第3話 地雷
誰にでも、記憶の奥底に大切にしまってある原風景があるはずだ。
瑞樹にとってのそれは、色鮮やかな遊具でも、賑やかな教室でもなく、どこかひんやりとした日陰にある「砂場」の景色だった。
――あれはまだ、瑞樹たちが幼稚園の年長だった頃のこと。
よく晴れた春の日の午後、園庭には子どもたちの甲高い笑い声が響き渡っていた。
鬼ごっこをして走り回るグループ、ジャングルジムの頂上を取り合ってふざけ合う男の子たち、おままごとで楽しそうに笑い合う女の子たち。誰もが太陽の下で、無邪気な光を浴びて輝いていた。
そんな輪の中から完全に外れ、園庭の隅にある藤棚の陰で、一人ぽつんと砂場にしゃがみ込んでいる小さな背中があった。
更科雫だ。
彼女は他の子のように大声で泣くわけでもなく、ただ静かに、小さなプラスチックのスコップで乾いた砂をすくっては落とし、すくっては落としを繰り返していた。その小さな背中には、子どもながらにどうしようもないほどの孤独と、諦めのような暗い影がへばりついているように見えた。
『普通』の輪に入れない。入り方がわからない。
その気持ちは、幼い瑞樹にもどこか痛いほどよく理解できた。
瑞樹は、迷うことなくその小さな背中へと歩み寄った。
「ねえ、何作ってるの?」
突然かけられた声に、雫の小さな肩がビクッと跳ねた。
彼女は驚いたように振り返り、大きな瞳で瑞樹を見上げる。少し怯えたような、警戒するような、小動物のような瞳だった。
「……お山」
「そっか。俺も一緒に作っていい?」
「…………うん」
小さく頷くのを確認して、瑞樹は雫の隣にしゃがみ込んだ。
二人で無言のまま、砂をかき集め、ペタペタと叩いて固めていく。ひんやりとした砂の感触だけが、二人の間を繋ぐ唯一のコミュニケーションだった。
「俺、古河瑞樹。君の名前は?」
砂山を撫でながら、瑞樹が唐突に尋ねた。
雫はスコップを持つ手を止め、もじもじと俯きながら、消え入りそうな声で答える。
「……更科、雫」
「雫か。よろしくね、雫」
瑞樹がニコッと笑いかけると、雫は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからほんのわずかに、安心したように目元を和ませた。
しばらくの間、二人は協力して大きな砂の山を作った。そこにトンネルを掘り、水を流し込んで小さな川を作る。無心になって遊んでいるうちに、雫の顔から最初の頃の強ばりが少しずつ消えていくのがわかった。
しかし、園庭の遠くから「あははは!」と他の子どもたちの楽しそうな大合唱が聞こえてくると、雫の手が再びピタリと止まった。
彼女は、日向で手をつないで笑い合う女の子たちのグループを、羨ましそうに、そしてひどく寂しそうに見つめていた。
「……どうしたの?」
瑞樹が優しく問いかけると、雫はぽつり、ぽつりと、心の奥底に溜め込んでいた思いを吐露し始めた。
「私ね……本当は、恥ずかしがり屋なの」
砂だらけの小さな手で、自分の膝をぎゅっと握りしめる。
「みんなみたいに、上手にお話しできなくて。自分から『いれて』って言えなくて……。気がついたら、いつもみんなの輪に入れなくて……」
雫の声が、微かに震えていた。
彼女はとても優しく、人の気持ちを第一に考えすぎるがゆえに、自分が輪に入ることで誰かの邪魔になってしまうのではないかと、余計な気遣いをしてしまうらしい。
その結果が、この日陰の砂場での孤立だった。
「本当は、みんなと一緒に遊びたいの。……でも、入れないの。だから、いつも……すっごく、寂しいの」
ポタッ、と。
雫の目から零れ落ちた涙が、乾いた砂に小さな染みを作った。
声を出して泣きじゃくるわけでもなく、ただ静かに、自分の不器用さを責めるように涙を流す彼女の姿は、ひどく痛ましかった。
瑞樹は、雫の横顔をじっと見つめた。
彼女は、弱い。この賑やかで残酷な子どもの社会において、自力で立ち上がる術を持っていない。
なら、どうすればいいか。
(俺が、助けてやればいいんだ)
瑞樹は自分の泥だらけの手をズボンで適当に拭うと、雫の小さな手を、自分の両手でぎゅっと包み込んだ。
「えっ……瑞樹くん……?」
「じゃあさ、雫」
驚いて顔を上げた雫の瞳を、瑞樹は真っ直ぐに見つめ返した。
「幼稚園にいる間、毎日必ず『二人きり』で遊ぶ時間を作ろうよ」
それは、大人数での輪に入れない彼女に対する、瑞樹なりの完璧な解決策だった。
無理に大きな輪に入らなくていい。
誰かに気を使わなくていい。
「みんなの輪に入らなくても、俺が毎日、絶対に雫と一緒に遊んであげる。砂場でも、ブランコでも、絵本を読むんでもいい。二人だけで遊ぶ時間を作るんだ」
「瑞樹くんが、私と……?」
「ああ。だから雫は……明日からその時間を楽しみにして、毎日必ず幼稚園に来てね。約束だよ」
瑞樹は、にっこりと優しく笑って見せた。
その瞬間だった。
雫の大きく見開かれた瞳から、ぽろぽろと後から後から涙が溢れ出した。しかしそれは、先ほどの寂しさからくる悲しい涙ではなかった。
「……っ、うん……!」
暗く冷たかった彼女の世界に、一筋の温かい光が差し込んだ瞬間だった。
孤独と諦めで覆われていた彼女の顔に、まるで春の蕾がほころぶような、純粋で、美しくて、最高に愛らしい笑顔が咲き誇る。
「約束、する……! 私、毎日幼稚園に来る! 瑞樹くんと遊ぶの、楽しみに……毎日、来るね……っ!」
泣き笑いの表情で、雫は瑞樹の手を強く握り返してきた。
その小さな手から伝わる確かな温もりと、瑞樹に向ける絶対的な信頼の眼差し。
この日、この砂場での約束が、古河瑞樹と更科雫という二人の絆を決定づけた、すべての始まりだった。
誰の目にも留まらないような、弱くて不器用な女の子。
彼女のその眩しい笑顔を守り抜くことこそが、自分の使命なのだと、幼い瑞樹は誇らしく胸に刻み込んだのだった。




