第1話 日常(4)
一階にある瑞樹の自室。
部屋の明かりは点けず、デスクに置かれたモニターの青白い光だけが、瑞樹の顔を静かに照らし出していた。
風呂から上がり、自室に戻った瑞樹は、日課となっているチャットアプリを立ち上げた。
画面の向こうにいるのは、顔も名前も知らない、けれど誰よりも気を許せるオタク友達の『ころも』だ。
『お疲れ様、ころもさん』
キーボードを叩き、送信ボタンを押す。
すると、待っていたかのように一瞬で既読がつき、返事が滑り込んできた。
『おっつー、みずきさん。今日はなんだか疲れてるね?』
その一文を見て、瑞樹はわずかに目を見開いた。
『何故わかる!? 読み取れる要素なんてなかったと思うが』
『ふっふー。わかるんだなぁ、わかるんだよ』
『遂にころもさんに読心術の能力が目覚めたのか』
『カメラをハッキングしました』
『なにっ!?』
『目から光彩が消えてヤンデレの目になってるね』
『めっちゃ好きなやつ』
ころもとの軽快なやり取りに、瑞樹の口元から自然と笑みがこぼれる。
昼間のスーパーでの騒動や、夕食時の重苦しい空気。それらで張り詰めていた神経が、ころもの文字を見るだけでゆっくりと解れていくのがわかった。
『ヤンデレ推しだっけ?』
『だね。あの目で殺されたい』
『そんな君に朗報だよ。ヤンデレアニメの放送が近々あるんだなー』
『まじか!』
『あいシてるHOUSE』
『調べとく、ありがとう』
そこで、ころもからポンと短いメッセージが続く。
『いつもより一時間遅かったから』
瑞樹は一瞬、何のことか頭を巡らせ――すぐに、ころもが「疲れている」と見抜いた理由だと気がついた。
いつもならチャットにログインする時間から、今日は一時間も遅れていたのだ。あの夕食時の沈黙の後、朱音のフォローや、風呂上がりの一花の髪を乾かしたりしているうちに、すっかり時間が経ってしまっていた。
『ごめん、長湯しちゃって』
『うん、疲れてるんだなって思ったからおk』
『日常系観て癒されて寝る』
『それがいい。また明日ノシ』
画面の向こうにいるころもの優しさに、瑞樹は深く息を吐き出した。
本当に、彼女——あるいは彼は鋭くて、温かい。この繋がりが、今の瑞樹にとってどれほど救いになっていることか。
チャットアプリを閉じた瑞樹は、宣言通りに録画してあった日常系のアニメをぼんやりと眺め、空っぽになった頭を少しだけ癒してから、PCの電源を落としてベッドに入った。
――深夜。
静寂に包まれたシェアハウスの中で、事件は起きた。
微睡みの中で、ふと微かな音が瑞樹の鼓膜を揺らした。
カチャリ、と。鍵のかかっていない自室のドアノブが回る音。
瑞樹が薄く目を開けると、隙間風のように音もなくドアが開き、廊下の暗闇から一つのシルエットが部屋の中へと滑り込んできた。
月明かりに照らされたその姿は、一花だった。
「一花……?」
瑞樹が身を起こしかけて声をかけるが、返事はない。
普通なら「起きてる?」だとか「一緒に寝ていい?」といった甘えた声を出してくるはずの彼女が、一切の言葉を発さず、ただ足音を忍ばせて瑞樹のベッドへと近づいてくる。
その異様さに、瑞樹の背筋に冷たいものが走った。
月明かりが、彼女の顔を青白く照らし出す。
一花の目は、完全に焦点が合っていなかった。虚空を見つめたまま、瞬きすらしていない。まるで夢遊病者のような、あるいは、あらかじめプログラミングされた動作をただ忠実に実行するだけの機械のような、不気味で無機質な足取りだった。
一花はベッドの脇に立つと、躊躇いや羞恥心など微塵も感じさせない動作で、淡々と自分のパジャマのボタンを外し始めた。
そこに、性的な誘惑や熱っぽさは一切ない。
ただ息をするように、事務的に、自身の皮膚を覆う布を剥ぎ取っていく。
脱ぎ捨てられた衣服が、ファサリと床に落ちる微かな音だけが、深夜の部屋に不気味に響き渡った。
「一花、何をしてるんだ」
瑞樹が止めようと手を伸ばした瞬間、全裸になった一花が、滑り込むように瑞樹の布団の中へと潜り込んできた。
「ひっ……!?」
瑞樹は思わず息を呑んだ。
素肌越しに触れた一花の身体は、まるで死体のようにひんやりと冷え切っていたのだ。温もりなど一切ない、氷のような肌。
一花は瑞樹の胸元に顔をうずめると、両腕で瑞樹の身体に強くすがりついてきた。それは恋人に甘えるような柔らかな抱擁ではなく、嵐の海で溺れる者が、唯一見つけた丸太に必死にしがみつくような、執拗で、痛いほどの強い力だった。爪が瑞樹の背中に食い込む。
「みーくん、みーくん、みーくん……」
胸に顔を擦り付けながら、一花が壊れたレコードのように早口で呟き始める。
「私、いい子にするから。みーくんの言うことなんでも聞くから。だから捨てないで。私、必要でしょ? 私のこと、触っていいよ。好きにしていいよ。だから……だから、私を置いていかないで……!」
それは、愛情表現などという生易しいものではない。
自身の『肉の供物』を差し出すことで、なんとかこの場所に繋ぎ止めてもらおうとする、ひどく腐敗し、歪みきった生存本能の現れ――悲痛な命乞いだった。
今日の夕食時、遊が放った「他人と付き合うのはリスクしかない」「永遠なんてない」という絶望的な言葉。そして、朱音が見せた強烈な自己否定のパニック。
そのような外的要因によって心が激しく不安定になった夜、一花は決まってこうして瑞樹の元へやってきては、体を差し出すことで自分の存在意義を確かめようとしてしまうのだ。
幼い頃、実の父親から植え付けられた『肉体的な接触=愛』という呪い。
そんなことをしなくても、一花は大切な家族だと、瑞樹は何度も何度も繰り返し教えてきた。その甲斐あって、日常ではパニックを起こすことは減っていたが、それでも彼女が心の底から恐怖に支配された時、最後に縋るのはやはりこの異常な防衛機制なのだ。
しかも、彼女が最も失うことを恐れている瑞樹に対してのみ、その呪いは色濃く発動してしまう。
「……一花。大丈夫だ、一花」
瑞樹は、一花を突き飛ばすことも、その冷え切った身体から逃げることもしなかった。
ただ静かに、震える彼女の背中に腕を回し、温めるように強く抱きしめ返した。
「そんなことしなくても、一花はずっと俺のそばにいていいんだ。いい子になんてならなくていい。何も差し出さなくていい。俺は絶対に、一花を置いていったりしない」
「ほんと……? ほんとに……?」
「ああ。本当だ。一花は俺の大切な家族だ。だから、もう怯えなくていい」
耳元で、甘く、ひたすらに優しい言葉を繰り返し囁き続ける。
瑞樹の体温と、その絶対的な肯定の言葉が少しずつ彼女の脳髄に染み渡っていくにつれ、一花の身体から強ばりが抜け、氷のようだった肌にゆっくりと血の気が戻っていくのがわかった。
「みーくん……みーくん……」
やがて、うわ言のように瑞樹の名前を呼んでいた一花の呼吸が規則的になり、彼女は瑞樹の腕の中で、糸が切れたように泥のような眠りに落ちた。
瑞樹は、すうすうと寝息を立て始めた一花の小さな頭を撫でながら、暗い天井を見つめた。
(こいつらは……本当に、どうしようもなく壊れている)
夕食時の、遊のあの虚無に満ちた瞳を思い出す。
両親の不倫と離婚を繰り返し見せつけられ、他人に一切の期待を持てなくなった遊の孤独。
ちょっとした視線や失敗で、自分の存在価値を全否定してしまうほどに、毒親に心を破壊された朱音の絶望。
そして、自分の身を守るための唯一の手段が「他人に身体を差し出すこと」だと、実の父親に洗脳されてしまった一花の悲劇。
世間一般の普通の高校生が送るような、恋だの進路だのといったありふれた青春を、彼らは享受することができない。
社会で孤立せずに生きていくには、彼らが背負わされた荷物は、あまりにも重く、そして残酷すぎた。
(俺が、守ってやらなきゃな……)
瑞樹は、腕の中で眠る一花を優しく抱き直した。
この理不尽で冷たい世界から彼らを守れるのは、自分しかしかいない。
瑞樹が盾になり、この脆くて歪な『シェアハウス』という箱庭を維持し続けなければならないのだ。
月明かりだけが差し込む静寂の部屋で、瑞樹は深く、誰にも聞こえないほどの小さなため息をこぼした。




