第1話 日常(2)
シェアハウスのリビングには、デミグラスソースの甘く香ばしい匂いが充満していた。
テーブルの中央には、朱音特製のソースがたっぷりとかかった大きなハンバーグが四つ、湯気を立てて並んでいる。その周りを囲むようにして座った四人は、先ほどのスーパーでの騒動が嘘だったかのように、穏やかな夕食の時間を迎えていた。
「んーっ! 美味しい! やっぱりあたし天才かも!」
「……うん。美味しい。城ヶ崎、料理の腕上げたね」
「みーくん、あーんして? 私がフーフーしたやつ、食べる?」
「一花、自分で食べられるから大丈夫だよ。でも、本当に美味しいな。ありがとう、朱音」
瑞樹が素直に褒めると、朱音はえへへと嬉しそうに照れ笑いを浮かべた。
そんな温かい食卓の風景を見つめながら、瑞樹はふと、箸を止めて三人の顔を順番に見回した。
「……なぁ、お前ら」
瑞樹が少しだけ真面目なトーンで口を開くと、三人の視線が一斉に瑞樹に集まる。
「さっきの帰り道のことなんだけどさ」
瑞樹の言葉に、三人の肩がビクッと跳ねた。特に朱音と一花は、目に見えて怯えたように身を縮こまらせる。
「怒ってるわけじゃないんだ。ただ、少し気を抜きすぎじゃないかって思ってさ」
「気を……抜きすぎ?」
「ああ。遊も、朱音も、一花も、本当はもっと上手くやれるはずだろ?」
瑞樹は静かに、諭すような口調で言葉を紡いだ。
幼い頃、彼らは自分の異常性を隠す術を知らず、周囲から完全に孤立していた。しかし、成長して高校生になった今、彼らは社会の波をどうにか泳ぐ術を身につけつつある。
遊は冷めた性格を「クール」という仮面に変え、朱音は持ち前のネガティブを「派手で明るいキャラクター」で上塗りし、一花も異常なパーソナルスペースをわきまえ、それぞれが学校というコミュニティで波風を立てずに普通の友達を作ることができているのだ。
「お前らは、俺がいないところじゃ、ちゃんと自分のことをコントロールできてる。周りの空気を読んで、普通の子たちに混ざって上手くやれてるじゃないか。それなのに……俺が近くにいると、どうしてあんなに無防備になっちゃうんだ?」
瑞樹が少しだけ眉を下げて問いかけると、リビングに気まずい沈黙が落ちた。
瑞樹がいると、彼らは安心しきってしまうのだ。
瑞樹という絶対的な防波堤があるからこそ、無理に被っていた仮面を脱ぎ捨てて、脆くて不器用な本来の自分を無意識のうちに曝け出してしまう。それが、先ほどのパニックや暴言の連鎖を引き起こした原因だった。
「俺はいつだってお前らの味方だし、いくらでも頼ってくれて構わない。でも、俺がいるからって完全にガードを下げてたら、ふとした瞬間に外の世界から足を掬われるぞ。……俺は、お前らに傷ついてほしくないんだ」
その言葉の裏にあるのは、純粋な仲間想いと庇護欲だった。瑞樹の優しい説教を聞き終えると、三人はそれぞれ複雑な表情を浮かべて俯いた。
「……ごめん。古河の言う通りだ」
最初に口を開いたのは遊だった。彼はスッと背筋を伸ばし、瑞樹を真っ直ぐに見つめ返す。
「古河がいてくれると思うと、つい甘えて、周りの人間のことなんてどうでもよくなっちゃうんだ。……気を付けるよ。いつも庇ってもらってばかりで、本当にごめん」
冷めた瞳の奥に、確かな反省の色を浮かべて、遊は素直に頭を下げた。
「あたしも……ごめんなさい……」
続いて、朱音が消え入りそうな声で呟いた。彼女は箸を持ったまま、自分の膝のあたりを見つめている。
「瑞樹くんがいると、安心して……ダメなあたしが出ちゃうんだ。こんなことじゃダメだよね……あたし、また瑞樹くんに迷惑かけて、そのうち愛想尽かされちゃうかも……ううん、こんな重たい女、嫌われて当然だよね……」
ヒステリックに泣き叫ぶことこそないものの、彼女の持ち前のネガティブシンキングが顔を出し始め、目に見えてどんよりと落ち込んでいく。
「み、みーくん……っ」
そして瑞樹の隣では、一花が涙ぐんだ目で瑞樹の袖を掴んでいた。
「ごめんなさい、私がいけないの……! みーくん、私のこと嫌いになった? ウザいって思った? お願い、嫌いにならないで……私、みーくんがいないとダメなの……!」
捨てられた子犬のように震えながら、縋るように見上げてくる一花。
(まったく……こいつらは本当に、世話が焼けるな)
瑞樹は心の中で苦笑し、一花の頭をポンポンと撫でた。
「誰も嫌ってないし、愛想も尽かさないって。ただ、俺たちだけの空間と、外の世界との境界線は、もう少しだけ意識しようって話。……ほら、せっかくのハンバーグが冷めるぞ。食べよう」
瑞樹がいつもの優しい笑顔を見せると、三人はホッと安堵の息を吐き、ようやく再び箸を動かし始めた。
しばらくは食器の触れ合う音だけが響いていたが、空気を変えようと思ったのか、朱音が顔を上げて無理に明るい声を出した。
「そ、そういえばさ! 遊くんって、いつもああやって女の子を振るたびに一悶着起きてるよね?」
「……僕が悪いみたいに言わないでよ。勝手に声かけてきて、勝手にキレてるだけだろ」
「いやいや、遊くんの言い方がストレートすぎるんだって! でもさ、あんなに言い寄られるなら、思い切って誰かと付き合ってみたら? 案外、すごく好きになれる子に出会えるかもしれないよ?」
朱音の何気ない提案。普通の高校生なら恋バナとして盛り上がるような話題だ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、遊の箸がピタリと止まった。
「……付き合う?」
遊の声は、先ほどまでの穏やかなものから一転して、氷のように冷たく、そしてどこまでも虚無に満ちたものに変わっていた。
「どうして、そんな危ういことをしなきゃいけないんだ」
「あ、危ういって……恋人だよ?」
「恋人だろうが親友だろうが、他人は他人だ。自分以外の人間と深く関わるなんて、リスクしかない」
遊の薄い瞳が、何もない空間を見つめる。その表情には、怒りも悲しみもなく、ただ全てを諦めきったような乾いた虚無感だけが張り付いていた。
「期待するから、裏切られた時に傷つく。心を許すから、踏みにじられた時に壊れるんだ。……他人と付き合うっていうのは、自分の心臓にナイフを突き立てる権利を、わざわざ相手に渡すようなものだろ。そんな恐ろしいこと、僕には絶対にできない」
淡々と語られる遊の言葉には、高校生らしからぬ重く冷たい実感がこもっていた。
幼い頃から、最も身近な存在であるはずの大人たちの裏切りや勝手な振る舞いを間近で見てきた彼にとって、他人に期待しないことこそが、唯一自分の心を守るための生存戦略なのだ。
「他人の言葉なんて、その場限りの薄っぺらいものだ。永遠なんてないし、絶対なんてない。……最初から何も期待しなければ、誰かを憎むことも、絶望することもない。だから僕は、誰とも付き合わないし、誰のことも特別には思わない。……ただ、ここの三人のことだけは、別だけどね」
そう締めくくった遊の顔は、あまりにも寂しそうだった。
リビングに、再び重たい沈黙が降りた。
食卓には湯気を立てる美味しいハンバーグがあるというのに、まるで冷たい風が吹き抜けたかのように、部屋の温度が急激に下がった気がした。
誰も、遊の言葉を否定できなかった。
朱音も、一花も、そして瑞樹自身も。
(……ああ。こいつは、こんなにも世界に絶望しているんだな)
他人に何も期待せず、自分の心を守るために殻に閉じこもり、ただ適宜リアクションを返すだけの機械のように生きている遊。彼の抱える闇の深さに触れ、瑞樹の胸の奥がキュッと締め付けられた。
自分たちは、社会から弾き出された欠陥品の集まりだ。
誰もが心に消えない傷を負い、痛みを抱えながら、必死に寄り添って生きている。遊の言葉は、そんな自分たちのどうしようもない異常性と孤独を、改めて突きつけてくるものだった。
「……ごめん。せっかくの夕飯なのに、変な話をしちゃったね」
自嘲気味に笑い、再びハンバーグに箸を伸ばす遊。
瑞樹は無言のまま、遊の横顔を見つめた。
朱音も一花も、どこか寂しそうな瞳で俯いている。
外の世界に絶望し、このちっぽけなシェアハウスという箱庭にしか居場所を見出せない不器用な幼馴染たち。
彼らの孤独と痛みを分かち合えるのは、世界中で自分しかいない。
(俺が、守ってやらなきゃな……)
瑞樹は静かにハンバーグを口に運びながら、愛おしい彼らのために、自分だけはこの温かい箱庭を何があっても守り抜こうと、改めて心に誓うのだった。




