第2話 邂逅(2)
古河瑞樹がその人生において、何よりも愛し、大切にしているのは幼馴染の四人だ。彼らの存在は、何物にも代えがたい絶対的な聖域だった。
では、その次に挙げるとしたら何か。
それは、自身の「両親」だった。
他の幼馴染たちの歪な家庭環境とは違い、瑞樹の両親は血が繋がっており、毒親でもなく、犯罪者でもない。ごくごく普通の公務員の父親と、大学教授の母親。
瑞樹に全て任せると放任しつつも、間違っていることは間違っていると本気で怒ってくれたこともあった。真面目で真っ直ぐな大人たちという印象が強い。いや、母親に関しては少し変わっているが。
でも、まあ、彼らは瑞樹に、正義と悪を教えてくれた。強者と弱者を教えてくれた。
だからこそ、瑞樹は誰の目から見ても「弱者」である幼馴染たちを放っておけなかったのだ。自分の物差しで彼らを勝手に弱者とラベリングすることに、幼いながらに若干の躊躇いはあった。それでも両親からの教えを全うすることを選び、結果として彼らを暗闇から救い出した。
自分の良いところをアピールするなら、そういう正義のヒーローみたいなところだと、胸を張って言い切れる。こんな自分に育ててくれた両親を、瑞樹は心から尊敬し、感謝していた。
では、その次に愛しているものは何か。
アニメ、漫画、ライトノベル、ゲーム。いわゆる、オタク文化だ。
「いらっしゃいませー!」
放課後、瑞樹は一人、地元の中古ショップに立ち寄っていた。
古本にゲーム、アニメのディスクにフィギュア。コンビニを二つ縦に合わせたような二階建ての店舗には、所狭しと膨大なグッズが陳列されている。周辺の地域で唯一となるオタク御用達の店だけあって、店内は多くのグッズとお客さんで賑わっていた。
瑞樹はたまに、完全に一人になれるタイミングでのみ、この店に立ち寄る。幼馴染たちにはまだ、自分にオタク趣味があることを内緒にしているからだ。
「これ、先週発売したばっかのゲームじゃん。売るの早っ」
特に目的も目当てのものもあるわけではない。だが、好きなもので溢れ返り、同志たちの輝く眼差しが行き交うこの空間に身を置くだけで、瑞樹の心は不思議と癒されていった。
ぶらぶらと店内を回っている時、ふと瑞樹の目に大きなポスターが飛び込んできた。
真っ暗で鬱蒼とした森の中に立つ古めかしい屋敷と、可愛い美少女たちに囲まれる一人の男。その陰と陽のアンバランスさが不気味さを倍増させており、何とも言えない退廃的な魅力がそこにはあった。
『あいシてるHOUSE』放送開始の告知ポスターだ。
ネット上のオタク友達である「ころも」から勧められた、まさに瑞樹好みのダークな世界観のアニメだった。
どうやら店の一角を使用して、特設コーナーが作られているらしい。原作のライトノベルをはじめ、原作者の過去作や関連商品がずらりと並べられている。
瑞樹は嬉しくなり、思わずポケットからスマホを取り出してチャットアプリを立ち上げた。メッセージを送る相手は、もちろんころもだ。
『例のアニメ、特設コーナーできてる』
画面を見つめていると、程なくして小気味いい通知音と共に返信が来た。
『死家だね? そりゃそうよ。今大人気のホラー作家さんだから』
なるほど、ファンの間では『死家』と略すのか。勉強になるなと思いながら、瑞樹は文字を打ち返す。
『楽しみになってきた。今中古屋にいるんだけど、大々的に取り上げられてる』
『奇遇だね、こっちも今店で徘徊中』
どこの誰かもわからないネットの向こうの友達だが、つくづく気が合うなと瑞樹は自然と笑みをこぼした。これ以上店内でスマホを弄るのも邪魔になってはいけないと思い、アプリを閉じる。また後で連絡しよう。
「……んっ。届かっ、ない……!」
瑞樹が振り返って帰ろうとしたその時、すぐ近くから小さな声が聞こえた。
視線を向けると、そこには背伸びをして、棚の上段にあるアニメのディスクに必死に手を伸ばしている、一人の可憐で小さな女の子の姿があった。
ショートカットの髪をふわふわと揺らしながら、必死の形相で爪先立ちになっている彼女。
何故だろう。彼女が取ろうとしているアニメが、ころもの大好きなタイトル『男女の友情が成立するわけがないっ!』だったからか、あるいは必死に手を伸ばすその一生懸命な姿が、どこか脳内でころものキャラクターと重なったからなのか、理由はわからない。
だけど瑞樹は何故かその姿に強く目を奪われ、世界が一瞬だけ止まったかのような錯覚に陥った。
「うっ……くっ……」
短い吐息を漏らす彼女の頼りない背中を見つめ、瑞樹は自然と足を進めていた。彼女の後ろからすっと腕を伸ばし、目的のディスクを軽々と指先で引っかける。
「はい、これ。女の子にはちょっと高いよね、ここの棚」
優しく声をかけながら手渡すと、彼女はびっくりしたように丸い瞳をさらに大きくして、ディスクを受け取った。
「あ、ありがとうございます……!」
可愛い子だな、と瑞樹は率直に思った。年齢は自分と同じ高校生くらいだろうか。小柄で、肩まで伸びた綺麗なショートヘア。ぷっくりとした柔らかそうな頬は、思わず指先でツンと触りたくなるような愛嬌がある。視線は少し鋭いが、童顔なのも相まって、そこはかとなく身内への優しさを秘めているような顔立ちだ。
『お兄ちゃん! しっかりしてよね!』なんてセリフがこれ以上なく似合いそうな、お節介焼きの出来る妹。そんなイメージが瑞樹の脳内にふわっと浮かんだ。
「どういたしまして」
瑞樹は笑顔を向けながら、「それ、好きなの?」と気さくに声をかけようかと迷い――そして、やめた。
オタクが必ずしも、その場でオタク同士のコミュニケーションを求めているとは限らない。一人で静かに作品を推すのが好きな人だってたくさんいる。
こんな子とリアルのオタク友達になれたら毎日が楽しそうだな、なんて淡い期待はすぐに心の隅へ追いやり、瑞樹は彼女の視線を背中に感じながら、そのまま店を出た。
建物の外に出ると、すぐにスマホを取り出す。今の出来事を、一番にころもに報告したくなったのだ。
『背が小さくて届かないよー。はいこれ。のシチュエーションに初めて遭遇。現実で体験するなんて思ってなかった。可愛かった』
送信ボタンを押す。すると、ほぼ同時のタイミングで、ころも側からも新着メッセージが画面に飛び込んできた。
『届かなぁい! これかい、お嬢さん? のシチュを体験。惚れるかと思った』
「えっ……!?」
瑞樹は思わず、歩道の上で声を漏らして立ち止まった。
なんだ? 今、何が起きた?
ものすごいスピードで瑞樹の頭脳が回転を始める。二つの画面の文字を何度も読み取り、理解し、この奇跡的な確率を弾き出そうとする。
偶然、お互いに同じタイミングで中古ショップに出向いていて。
偶然、お嬢さん側と、助けた男側のメッセージが同時に送られてきて。
そんな天文学的な偶然が、別の場所で同時に起こるはずがない。だとしたら、答えは一つしかなかった。
「ないない、そんなこと……!」
瑞樹は勢いよく反転し、今出てきたばかりの店の入り口へと走り出した。
自動ドアが左右に開き、店内の喧騒が再び鼓膜に飛び込んでくる。本棚が左右に並ぶ狭い通路。何人もの同志たちが立ち読みをし、品定めをしているその一番奥。
まさにその瞬間、通路の奥で、肩を大きく上下させて息を切らした、さっきの小さな少女と真っ直ぐに目が合った。
彼女の片手には、先ほど手渡したディスクが握られている。
彼女は瑞樹の姿を認めると、口の端を上げて不敵に、けれど最高に嬉しそうにニカッと笑った。そしてスルリと、まるで手品のように人混みの隙間を縫って、瑞樹の目の前へと現れたのだ。
無言で見つめ合う二人。
これまでネットの海で紡いできた、決して辿ることのできないはずの形のない糸が、今まさに、目の前で色鮮やかな現実の形を成した。そんな確信が、瑞樹の胸を強く支配していた。
ピロピロリーン、ピロピロリーンと、人が通るたびに来店を知らせるセンサーのベルが何度も店内に鳴り響き続ける。
今の瑞樹たちには、それが二人の邂逅を祝うファンファーレのようでもあり、自分たちの物語のレベルが上がったことを告げる特別なBGMにも思えた。
やがて、瑞樹の緊張していた口元が、自然と解けていく。
あまりの衝撃に、最初になんと言っていいか分からなかった。ただ、これまでの二人の確かな距離感を確かめるように、その言葉はごく自然に唇から零れ落ちた。
「おっ、おっつー……ころもさん」
その名前を呼んだ瞬間、彼女は弾けたような笑顔を見せ、その場でふわりと小さく跳躍した。
店の外と中を仕切る、目に見えない境界線を鮮やかに飛び越えて。今、モニターの向こうの虚像だった存在が、確かな質量を持った「現実」となった。
「おっつー! みずきさん!」
勢いよく飛び込んできた彼女の、柔らかくて温かい身体を、瑞樹は両腕でしっかりと受け止める。
彼女を愛おしさを込めて抱きとめた――まさにその瞬間、店内にけたたましいアラート音が鳴り響いた。
「おい! 万引きだ! 止まれ!」
手渡したディスクを持ったまま、彼女は会計をせずに外に飛び出してしまったのだ。血相を変えた店員が、二人の元へと猛スピードで飛び込んできた。




