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第2話 邂逅(5)

第2話 邂逅(5)


 夕食の後片付けと入浴を済ませ、瑞樹は一階の自室で机に向かっていた。


 開かれたままの参考書とノート。しかし、シャープペンシルを握る手はここ数分間、全く動いていなかった。頭の中では、先ほどリビングで繰り広げられた朱音の恋バナがぐるぐると巡っている。


 コンコン、と控えめなノックの音が鳴った。


「入っていいぞ」


 瑞樹が声をかけると、ドアが静かに開き、部屋着姿の朱音が顔を覗かせた。いつもの太陽のような明るい笑顔はなく、どこか不安げに眉を下げた、自信のなさそうな表情だ。


「瑞樹くん……勉強中、ごめんね。ちょっとだけ、いい?」


「ああ、構わないよ。どうした?」


 瑞樹が椅子を回転させて向き直ると、朱音はとてとてと歩み寄り、瑞樹のベッドの端にちょこんと腰を下ろした。膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。


「あのさ……瑞樹くんは、ぶっちゃけどう思ってる?」


「ぶっちゃけ?」


「あたしが、付き合うこと。……夕飯の時は賛成してくれたけど、本当は遊くんみたいに、やめとけって思ってない……?」


 上目遣いで顔色を窺ってくる朱音。


 他人の顔色を読んで生きてきた彼女は、自分が周囲の空気を乱していないか、特に瑞樹に呆れられていないかが不安でたまらないのだ。


「思ってないよ。夕飯の時にも言っただろ、俺は本当に良いことだと思ってる。大賛成だ」


 瑞樹は温かい声をかけ、朱音の不安を拭うように優しく微笑んだ。


「遊だって、今は賛成してくれてる。あいつが最初あんなに反対したのは、朱音が傷つくのが本当に心配だったからだ。他人に期待して裏切られる痛みを、あいつは誰よりも知ってるからな。……でも、朱音の背中を押したい気持ちは、俺も遊も同じだよ」


 瑞樹の言葉に、朱音は「そっか……」と小さく呟き、少しだけ強ばっていた肩の力を抜いた。


「実はね……あたし、まだその男の子のこと、『好き』ってわけじゃないんだ」


 ポツリと、朱音が本音をこぼす。


「入学してから何度も告白してくれて、その度に断ってたんだけど。でも、今日瑞樹くんに言われて、付き合うっていう経験をしてみようって思って。……あ、適当に選んだわけじゃないよ? あの人、すごく真っ直ぐな目をしてたから。だから、これから少しずつ、あの人のことを好きになっていくつもりなんだ」


「うん。それでいいと思う。立派な動機じゃないか」


「でも……」


 朱音は再び顔を俯かせ、膝の上のパジャマの生地をきつく握りしめた。


「やっぱり、怖いよ。あたしのこの変な性格……ネガティブで、重たくて、ちょっとしたことでパニックになっちゃう異常なところ。……隠しきれなくなって、気持ち悪いって引かれたらどうしよう。本当に、あたしなんかで大丈夫なのかな……」


 今にも泣き出しそうな声で震える朱音。


 新しい世界へ足を踏み入れたいという憧れと、拒絶されることへの強烈な恐怖が、彼女の心の中で激しくせめぎ合っているのだ。


 瑞樹は立ち上がると、震える朱音の前に立ち、その華奢な身体をそっと優しく抱きしめた。


「み、瑞樹くん……?」


「大丈夫だ、朱音。何も怖がることはない」


 驚いて身を固くする朱音の耳元で、瑞樹は絶対的な安心感を与えるように、低く落ち着いた声で囁いた。


「もし朱音が危険な目に遭いそうだったり、馬鹿にされたり、傷つけられそうになったら、俺が絶対に助けに行く。どんな手を使ってでも、朱音を守る」


「っ……」


「もし上手くいかなくて、泣いて帰ってきて辛かったら、いつだって俺が話を聞いてやる。嫌になったら、その時にまた一緒に考えればいい。俺たちはいつだって朱音の味方だし、朱音の帰る場所はこの家にあるんだから」


 瑞樹の手のひらが、朱音の背中を一定のリズムでトントンと叩く。


「だから、気楽にいこうぜ、朱音。お前はお前らしく、楽しんでくればいいんだ」


 それは、彼女の背中を押した者としての、瑞樹なりの『義務』であり『覚悟』だった。


 どんな結果になろうとも、全てを受け止め、彼女の心を守り抜く。自分がこの幼馴染たちを救い出したヒーローであるならば、その責任を最後まで全うしなければならない。


 瑞樹の温かい体温と、絶対的な肯定の言葉。


 それがゆっくりと朱音の心に染み渡っていくのがわかった。彼女の身体から小刻みな震えが消え、やがて彼女の腕が、瑞樹の背中にそっと回された。


「……うん。うんっ……! ありがとう、瑞樹くん。あたし、頑張ってみるね」


 瑞樹の腕の中で、朱音は鼻をすすりながら、力強く頷いた。


 数秒後、身体を離した彼女の顔には、いつもの作り物ではない、少し照れくさそうな、等身大の女の子の笑顔が浮かんでいた。


「ごめんね、勉強の邪魔しちゃって。……おやすみ、瑞樹くん!」


 すっかり元気を取り戻した朱音は、足取りも軽く自室へと戻っていった。


 ドアが閉まり、一人取り残された瑞樹は、ふうっと小さく息を吐いた。


 なんだか、どっと疲労感が押し寄せてきた。幼馴染たちの重たい感情を受け止め、彼らの心を安定させる作業は、瑞樹にとって日常茶飯事とはいえ、やはりエネルギーを使う。


「……勉強、もういいか」


 すっかり机に向かう気が削がれてしまった瑞樹は、参考書を閉じ、代わりにデスクの上のPCを立ち上げた。


 モニターの青白い光が部屋を照らす。瑞樹は迷うことなく、チャットアプリのアイコンをクリックした。


『おつかれ、ころもさん』


 キーボードを叩いて送信すると、すぐに既読のマークがついた。


『おっつー。もう名前でよくない?』


『おk。じゃあ結衣で』


『私も瑞樹くんで』


 ほんの数時間前まで、駅の改札前で直接顔を合わせて話をしていたばかりだ。


 それでも、こうして夜の静寂の中で画面越しに文字を交わす時間は、瑞樹にとって別腹だった。なんというか、これをやらないと一日が終わった気がしないのだ。


『すごい出会いだったね。こんなことあるんだな』


『ねー。私たちの話を小説にして、どこかに投稿しよっかな』


『小説書いてるの?』


『やだなぁ瑞樹くん。オタクは誰しも一度は理想の物語を綴るものだよ』


 画面に表示された『理想』という言葉に、瑞樹は少しだけ胸の奥がチクッと引っかかるのを感じた。


(俺の理想の物語、か……)


 しかし、その感情にはあえて蓋をして、瑞樹は軽口を叩くようにキーボードを打つ。


『俺たちの物語を小説にするには、まだ浅すぎじゃないかな』


『だねー。これからいっぱい思い出を重ねていこうね♡』


『友達だと思ってたのに気付いたら好き、とかやろうね♡』


『お決まり展開すぎて閲覧2』


『俺たちしか見てない!?』


『wwwww欲しいツッコミありがとうw』


 ふっ、と瑞樹の口から笑い声が漏れた。


 直接会って、お互いの本名を知って、顔も知った。それでも、瑞樹と結衣の関係性はネット上とそこまで変わらなかった。会っても会わなくても、こうして同じようにふざけたやり取りをして、笑い合える。


 でも、明確に変わったことが二つだけある。


 一つは、お互いに「みずきさん」「ころもさん」ではなく、「瑞樹くん」「結衣」と本名で呼び合うようになったこと。


 そしてもう一つは――今まで以上に、画面の向こうにいる彼女を想像して、心が躍るようになったこと。


 夕暮れの改札前、ふわりと舞ったショートヘアと、真っ直ぐにこちらを見つめてきた吸い込まれそうな瞳。あの時の映像が、脳裏に焼き付いて離れない。


(やっぱり、この時間が……好きだ)


 キーボードに置いた指先が、ほんの少しだけ熱を帯びる。


 この気持ちは、伝えた方が良いのだろうか。


 今日のカフェでの出来事が頭をよぎる。結衣は瑞樹の目を真っ直ぐに見て、はっきりと言っていた。


『言わなくても察してなんてご都合主義、傲慢だよ』


――それなら。


 瑞樹は少しだけ迷い、深呼吸をしてから、一文字ずつ丁寧にキーボードを叩いた。


『結衣とのこの時間が、楽しくて好き』


 送信ボタンを押す。


 いつもなら即座に返ってくるはずの返信が、今度ばかりは少し間を置いてから届いた。


『(。・ω・。)』


 絵文字だけ。


 しかし、その直後に慌てたような連投が続く。


『私も』


『ノシ』


 画面越しに、結衣が顔を真っ赤にしてキーボードを叩いている姿が目に浮かぶようで、瑞樹はたまらなく愛おしい気持ちになった。


『おやすみーノシ』


 瑞樹も短く返し、静かにPCの電源を落とした。


 ファンが止まる微かな音と共に、部屋が再び静寂と暗闇に包まれる。


 瑞樹は立ち上がり、着の身着のままだらしなくベッドへと倒れ込んだ。


 スプリングがギシッと鳴る。大きく息を吸い込み、天井に向かって長いため息を一つ、深く漏らした。


「あー……こりゃ疲れる」


 幼馴染の重すぎるトラウマを受け止めるヒーローとしての疲労と、等身大の高校生として女の子と心を通わせる、くすぐったいような疲労。


 全く質の違う二つの感情に振り回された長い一日。


(……俺、今どんな顔してるんだろうな)


 暗闇の天井を見つめたまま、自分の口角がだらしなく上がっていることに気づかないふりをして。


 瑞樹は、心地よい微睡みの底へとゆっくりと落ちていった。

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