第2話 邂逅
この世界は、残酷だ。
自分の親が赤の他人だとしても、大人が正式な手続きを踏んでしまえば、その他人は今日から「両親」というラベルを貼られる。そこに愛の有無や、子ども自身の意思など何も関係なく、新しい戸籍という紙切れ一枚で無理やり家族にされてしまう。
その結果、子どもが大人を信じることに恐怖し、誰にも期待しなくなり、心から気を許せる瞬間を奪われてしまって、世間から「冷たい人間だね」と後ろ指を指されるようになっても、世界は彼を救ってはくれない。
『あなたはダメな人間ね』
『どうしてそんなこともわからないの。遊んでばっかりいるから馬鹿になるのよ』
『そんなんで、生きてて幸せ?』
毎日毎日、呪いのようにそんな言葉を浴びせられ続けても、血の繋がった大人たちは『家族』という枠組みである限り、どうしようもなく絶対的な父親であり、母親なのだ。
幼子の小さな頭では、そこから逃げ出すとか、外部の誰かに相談するといった危機回避の手段を思いつくことは不可能に近い。それが当たり前の日常として生きた結果、気づいた時にはもう手遅れなほどに、心は原型を留めないほど壊れきっている。
常に他人の顔色を窺って、どうしたら怒られないかだけを考えて、ほんの少しの否定の言葉で世界の終わりのように泣き崩れる。他者から「ヒステリックで気持ち悪い」と奇異の目を向けられても、世界は彼女を救ってはくれない。
人は『普通』を知っているからこそ、それが『異常』だと認識できる。
つまり、最初から『普通』を知らなければ、自分の置かれている環境が『異常』であることにすら気づけないのだ。
父親が幼い娘の体を愛でて、それこそが愛であり、それだけが愛情を証明する唯一の手段であると教え込んだら。幼い娘は、それを否定する材料を何一つ持っていない。
『普通はそんなことしない』『それは犯罪だ』と、外の世界に出て初めて自分に向けられていた愛の証明が『異常』だったと知らされる。その結果、自分を正しく愛してもらう方法がまるでわからないまま世間に放り出され、どうすることもできないまま、ただ体が覚えている習慣――他人に肉体的に接触すること――だけで自分の身を守ろうとしてしまう。
周囲から気味悪がられ、「あの子には近づくな」と大人たちから冷たい視線を向けられても、世界は彼女を救ってはくれない。
この世界は、本当に残酷だ。
天音遊、城ヶ崎朱音、井上一花。
凄惨な家庭環境で育ち、無知で純粋な心根に悪魔的なトラウマを植え付けられ、必然的に社会から孤立することになっても、誰も彼らを助けてはくれなかった。
自分の何がいけなくて、どうして周りの人間から弾き出されているのかすら理解できないまま。彼らは突きつけられる理不尽な現実を、跳ねることを忘れた冷たい心臓で、ただ黙って受け止めるしかなかったのだ。
(だから、俺が……)
「――どうしたの瑞樹くん? そんな難しい顔して」
ふいに、鼓膜を揺らす明るい声。
ハッと顔を上げると、金髪ロングの美少女――城ヶ崎朱音が、少し小首を傾げながら瑞樹の顔を大きな瞳で覗き込んでいた。
春の朝の柔らかな日差しを乱反射する眩しい髪と、遠くまで通る鈴を転がしたような彼女の声が、瑞樹の意識を暗い過去の回想から現実へと引き戻した。
「ああ、いや……ちょっと考え事。なんでもないよ」
「ふーん?」
「ほんとになんでもないから」
「それならいいけどー。隠し事は無しだよ?」
朱音が、その大きな瞳を少しだけ不安な色に染めて、ジッと瑞樹を見つめてくる。
本人は全く気付いていないだろうが、これは彼女の昔からの癖だ。相手の言葉の真偽を確かめようとする時、数秒間、こうしてジッと至近距離で人の顔を見つめるのだ。
他者の顔色を窺って生きてきた彼女ならではの防衛本能なのかもしれないが、いかんせん、彼女はあまりにも顔が整いすぎている。
こんな至近距離で美少女に見つめられれば、自分に気があるのではないかと勘違いする男子も少なくないだろう。
「こら。そんなに見つめるな。照れるだろ」
「はい嘘ー! ダウトダウトー! 瑞樹くんに限ってそれは無いってわかるもんねーだ!」
朱音はケラケラと笑いながら、瑞樹を指差した。
高校までの道のりを、瑞樹と朱音の二人で歩くのは、入学してからの日課になっていた。
日課というと大層に聞こえるが、理由は単純だ。遊は毎朝のサッカー部の朝練があるため一足早く登校しており、一花は高校に入ってからできた別のクラスの友達と待ち合わせをして登校している。
要は、残された余り物の二人が、こうして毎朝仲良く登校しているだけのことだった。
「俺の話じゃない。世の中の男が照れるってことだ」
「へ?」
なんのこと? と不思議そうに首を傾げる朱音。
「朱音のその可愛い顔でそんなふうにジッと人を見つめたら、見つめられた方の男は照れちゃうって話だ」
「えー、そんなことあるー?」
またまたぁ、と朱音は瑞樹の腕をツンツンと指先で突いてくる。
「魔性の女だな、お前は。無自覚なのが一番恐ろしいよ」
「まあでも? あたしが可愛いのは認めよう!」
朱音はエッヘンと得意げに胸を張ってみせた。
自他共に認める、誰もが振り返るような美少女。城ヶ崎朱音は、黙って立っていれば可憐な雰囲気を纏うモデルのようで、ひとたび口を開けば周囲をパッと明るくするアイドルのような女の子だ。
美しく、可愛く、明るくて元気な子。
高校に入学してまだ一ヶ月ほどしか経っていないが、彼女はすでに他クラスの男子や先輩から数回の告白を受けているらしい。
そんな彼女が、不意に上目遣いで瑞樹を見上げ、ほんの少しだけ恥ずかしそうにスッと視線を外すと、こてん、と自分の頭を瑞樹の肩のあたりに預けてきた。
――撫でて、の合図だ。
「ハイハイ……」
瑞樹は小さくため息を吐きながらも、その口元には自然と優しい笑みが浮かんでいた。
差し出した手のひらで、日光を浴びて温かくなった彼女の柔らかい金髪を撫でてやる。
すると、朱音はまるで喉を鳴らす猫のように嬉しそうに目を細め、さらに瑞樹の肩へぴったりとすり寄ってきた。
これも、朱音の昔からの癖の一つだ。
自分が褒められた時、言葉で満たされるだけではなく、こうして物理的によしよしと頭を撫でて欲しくなるのだ。親から一度も与えられなかった「無条件の肯定」を、彼女は瑞樹の手のひらから必死に摂取している。
もし、朱音に想いを寄せている男子生徒が今のこの甘い状況を見たら、瑞樹は嫉妬で呪い殺されるに違いない。
「それで、魔性の朱音さんは誰かと付き合わないのかい?」
瑞樹は髪を撫でる手を止めずに、ふと思い出したように尋ねた。
「んー?」
「何回か告白、されてるだろ?」
「まあ、ね」
「昨日の夕飯の時、遊に『思い切って付き合ってみたら?』って言ってたじゃないか。あれは朱音自身にも当てはまるよなーって思ってさ」
「確かにねー」
朱音は顎に指を当て、いっちょ前に悩むような素振りを見せたが、やがてブンブンと勢いよく横に首を振った。
「あたし変だし、無理だよ」
とびきりの、太陽のような明るい笑顔で、朱音は即答した。
作り笑い。
誰の目にも完璧に見えるだろう、偽物の笑顔。
これ以上踏み込まないでほしいという、納得するしかない拒絶の意が込められた分厚い仮面だった。
普通の関係性なら「そっか、もったいないな」と引き下がるところだろう。だが、瑞樹にはそれが偽物であると痛いほどにわかるが故に、彼女の本心が別にあることも容易に想像できた。
本当は、彼女だって普通の女の子みたいに、誰かに恋をして、好きな人と手をつないで付き合ってみたいのだ。
街ゆくカップルを見る彼女の瞳の奥に、ほんのわずかな憧れが揺れているのを、瑞樹は知っている。けれど、彼女は自分の内面にある「ネガティブで醜い異常性」を誰よりも恐れているからこそ、他者と深く関わる恋愛というステージに立つことを極端に避けているのだ。
「何事も経験だよ? 失敗はしてなんぼ。やってみないと何も変わらないし、わからないんだから」
少しでも彼女の背中を押してやりたくて、瑞樹は優しく声をかけた。
「えー、いいよー……」
朱音は不満そうに顔を顰め、立ち止まって瑞樹をジッと見つめ返した。
「あたしには瑞樹くんがいて、遊くんがいて、一花がいるし。みんながいれば、あたしには他に何もいりませーん!」
そう宣言すると、朱音はふいっと顔を逸らし、この話はこれでおしまいと言わんばかりに、すたすたと瑞樹の先を歩いて行ってしまった。
しかし、数歩進んだ先でふわりと振り返り、春の風に金髪をなびかせながら、悪戯っぽく笑いかけてきた。
「瑞樹くんが付き合ってよ、あたしと」
「……そういうんじゃないだろ、俺たちは」
「へへー」
瑞樹が呆れたようにツッコミを入れると、朱音はくるりと振り返り、ご機嫌な鼻歌を歌いながら再び歩き出した。
「まったく……徹底してるな、お前は」
誰にも自分の本領域には踏み込ませないという、その不器用で頑なな防衛線。
瑞樹は苦笑いを浮かべながら、少しだけ前を歩く彼女の華奢な背中を、愛おしさと守るべき使命感を持って追いかけた。




