第2話 邂逅(4)
玄関のドアを開けると、いつもなら漂ってくるはずの温かい夕食の匂いよりも先に、ひどく張り詰めた空気が瑞樹を迎え入れた。
「ただいま。……どうしたんだ、お前ら。お通夜みたいな顔して」
リビングへ足を踏み入れると、ダイニングテーブルを囲む三人の幼馴染たちの姿があった。
城ヶ崎朱音は顔を真っ赤にして俯き、指先をソワソワといじっている。その対面では、天音遊が眉間に深いシワを寄せて腕を組み、冷ややかな視線をテーブルに落としていた。そして井上一花だけが、おろおろと二人の顔を交互に見比べながら、どこか嬉しそうな、それでいて困ったような複雑な表情を浮かべている。
「あ、みーくん! おかえりなさい!」
瑞樹の姿を認めるなり、一花が救世主を見たような顔でパッと立ち上がった。
「おかえり。……何かあったのか?」
「あのね、朱音ちゃんが……男の子と付き合うことになったの!」
「……え?」
一花の爆弾発言に、瑞樹は目を丸くした。
視線を向けると、朱音は「わあああっ」と顔を両手で覆い、テーブルに突っ伏してしまった。
「入学してから何度も告白してくれてた、他クラスの男の子なんだけどね。朱音ちゃん、ついにオーケーしたんだって! 私、すごくおめでたいことだと思うんだけど、ゆーくんが……」
「絶対にやめたほうがいい。すぐに別れるべきだ」
一花の言葉を遮るように、遊が氷のように冷たい声で断言した。
「他人なんて、どうせ裏切るに決まってる。他人に期待して心を許せば、最後には必ず傷つけられるんだ。城ヶ崎、君は自分の脆さをわかってない。そんな危うい真似、僕たちが許すとでも思ってるのか?」
「でもっ、朱音ちゃんが決めたことだよ!? せっかく好きな人ができたのに、そんな言い方ないじゃない!」
普段は争いを避ける一花が、珍しく遊に反論している。彼女にとって他者から『愛される』という行為は絶対的な肯定であるため、朱音の恋を無条件で祝福したいのだろう。
しかし、遊は決して譲らない。幼い頃から大人たちの身勝手な裏切りを間近で見てきた彼にとって、他者との深い繋がりは『呪い』でしかないからだ。
「古河からも言ってやってくれ。城ヶ崎には僕たちがいれば十分だろ?」
遊と一花、二人の真剣な視線が瑞樹へと集まる。
瑞樹は小さく息を吐き、バッグをソファに置いてから、俯いている朱音の隣に腰を下ろした。
「朱音。本当なのか?」
「…………うん」
朱音が恐る恐る顔を上げ、瑞樹を上目遣いで見つめた。
「今朝、瑞樹くんが言ってくれたじゃない。『やってみないと何も変わらないし、わからない』って。……だから、あたし、勇気を出してみようかなって思って」
彼女は、いつも被っている「底抜けに明るいキャラクター」の仮面ではなく、ひどく等身大の、不安に揺れる普通の女の子の顔をしていた。
「あたしね、その人に言ったんだ。あたしは本当はすごくネガティブで、重くて、面倒くさい人間なんだよって。自分の変なところ、全部暴露したの。……それでもいいのって聞いたら、その人、『それでもいいよ』って言ってくれて……」
少しだけ誇らしげに、けれど恐る恐る語る朱音の瞳には、瑞樹たち幼馴染以外の『他者』に受け入れられたという、ささやかな喜びが灯っていた。
「……そうか」
瑞樹は優しく微笑み、ポン、と朱音の頭に手を置いた。
「俺は、賛成だ。朱音が自分で一歩を踏み出したんだ。全力で応援するよ」
「瑞樹くん……!」
朱音の顔がパッと明るくなる。
一方で、遊は不満げに「古河……本気で言ってるのか?」と食い下がってきた。
「本気だよ。遊の心配する気持ちもわかる。でも、朱音の人生だ。俺たちがずっと鳥籠の中に閉じ込めておくわけにはいかないだろ?」
「…………」
瑞樹の静かで力強い言葉に、遊はぐっと唇を噛み締めた。
どれだけ他人に絶望していても、遊にとって瑞樹の言葉は絶対だ。孤立していた自分を救ってくれた絶対的な存在の意見を、彼が真っ向から否定できるはずもなかった。
「……古河がそう言うなら、これ以上は言わない。……好きにすればいいよ」
遊は深くため息をつき、渋々と引き下がった。
その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、一花が「やったぁ! おめでとう朱音ちゃん!」と朱音の首元に抱きついた。
「えへへ、ありがとう一花……」
「ねえねえ、その男の子ってどんな人なの? かっこいい?」
「うーん、ちょっとチャラい雰囲気はあるんだけどね。でも、すごく真面目で真っ直ぐな人だと思う」
女子特有のキャッキャとした恋バナがリビングで弾け始める。
その平和な光景を見届けた瑞樹は、立ち上がってキッチンへと向かった。遊も無言のまま立ち上がり、瑞樹の後を追ってキッチンへ入り、夕飯の支度を手伝い始める。
二人で冷蔵庫から食材を取り出し、包丁の音が響き始めた頃。
シンクで野菜を洗っていた遊が、ぽつりとこぼした。
「……本当に、大丈夫だと思う?」
「何がだ?」
「城ヶ崎のこと。城ヶ崎は強がってるけど、本当は誰よりも心が弱い。もしその男に裏切られたら……あいつは完全に壊れてしまうかもしれない」
包丁を動かす遊の手は、どこか頼りなく揺れていた。
言葉では冷たく突き放していても、彼が誰よりも朱音のことを心配し、大切に思っている証拠だった。
瑞樹は手を止め、遊の横顔を静かに見つめた。
「大丈夫だ。……いや、例えそれが恋愛として失敗して、傷ついて、朱音が泣き崩れるようなことになったとしても、だ」
「傷ついても……いいのか?」
「ああ。その痛みを知ることは、朱音のこれからの長い人生において、絶対に必要で大切な経験になると思うから」
瑞樹は諭すように、優しく語りかける。
「傷つくのが怖いからって、全てから逃げて、俺たちだけのこの現状に満足していたら、朱音は一生成長できない。……俺たちは、いつまでもあいつの防波堤でいられるわけじゃないんだから」
それは、いずれこのシェアハウスで過ごす関係が終わる時が来るとわかっているからこその、少しだけ自虐的な響きを持った本音だった。
瑞樹の言葉の真意を『親離れ』のような意味で受け取った遊は、伏し目がちに「……そうだな」と頷いた。
「古河の言う通りだ。僕たちは変わらなきゃいけない。……でも」
遊は切った野菜をボウルに移しながら、誰に言うでもなく小さく呟いた。
「やっぱり、それでも……城ヶ崎が傷つくのは嫌だな」
その不器用で優しすぎる本音に、瑞樹は小さく笑い、「俺だって同じだよ」と遊の肩を軽く叩いた。
やがて完成した夕飯をテーブルに並べ、四人での食事が始まった。
朱音の恋バナでひとしきり盛り上がった後、一花がハンバーグを頬張りながら、ふと瑞樹に尋ねた。
「そういえばみーくん、今日は帰り遅かったね? どこか寄ってたの?」
一花の問いに、瑞樹の肩がピクリと跳ねる。
夕暮れの駅の改札。ふわりと舞うショートヘアと、吸い込まれそうな結衣の瞳。彼女と並んで歩きながら語り合った、オタクとしての熱い思い。
当然、幼馴染たちには秘密にしていることだ。
「あー、うん。ちょっと本屋で参考書を探しててさ。気づいたら時間が経ってた」
瑞樹は表情を一切崩さず、完璧な嘘を吐いた。
「ふぅん、そっかぁ。みーくん真面目だもんね」
一花は全く疑う様子もなく納得すると、ふふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして、立ち上がって瑞樹の隣に回り込むと、ぎゅっと瑞樹の左腕に自分の両腕を絡ませ、抱きついてきた。
「ねえねえ、ゆーくんは女の子に興味ないし、朱音ちゃんには恋人ができちゃったし……じゃあ、余り物の私たちでくっついちゃおっか?」
「おいおい、食事中に行儀悪いぞ」
「いいじゃーん! みーくん、私のことお嫁さんにしてくれる?」
上目遣いで甘えてくる一花。
瑞樹の左腕には、一花の柔らかい胸の感触と、石鹸のような甘い香りが直接伝わってくる。
しかし、瑞樹の心臓は驚くほど平穏だった。
ほんの数時間前、カフェのボックス席で結衣にギリギリの距離まで近づかれた時は、あんなにもドギマギして、妙に意識してしまって、恥ずかしくてたまらなかったというのに。
一花がどれだけ密着してこようと、そこには微塵の照れも、緊張も、異性としての動揺も存在しなかった。
結衣とは違う香り。結衣とは違う肌の柔らかさ。
それを肌身で感じながら、瑞樹ははっきりと実感していた。
(やっぱり、幼馴染は幼馴染でしかないんだな)
一花のこの行動は、恋愛感情からくるアプローチではなく、環境の変化に対する無意識の不安を埋めるための、ただの『確認作業』だ。自分が独りぼっちにならないか、瑞樹が自分を見捨てないかを確かめているだけなのだ。
「一花」
瑞樹は苦笑しながら、絡みつく一花の腕を優しく解き、その頭を大きな手のひらで撫でてやった。
「俺たちはずっと家族だろ。余り物なんかじゃないさ」
「……うんっ! そうだね、私とみーくんは家族だもんね!」
瑞樹の『家族』という確かな肯定の言葉をもらい、一花は心底安心したように、満足げな笑顔を浮かべて自分の席へと戻っていった。
そのやり取りを見ていた遊がやれやれと肩をすくめ、朱音が「一花ずるいー!」と笑い声を上げる。
男女の友情は、成立するのだ。
そこにあるのが、下心や恋愛感情ではなく、家族に向けるような純粋な『親愛』であるのならば。
結衣が欲しがっていたあのアニメのタイトルを思い出しながら、瑞樹は温かい食卓の風景に目を細め、静かに味噌汁を啜った。




