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第1話 日常

 高校に入学し、四人でのルームシェアが始まってから、およそ一ヶ月が経過していた。


 真新しい制服にもすっかり馴染み、春のうららかな陽気が街を包み込む放課後。古河瑞樹(ふるかわみずき)たち四人は、近所のスーパーマーケットから揃って帰路についていた。


「今日の夕飯はハンバーグだよ! あたし、特製ソース作っちゃうからね!」


 両手に提げたスーパーのビニール袋をぶんぶんと振り回しながら、城ヶ崎朱音(じょうがさきあかね)が太陽のような笑顔で先頭を歩く。彼女の眩しい金髪が、夕日を受けてキラキラと光を反射していた。


 その後ろを、天音遊(あまねゆう)が気怠げに歩いている。彼の両手にも重たそうな野菜や飲み物が入った袋が提げられているが、その端正な顔立ちに疲労の色はない。ただ、どこか遠くを見るような、世間の喧騒に何も期待していない薄い瞳でアスファルトを見つめている。


 そして瑞樹のすぐ隣では、井上一花(いのうえいちか)が上機嫌な鼻歌を歌いながら、歩幅を合わせて歩いていた。


「みーくんのハンバーグ、私がいーっぱい捏ねてあげるからね。愛情たっぷりだよ」


「はは、楽しみにしてるよ」


 瑞樹が微笑んで返すと、一花はえへへ、と嬉しそうに笑った。


 客観的に見れば、仲の良い高校生グループの、ありふれた青春のワンシーンだろう。


 しかし、瑞樹にとってこの日常は、決してありふれたものではなかった。


 トラウマを抱え、社会から孤立していた幼馴染たちが、互いに寄り添い、新しい環境で懸命に普通の日常を築き上げようとしている。


 その健気な姿は、瑞樹にとって何よりも愛おしく、絶対に守り抜かなければならない宝物だった。


「――あの、すみません!」


 ふいに、前方を歩いていた遊が立ち止まった。


 見ると、見慣れない制服を着た他校の女子生徒が二人、遊の前に立ち塞がっている。頬を赤らめ、スマホを握りしめながら、上目遣いで遊を見つめていた。


「ずっと見てました。あの……すっごくかっこよくて。もしよかったら、連絡先交換してもらえませんか?」


 いわゆる、逆ナンというやつだった。


 遊の容姿は、黙って立っているだけでも人を惹きつける。こういったことは、この一ヶ月の間にも何度かあった。


「おっ、逆ナンとかすごーい! やったね遊くん! モテモテじゃん!」


 すかさず、朱音が明るい声を上げた。冷やかすような、底抜けに明るいトーン。


 しかし、付き合いの長い瑞樹の耳は誤魔化せない。彼女の声は半音高く、その笑顔の裏側には、予期せぬ他者の介入に対する強烈な緊張が張り付いている。見知らぬ人間に絡まれることは、毒親の顔色を常に窺ってきた彼女にとって、心拍数を跳ね上げる最大のストレスなのだ。


「みーくん……」


 隣にいた一花が、不安げな声を漏らした。


 彼女の小さな手が、瑞樹の制服の袖をぎゅっと掴む。それだけでは足りないのか、一花は瑞樹の腕に自身の柔らかい胸を押し当てるようにして、ぴったりと体を密着させてきた。


 他者が介入することで、自分たちの『家族』という絶対的な聖域に亀裂が入るのではないか。自分がまた弾き出され、孤立してしまうのではないか。その強迫観念が、彼女の心を刺激しているのだろう。


(大丈夫だよ、一花。何もないから)


 瑞樹は心の中でそう語りかけながら、優しく一花の頭を撫でた。瑞樹の手のひらから伝わる体温で、一花の震えが少しだけ収まる。


「ごめん、僕は恋人を作る気はないんだ」


 遊の冷ややかな声が、夕暮れの道に響いた。


 女子生徒たちは「えっ」と戸惑った顔をする。普通ならここで適当な言い訳をして終わっても良い場面だ。


 だが、他人に一切の期待をしていない遊は、人間関係の摩擦を避けるための嘘すらも面倒くさがる。


「……それに、見た目だけで惚れたとか、責任感無さすぎだろ」


「は……?」


「僕の内面なんか何も知らないくせに、ただ顔が良いからって声をかける。どうせ君みたいな子は、他に顔の良い男を見つけたら、すぐそっちに行くよね。そういう薄っぺらい感情を向けられるの、迷惑なんだ」


 淡々と、まるで今日の天気を語るような温度で、遊は言い放った。


 女子生徒の顔が、みるみるうちに朱に染まっていく。


 恥辱と、それ以上の怒りによって。


「な、なによそれ! ちょっと声かけただけじゃん! 自意識過剰すぎない!?」


「あんた、顔がいいからって調子に乗ってんじゃないわよ!」


 激昂した女子生徒たちが、甲高い声で遊を捲し立てる。


 遊は全くダメージを受けていない顔で「図星を突かれて怒るなら、最初から声なんてかけなきゃいいのに」とため息をついた。それが火に油を注ぎ、女子生徒が一歩、遊に詰め寄る。


「あっ、あはは! ご、ごめんね! この子ちょっと言葉を知らなくて!」


 朱音が慌てて間に入り、両手を振って必死に場を和ませようとする。だが、完全にキャパシティを超えている彼女の顔は引き攣り、言葉は空回りしていた。


 瑞樹は一花の体をそっと引き剥がし、遊と朱音の前に出た。


 これ以上、大切な幼馴染たちを外のストレスに晒すわけにはいかない。瑞樹は強く、ハッキリとした口調で女子生徒の目を見据えた。


「確かに彼の、アプローチへの断り方は礼儀に欠けていた。それは俺からも謝る。ごめん。……でも、断られたからといって、道端で大声で怒鳴り散らしていい理由にはならないよな? これ以上騒ぐなら、君たちの学校に連絡させてもらうけど」


 正論と、確かな威圧。


 瑞樹の静かな怒気を孕んだ瞳に気圧されたのか、女子生徒たちは「……っ、もういい!」と吐き捨て、足早にその場から立ち去っていった。


「ふぅ……。遊、いくらなんでもあんな言い方はないだろ。少しはオブラートに包めよ」


「事実を言っただけだよ。……古河はほんとに良い奴だよな。いつも僕の面倒を押し付けちゃってごめん」


 遊が全く悪びれない様子で肩をすくめる。


 これで一件落着。そう思って再び歩き出そうとした、その時だった。


「……ごめんなさい」


 背後から、消え入りそうな声が聞こえた。


 振り返ると、朱音がその場に立ち尽くしていた。彼女の眩しい金髪の下で、顔面は血の気を失い、真っ青になっている。


 周囲の視線。


 先ほどの騒ぎを聞きつけた通行人たちが、遠巻きにこちらを奇異の目で見ていた。「何あれ」「変な高校生」というヒソヒソ声が、幻聴のように響いているのだろう。


 毒親から常に否定され続け、他者の評価に異常なまでに怯える朱音の心が、その視線によって限界を迎えようとしていた。


「あたし……あたしが、ちゃんと止められなかったから……ごめんなさい、ごめんなさい、あたしなんて生きてる価値ないよね……」


 バサッ!!


 朱音の手から力が抜け、提げていたスーパーのビニール袋がアスファルトに落下した。

 結び目が解け、中から玉ねぎやトマト、ハンバーグの挽肉のパックが無惨に転がり出る。


「ひっ……!」


 その光景を見て、一花が短い悲鳴を上げた。


 平穏な日常が壊れた。その恐怖で一花の目は大きく見開き、ガクガクと震えながら、再び瑞樹の腕にしがみついてくる。今度は爪が食い込むほどの強い力で。


「うるさいな、城ヶ崎。たかが視線くらいで何をそんなに……」


 遊が冷たく言い放ちながら、しかし手は困ったように、転がった玉ねぎを拾い集め始める。心と行動が完全にちぐはぐになっていた。


 パニックになり、過呼吸気味に涙をこぼす朱音。


 腕に縋り付き、震えが止まらない一花。


 冷たい言葉を吐きながら、不器用に野菜を拾う遊。


 これが、瑞樹の大切な幼馴染たちの真実だった。


 明るい仮面を被っていても、外の世界から少し小石を投げられただけで、いとも容易く傷ついてしまう。ひどく脆くて、不器用な生き物たち。


 だからこそ、瑞樹が守らなければならないのだ。


「……大丈夫だ。誰も君を責めてない。泣かないで、朱音」


 瑞樹はしゃがみ込み、散らばった食材を拾いながら、朱音の震える背中を優しく撫でた。


「俺たちは他人から見たら変わってる人種だろ? でも、それでも、俺たちはお互いに分かりあって、お互いに支え合ってる。家族みたいなものだ。他人にどんな目で見られても、俺たちは味方なんだって、忘れないでくれ」


 温かく、すべてを包み込むような声で語りかける。


 その言葉を聞いた瞬間、朱音の目から大粒の涙がボロボロと溢れ落ちた。


「瑞樹くん……っ、瑞樹くん……!」と、彼女は瑞樹の服の裾を強く握りしめ、まるで唯一の救いにすがるような瞳で瑞樹を見上げた。


 腕にしがみつく一花も、「みーくんがいてよかった……」と安堵の吐息を漏らす。


 遊もまた、拾った玉ねぎを袋に戻しながら、微かにホッとしたような表情を浮かべていた。


「ほら、帰ってハンバーグ作ろう。みんなで作れば、最高に美味しくなるさ」


 瑞樹が力強く微笑むと、三人は泣き笑いのような表情で、何度も何度も頷いた。


 彼らの瞳には、瑞樹に対する絶対的な信頼と、この上ない親愛が宿っている。


(ああ、なんて愛おしいんだろう)


 瑞樹は、夕日に照らされた三人を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 世間から弾き出された我々は、こうして身を寄せ合って生きていくしかない。瑞樹が幼馴染たちの防波堤になり、このささやかで歪な幸福を守り抜くのだ。


 夕日に長く伸びた四人の影は、ぴったりと寄り添い合い、まるで一つの生き物のように家路へと向かっていった。

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