「もはや、お前の甘い匂いしかしないぞ。上書きされてる」
かれこれ一ヶ月以上、ほぼ毎日朱音が学校で着てるのだ。柔軟剤と朱音の匂いになるのは当たり前だ。
「そっか! じゃあ……はい!」
朱音はその場でカーディガンをサッと脱ぎ、瑞樹に手渡す。
「定期的に瑞樹くんに着てもらわないと、瑞樹くんの匂いが消えちゃって意味がないね。しばらく着て、また匂い付けといてね!」
「……俺を香水の製造機みたいに扱うな」
瑞樹は、朱音の匂いで充満し、まだほんのりと体温の温かいカーディガンを見つめる。
「一週間くらい毎日着てよ! また匂いが戻ったら、貸してね!」
そう言って、朱音は逃げるように二階の自室にパタパタと走って行く。
「……明日から、俺から女の子の匂いがするけど、大丈夫なのか? 変態扱いされないか?」
瑞樹はひとりごちり、仕方ないなとため息をついて自室に入り、ハンガーにカーディガンを掛ける。
カーディガンを動かすたびに、朱音の甘い匂いが部屋に漂ってくる。
***
瑞樹の作った野菜たっぷりタコライスを囲んだ、四人のいつもの賑やかな食卓。
美味しい美味しいと舌鼓を打ちながら、そんな空間を彩る話題の中心は、天音遊についてだ。
最近のシェアハウスでは、彼の初めての彼女の話で持ちきりだった。
「そういえば、足は大丈夫なのか? 二階から飛び降りたんだろ」
瑞樹が問うと、遊は気まずそうに笑って答えた。
「もう全然大丈夫。ちょっとジンジンしてたけど、骨にもどこにも異常はなかったよ。着地が芝生で運が良かった」
「頭は異常だと思うけどね」
「ゆーくん。普通は二階の窓からは飛ばないからね。ゲームじゃないんだから」
朱音と一花が、ジト目で呆れたように遊を見つめる。
言葉と視線は厳しいが、彼を思っての心配だろう。遊も、みんなに心配かけたことは十分に反省しているようだった。
「あの時は必死で……最短距離で助けなきゃって思ったら、そこに都合よく窓があったんだ」
「なんだその、『そこに山があったから登った』みたいな名言は」
瑞樹がツッコむ。
「でも、ゆーくんが他人のためにそこまで熱くなれるなんて、サッカー以外で初めてじゃない?」
一花が、少しだけ寂しそうに、でも嬉しそうにそう言った。
遊にはそれがどんな感情で、何故そうしたのかも自分自身で正確にはわからない、そんな表情で静かに肩をすくめた。
しかし、その感情も意味も痛いほどよく知ってるらしい朱音が、たった一言でそれを解決した。
「大切だからでしょ」
なるほどな、と瑞樹は思った。
具体的なシチュエーションを瑞樹は知らないが、もし朱音や一花、そして結衣が理不尽な理由で危ない目に遭いそうだったら、きっと自分も迷いなく身を挺して守るだろう。
大切だから。
確かに、その一言に尽きる。
しかし遊は、まだあまり恋愛感情というものに実感がないらしく、「うーん」と真剣に考え込んでいた。
「まだ僕はよくわからないよ……。付き合ったけど、だからといって自分の中で何かが劇的に変わったわけじゃないし。まだ彼女のことも全然深くはわからないし」
「でも、ゆーくんは、彼女さんを理不尽から自分の身を挺して守った。それは紛れもない事実だよね。そして、ゆーくんは誰でも彼でもそうやって助けるヒーローみたいな人じゃない。……瑞樹くんじゃあるまいし」
「……おい、今さり気なく俺のこと馬鹿にしたな?」
瑞樹は隣に座る一花のほっぺに、スッと人差し指を突き刺す。一花は楽しそうにキャッキャと身をよじって笑う。
「彼女さんと付き合って、遊くんは確実に変わったよ。自分じゃ気付かないかもだけどね? 遊くんはこれからもそうやって、彼女さんと一緒に少しずつ変わって行くんだと思う」
「優しくなったしねー」と、朱音も隣に座る遊のほっぺに指を刺す。
「やめろ城ヶ崎。……はぁ……頑張ってみるよ。不器用な僕なりに、だけどね」
「それでいいと思うぞ。前も言ったけど、自分を偽るな。お前はお前のまま、ありのままでいたら良いと思う」
「うん。ありがとう、古河。井上と城ヶ崎も、ありがとう」
遊が、花が開いたようにフワッと優しく笑った。
この純粋な笑顔は、きっとまだ他人には見せていないだろう。いつも能面が貼り付いたような冷たい無表情だけど、本当はこうやって温かく笑えるのだ。
いつかそれを彼女にも見せられるといいなと、瑞樹は心の中でエールを送った。
「――ところで」
遊がスプーンでタコライスを口に運びながら、何気ない様子で瑞樹に向かって訊ねた。
「この間の大谷高校の学校祭で、僕、中村先輩——彼女からキスされたんだけど。……古河はもう、水橋さんとした?」
「――ぶっ!」
「なっ!?」
瑞樹と朱音が、同時に飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
こいつは一体、食卓で何を言い出すんだ。
一花は目を輝かせて頬を赤らめ、「えーっ! ゆーくんすごーい!」とキャーキャー喜び。朱音はスッと真顔になり、ジロジロと瑞樹の次の言葉を伺うように刺すような視線で見つめてくる。
瑞樹はジワリと冷や汗を浮かべて、慌てて答えた。
「す、するわけないだろ。俺と結衣は付き合ってるわけじゃない。ただの友達だからな?」
その言葉に、朱音はホッとしたように小さく息を吐いて胸を撫で下ろす。
しかし、遊は理解できないというように、小首を傾げて瑞樹を見続けた。
「付き合ってないと、しないものなんだね。そっか。『これからもよろしくね』って言われたから、てっきり向こうの挨拶的なノリでするものなのかと」
「……確かに外国ではチークキス的な挨拶の文化はあるけども……。遊と彼女のそれは、ちゃんと恋人としての愛情確認のキスだろ」
「恋人……そっか」
――結衣と、キス。
想像したことも——いや、正直に言えば、想像したことはある。
何度か、危うくしてしまいそうだったことも。結衣に直前で止められて未遂に終わったが、あの時は、確かにキスをしようとしていた。
恋人とするもののはずなのに、理性を失って、吸い込まれるように結衣の唇を求めてしまった。
ただの友達同士なのに、キスをしたいと強烈に思ってしまったのだ。
友達と、恋人。
いや、そもそも、友達と恋人の境界線ってなんなんだ?
お互いに「お付き合いしましょう」と言葉にして、合意が取れたら?
そこに明確な目に見える線がある?
だとしたら——。
瑞樹の中で、これまでずっと気付かないふりをしていたことを思い知らされることになる。
キスをしたという遊の無自覚な報告で、背け続けていた絶対的な事実と相対することになる。
(……俺は、とっくの間に、一線を超えてしまってるじゃないか……)
公園の滑り台でのこと、その日の夜のこと、ゲームセンターでのこと。
いや、そんな物理的にわかりきったことの前に、お泊まりをして一緒に寝てしまった時から。
とっくの間に、一線を越えてしまっていたのだ。
嬉しい? 悲しい?
罪悪感? 優越感?
どれも違う気がした。
ただ、どうしようもなく、今すぐ結衣に会いたい。
その切実な感情だけが、胸の奥から熱く湧き上がってきた。
「……みーくん? 大丈夫?」
一花に肩を叩かれて、瑞樹はハッとする。
「疲れてる? ごめんね、今日一日中あたしたちの身勝手な相談に乗ってもらって、消耗させちゃったよね」
朱音が申し訳なさそうに、瑞樹の顔色を伺いながら見つめてくる。
「あぁ、いや、大丈夫だ。ちょっと考え事をしてた。悪いな」
「食器の片付けは僕たちでやっておくから、古河は先にお風呂に入って、ゆっくりしなよ」
遊が気を利かせて、そう言ってくれた。
「……そうだな……うん、そうさせてもらうよ」
空になったお皿をそのままに、瑞樹は立ち上がった。
それに合わせて、朱音も立ち上がり、何故かお風呂場まで着いてくる。
「ほんとに大丈夫? 顔色悪いよ?」
脱衣所の薄明かりに照らされ、朱音が心配そうに下から見つめてくる。
「疲れてるんだな。学校でかなり気を張ったから」
瑞樹は貼り付けた嘘の笑顔を向けるが、朱音は変わらず真剣な瞳で瑞樹の奥底を見つめてきた。
心の内を完全に見透かされそうで、瑞樹はサッと視線を逸らす。
――その瞬間。
朱音が、ドンッと力強く体を寄せてきた。
思ってもいなかった力が不意に加わってきて、疲労困憊の瑞樹はそれを受け止めることができず、後ろによろけて脱衣所の冷たい床に尻餅をついてしまう。
朱音が、そのまま倒れ込んだ瑞樹に馬乗りのような形で跨る。
冷たい床の感触と、押し付けられる彼女の体の熱さのコントラストに、頭が真っ白になった。
至近距離で、朱音と見つめ合う。
ボイラーが唸る低い音が、密室の脱衣所に重く響く。
やがて朱音は、大きな瞳を震わせて、悲しそうに口を開いた。
「……結衣さんのこと、考えてた」
「……」
瑞樹が無言で視線を逸らすと、朱音は「ふっ」と自嘲気味に笑った。
「やっぱり」
朱音が、更に顔を近づけてくる。
吐息が当たる、逃げ場のない距離。
「……ちょっ、降りろ、朱音」
「やだ」
朱音のサラサラの金髪が、瑞樹の胸元に落ちた。
「っ……!」
――キス。
朱音の柔らかい唇が、瑞樹の唇に強く、情熱的に触れる。
そして更に瑞樹の温もりを求めるように、彼女の熱く柔らかい舌が、無理やり入り込んできた。
瑞樹は、何もできなかった。
拒絶して突き飛ばすこともできず。
朱音からの、痛いほどの重い愛を、ただその一身で受けることしかできなかった。
そして同時に。
それを受け入れることは、決して出来なかった。
応えることは、しなかった。
ボイラーの駆動音がフッと消え、いつの間にか脱衣所には深い静寂が落ちていた。
朱音はゆっくりと瑞樹から唇を離し、立ち上がって脱衣所から出て行こうとする。
その細い背中のままで、彼女は振り返らずに言った。
「……深い意味は、ないから。……ただの、挨拶だから」
強がる朱音の声が、少しだけ、泣きそうに震えていた。
「……あとで、着替え持ってきてあげるね」
そう言って、朱音は逃げるように脱衣所から出て行った。
残された瑞樹は、冷たい床からゆっくりと立ち上がり、洗面台の鏡に映る自分の情けない顔を見つめて。誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
「……最っ低だ……俺はっ……!」




