第2話 邂逅(3)
水橋結衣。
それが彼女――『ころも』の本名だった。
瑞樹たちが住む街から電車で一本、隣町に住んでいるという同じ学年の女の子。
ネットの海は広大だと思っていたが、現実の世界は思いのほか狭かったらしい。
「ごめんね? 瑞樹くんを万引きの共犯者にするところだった」
「え、いや、まあ、それは誤解が解けたからいいんだけどさ……」
「ん? なに?」
きょとんとした顔で瑞樹を見上げる結衣。
二人は今、先ほどの中古ショップから程近いカフェに入り、向かい合うでもなく、同じボックス席に並んで座りながら会話をしていた。
画面越しのチャットではない、生の声を用いたリアルな会話。
しかし、瑞樹が戸惑っている理由はそれ自体ではなかった。
結衣の距離が、あまりにも『近い』のだ。
この子にはパーソナルスペースという概念が存在しないのだろうか。わざわざ広いボックス席だというのに、彼女は瑞樹のすぐ隣に腰を据え、あろうことか瑞樹の左腕に自身の右腕が『ギリギリ触れる』距離を保っている。
触れるか触れないかの絶妙な距離、ではない。確かに、体温を感じるレベルでギリギリ触れているのだ。
なんとも言い表し難い感覚だった。
それならばいっそのこと、一花のようにベッタリと抱きついてくれた方がまだやりやすい。一花のそれは生存本能に基づく「すがりつき」であり、瑞樹にとって彼女は保護対象でしかないため、そこに変な意識は働かない。
しかし、結衣の距離感は違う。熱を測る時におでこに手を当てるような、あるいは行儀良く座るために自分の膝の上に手を置くような。そんなあまりにも自然で、ありふれた『無意識の接触』だからこそ、瑞樹は妙に彼女を一人の異性として意識せざるを得なかった。
有り体に言うと、恥ずかしかったのだ。
「あの、結衣さん?」
「結衣でいいって。同い年でしょ?」
ズズっとグラスの底に残ったカフェオレをストローで最後まで飲み干し、プハー! と満足そうに笑う結衣。
「あのさ、結衣?」
「なーに?」
「…………」
いざ口にしようとすると、同年代の女の子との慣れない距離感に恥ずかしさが更に込み上がってきて、瑞樹は言葉に詰まった。
「なによ? 気まずそうな顔して。せっかくラブコメ主人公みたいな出会い方したんだし、この状況、もっと楽しもうよ?」
「……それは間違いないけど」
結衣とチャットで出会ったのは、ほんの半年前。瑞樹がオタク趣味に目覚めて間もない頃だった。
幼馴染たちに隠れてこの趣味を始めた瑞樹には、一緒に語り合える友達がいなかった。
そこで何の気なしに、SNSで趣味用のアカウントを作ったのだ。自身のプロフィール欄の紹介文は、たった一言。
『CRYNOTDOは人生』
それは、少し前のマイナーな深夜アニメだった。当時は特に注目されていなかったが、瑞樹が初めて観たアニメであることを差し引いても、繊細な心理描写と、不器用な友情や愛情が丁寧に描かれており、瑞樹は深く心を打たれたのだ。
このアニメの尊さを表すのに適切な言葉が見つからず、瑞樹は『人生』という重いひと言を添えた。
そしてアカウントを作って数分後に、「ころも」を名乗るアカウントからダイレクトメッセージが届き、二人は時間を忘れて語り合った。
それが、ころも――結衣との出会いだった。
顔も、本名も、性別も、出身地もわからない、ネットの海で見つけた見知らぬ友達。
まさか現実で出会う日なんて来ないと思っていたのに、あろうことか、ラブコメの第一話よろしく劇的な遭遇を果たしてしまったのだ。
「それで瑞樹くん。私が『可愛い』と」
「げっ……!」
結衣とリアルで出会ってまだ一時間も経過していないが、瑞樹には彼女のことがいくつか分かってきた。
まず、物理的な距離感がおかしい。そして、まるで初めから幼馴染だったかのように接してくる人懐っこさがある。これはチャットでのやり取りの時と全く変わらない。オタク特有の「好きなものを話している時に周りが見えなくなる現象」ではなく、単に彼女の素の性格が、ネットでもリアルでもこうなのだ。
そして、彼女は自分の思ったことをハッキリと口に出して伝える。オブラートに包むという遠慮をあまりしない性格のようだった。
だから今もこうして、先ほど瑞樹が勢いで送ってしまったチャットの文章から『可愛かった』という文言を的確に抜き取って、真正面からイジってきているのだ。
「なになに瑞樹くん、照れてるの? へへぇー。そうだよねー。アレって私を『届かない女子』だとわかってない状態で送ったピュアな感想だから、どうしたって本心だもんねー?」
意地悪そうに目を細めて、氷の入ったグラスをストローでカラカラと混ぜる結衣。
「……はいはい、そうだな。そうですよ」
もう諦めよう。今の瑞樹には、何を言ってもこの真っ直ぐな女の子に勝てる気がしなかった。
「不覚にも、可愛いと思ってしまいましたよ」
「ふーん?」
結衣は満足そうに笑う。
「それで瑞樹くん。こうして更にまじまじと私を見て、どう思ったのかな?」
「それは……言わないとダメか?」
「えっ?」
瑞樹が顔を背けながら言うと、結衣の瞳が一瞬だけ揺らいだ気がした。
「そりゃそうじゃん。言わないと伝わらないよ? 『言わなくても察して』なんてご都合主義、傲慢だよ」
当然でしょ? と付け足して、結衣はキョトンとした顔をした。
「……確かに。わかりみが深い」
「だよねー。瑞樹くんなら理解してくれると思ってたよー」
結衣はまた満足そうに笑うと、瑞樹の次の言葉を待つようにジッとこちらを見つめてきた。
なんでも無条件に肯定してくれる幼馴染たちに言うのとは、訳が違う。嘘のつけないその澄んだ瞳に見つめられ、瑞樹は観念してため息を吐いた。
「……可愛いと思ってます。とても」
「ふふー。ありがと」
相変わらず絶妙に瑞樹の左腕にくっつきながら、結衣はニッコリと花が咲いたような笑みを浮かべた。
「可愛いって言われて嫌な気する女子なんていないんだから。これからも瑞樹くんは、可愛いと思ったらどんどん素直に言っていこう!」
「いや、道端でそれやったらただの変質者じゃん」
「それな! でもまあ安心してよ。面会には行くから」
「捕まってるし俺!」
「あははは!」
本当に、裏表なく楽しそうに笑う子だ。
シェアハウスの幼馴染たちが見せる「無理に作った笑顔」や「依存による安心の笑み」とは違う、100%純粋な陽の感情。瑞樹は少しだけ眩しさを感じながら、釣られて笑みをこぼした。
すっかり話し込んでしまい、店を出る頃には辺りはうっすらと暗くなり始めていた。
自然な流れで、瑞樹は結衣を駅の改札まで送ることになった。
「……あの『CRYNOTDO』好きがいて、嬉しかったんだ」
駅へと続く遊歩道を、相変わらず肩が触れそうな距離で並んで歩きながら、結衣がボソッとこぼした。
「瑞樹くんのアカウント紹介文、書いてたじゃん? 今でこそみんながあのアニメの尊さを認めたけど、あの時はまだ日の目を浴びてなかったし」
どこか遠くを見るように、結衣は視線を上げた。
「そんな中で、瑞樹くんだけがあのアニメの良さをわかってるって思って。『人生』。……その通り! ってね。同じような熱量で感想を持ってる人がいて嬉しくて、つい勢いでメッセ送っちゃったんだー」
「……俺も、嬉しかったよ」
瑞樹も結衣に釣られて、少し黒みがかった藍色の空を見上げた。
「誰も知り合いがいない、何もわからないSNSの世界に飛び込んで、すぐにころも……結衣から連絡がきて。あー、俺はこの世界にいてもいいんだって思えた。自分の『好き』を、素直に『好き』って言ってもいいんだって。だから、嬉しかった」
自分の素直な思いを吐露すると、ふと視線を感じた。
横を見ると、結衣がニコニコと瑞樹を見上げていた。
「私みたいな可愛い子と友達になれたし?」
「……ははっ」
瑞樹はふっと笑うと、小さくため息を漏らす。
「そうだな。可愛い結衣と友達になれて嬉しいよ」
「よろしい!」
満足気に結衣は笑う。
「可愛い結衣と友達になって、ここから更に親密になって、気付いたらそんな友達に恋心を抱くようになるんですねわかります」
「瑞樹くん、ラブコメの見過ぎ」
「結衣ほどでもないよ」
「それはそう」
ふふふっと、二人で声を合わせて笑い合う。
何のしがらみもない、ただの高校生の他愛のない会話。瑞樹にとってそれは、ひどく新鮮で、心地の良い時間だった。
気付くと、駅の改札に着いていた。
ここを結衣が抜けたら、彼女はまた隣町へ帰り、二人はネット上の『みずき』と『ころも』に戻る。
ほんの少しだけ、寂しい気がした。
また会うことなんて、おそらくないだろう。
別に示し合わせたわけでもなく、半ば事故のような出会いだったのだ。だから「またリアルで会おう」なんて伝える義理も、意味もない。
そういう普通の友達ではないのだから。
瑞樹には、守らなければならないシェアハウスの幼馴染たちがいる。
改札の手前で、結衣がくるりと振り返り、ジッと瑞樹を見つめた。
吸い込まれそうな大きな瞳。夕風にふわりと舞うショートヘア。想像もしていなかった、ネットのオタク友達『ころも』のリアルの姿。
瑞樹は、ハッとした。
先ほどのカフェでの彼女の言葉が、脳裏をよぎる。
(『言わなくても察して』なんてご都合主義、傲慢だよ……か)
「察してなんて、傲慢だよな」
誰にも聞こえないほど小さく呟いて、瑞樹は一歩、結衣に近づく。
そして、結衣の瞳をじっと見つめ返した。
「また、エンカしよう」
その言葉を聞いて、結衣の表情は、まるで大輪の花が開いたようにパッと明るくなった。
「そうそう! それだよ瑞樹くん!」
「うわ、うっざ!」
「へへー! じゃあね、瑞樹くん!」
颯爽と飛び跳ねるように改札を通り抜け、結衣は手を振りながら帰って行った。
「……なんか、すごい負けた気がする」
大きなため息を漏らして、瑞樹も家路につく。
シェアハウスの仲間たちが待つ、あの歪で温かい箱庭へ。
すると、ポケットの中でピコンとチャットの通知を告げる音が鳴った。
スマホを取り出して画面を見ると、たった一言、メッセージが届いていた。
『私もまた会いたいと思ってたよ』
瑞樹はそっとスマホをポケットにしまい、夜道の中で一人、小さく笑った。




