第1話 日常(3)
夕食の片付けは、いつも当番制ではなく手の空いている者が自然に行うという暗黙のルールになっていた。
食後、遊は「明日の小テストの範囲を確認する」と言って一階の自室へ戻り、一花は一番風呂をもらって浴室へと向かった。
残された瑞樹と朱音は、並んでキッチンのシンクに向かっていた。瑞樹がスポンジで皿を洗い、朱音がそれをふきんで丁寧に拭き上げていく。
水が跳ねる音と、食器が軽く触れ合う音だけが、静かなキッチンに心地よく響いていた。
「……ねえ、瑞樹くん」
ふいに、朱音がぽつりと口を開いた。普段の底抜けに明るい声ではなく、どこか懐かしむような、落ち着いたトーンだった。
「さっきの遊くんの言葉、ちょっと重かったね。……でも、気持ちはすごくわかるんだ」
「朱音も?」
「うん。……昔のあたしたちを思い出しちゃってさ」
拭き終えたお皿を棚にしまいながら、朱音は自嘲するように少しだけ笑った。
「あたし、昔は本当に酷かったもんね。お母さんから毎日否定されて、自分のことが大嫌いで……。周りの子たちが遊んでても、どうせあたしなんかが混ざっても楽しくないよね、迷惑だよねって、勝手に思い込んで殻に閉じこもってさ。クラスでも完全に浮いてた」
朱音の言葉に、瑞樹は静かに耳を傾けながら皿をすすぐ。
彼女の言う通りだった。幼い頃の朱音は、今の眩しい金髪や派手なファッションからは想像もつかないほど、暗くて、心が弱く、すぐに被害妄想を膨らませて泣いてしまうような女の子だった。
「そんな真っ黒でネガティブなあたしに、瑞樹くんだけが声かけてくれたんだよね。『無理に笑わなくてもいい、そのままでいいから一緒にいよう』って。……瑞樹くんが全部受け入れてくれなかったら、あたし、今頃どうなってたか分からないよ」
朱音の瞳が、感謝と、それに勝るほどの強い依存の色を帯びて瑞樹を見つめる。
「そんな大げさだよ。俺はただ、朱音と一緒にいたかっただけだ」
「大げさじゃないよ! ……でもさ、あたしたちも少しは成長したよね」
朱音は気を取り直すように、ふふっと柔らかく笑った。
「歳を重ねて、こうやって髪を染めたり、明るい服を着たりして。一生懸命明るくてポジティブなキャラを演じてたら、いつの間にか普通の友達もたくさん出来た。遊くんもクールなキャラで通ってるし、一花だってコミュ力高いし。……あたしたち、少しずつだけど、世間が言う普通ってやつに近づけてるのかな」
期待と不安が入り混じったような朱音の問いかけに、瑞樹は水道の蛇口をキュッと締めた。
濡れた手をタオルで拭き、彼女の頭にポンと手を乗せる。
「ああ、近づいてるよ。朱音が自分で努力して、今の居場所を作ったんだ。凄いことだと思うよ」
「えへへ……瑞樹くんに褒められると、なんか照れちゃうな。……でもね」
朱音は瑞樹の手のひらに嬉しそうにすり寄りながら、小さな声で付け加えた。
「あたしの本当の『普通』は、瑞樹くんたちがいるこの場所だけだよ。外の世界でどれだけ友達ができても……あたしには、ここしかないから」
その言葉は、彼女が未だに瑞樹たちという存在を命綱にしていることの証明でもあった。
瑞樹は微笑みながら、ただ優しく彼女の髪を撫で続けた。
「みーくん、お風呂あがったよー!」
不意に、リビングのドアが勢いよく開き、甘ったるい声が飛び込んできた。
振り返ると、バスタオルで濡れたショートヘアを拭きながら、一花がとてとてとキッチンへ小走りで向かってくる。
「おいおい一花、冷えるぞ」
「えへへ、みーくんが温めて?」
一花は瑞樹の隣まで来ると、躊躇うことなくその腕にギュッと抱きついた。
石鹸の甘い香りと、火照った肌の熱気が直接伝わってくる。彼女は大きめのTシャツに極端に短いショートパンツという、ほとんど下着と変わらないような無防備すぎる格好だった。はだけた首元からは、艶めかしい白い肌と鎖骨が覗いている。
「ちょっと一花! 年頃の女の子が、お風呂上がりにそんな格好で男の子にくっつかないの!」
朱音が慌てて顔を赤くし、小言を言うが、一花は全く気にする素振りを見せない。
「えー? いいじゃん別に。みーくんだよ? 減るもんじゃないし、みーくんもあったかいでしょ?」
「そういう問題じゃないでしょー!」
「はいはい、わかったから。髪が濡れたままだと風邪引くぞ」
瑞樹は慣れた手つきで一花を引き剥がすと、彼女の手からバスタオルを取り上げ、その小さな頭をワシャワシャと優しく拭き始めた。一花は「んふふ〜」と気持ちよさそうに目を細め、完全に瑞樹に身を委ねている。
端から見れば、高校生の男女が同じ屋根の下で、こんな無防備な距離感で生活しているなど、狂気の沙汰に見えるかもしれない。
年頃の男女のルームシェア。普通なら、間違いが起きるか、あるいは保護者が絶対に許さない環境だ。
だが、この幼馴染たちの間では、そんな世間一般の常識や懸念は一切通用しない。
彼らの間には、恋愛感情や性的な欲求が入り込む隙間など一ミリも存在しなかった。
特に一花は、幼い頃に父親から受けた凄惨な虐待により、『肉体的な接触=愛』という異常な価値観を植え付けられていた。そんな彼女に対し、瑞樹は何度も何度も根気よく「体を重ねなくても、愛し合える。友達でいられる」と教え込み、彼女の心を救い出してきたのだ。
一花が瑞樹にくっつくのは、誘惑ではなく、純粋な安心を求めているからに過ぎない。
瑞樹たちにとって、この四人の関係は家族であり、互いの痛みを分かち合うための絶対的な安全地帯なのだ。互いを性的な対象として見ることは、彼らが築き上げてきた救済の歴史を汚すことに他ならない。
そして、その特殊すぎる絆の強さは、彼らの親たちも痛いほど理解していた。
毒親との関係が破綻し家出同然の朱音、複雑な家庭環境で他人に育てられている遊、そして深いトラウマを抱えた一花。
親たちは皆、この子どもたちが瑞樹を中心としたグループでいなければ、精神の均衡を保ってまともに生きていくことすらできないと気付いていた。だからこそ、高校進学を機に彼らが提案した『幼馴染同士でのシェアハウス』という異常な申し出に対し、誰一人として反対の声を上げなかったのだ。いや、正確には、彼らを引き離すことが恐ろしくて、反対できなかった、と言うべきかもしれない。
「みーくん、ドライヤーして?」
「はいはい。リビングのソファに座ってろ」
「わーい! 朱音ちゃん、私みーくんに髪乾かしてもらうもんねー!」
「むー! 一花だけずるい! あたしも明日やってもらうからね!」
キャッキャと笑い合いながら、ソファへと向かう二人の少女。
(本当に、血の繋がった兄妹みたいだな)
瑞樹は二人を微笑ましく見つめながら、ドライヤーを手に取った。
世間の常識から外れた、歪で、異常で、けれど何よりも温かいこの場所。
この平穏な日常が一日でも長く続くようにと、瑞樹は心の中でそっと願いながら、ドライヤーのスイッチを入れた。
温かい風が、一花の濡れた髪をふわりと揺らした。




