第3話 地雷(2)
目を覚ますと、窓の隙間から差し込む朝の光が部屋を明るく照らしていた。
瑞樹はゆっくりと体を起こし、自分の手のひらを見つめる。
夢の中で触れた、冷たくてザラザラとした砂の感触と、雫の小さな手の温もりが、まだ微かに残っているような気がした。
(俺が、守らなきゃいけないんだ)
誰の目にも留まらない、弱くて不器用な幼馴染たち。
彼らを暗い世界から救い出したあの日から、瑞樹の役割は決まっている。自分が彼らの防波堤となり、この脆くて歪な日常を、何があっても守り抜くのだ。
瑞樹は小さく息を吐き、両手でパァンと頬を叩いて気合いを入れると、ベッドから立ち上がった。
「瑞樹くん、おはよー! 今日もいい天気だねっ!」
身支度を整えてリビングに向かうと、すでに制服に着替えた朱音が、太陽のような眩しい笑顔で瑞樹を迎えた。彼女の金髪が、朝の光を受けてキラキラと輝いている。
「おはよう、朱音。朝から元気だな」
「えへへー、だって今日からあたし、彼氏持ちの女子高生なんだから!」
誇らしげに胸を張る朱音。そのどこか浮き足立った様子に、瑞樹は苦笑しながら「はいはい」と頷いた。
いつも通り、サッカー部の朝練がある遊と、友達と待ち合わせをしている一花はすでに家を出ている。瑞樹は朱音と二人で玄関を出て、学校までの通学路を歩き始めた。
「彼氏ができたからって、あんまり無理してはしゃぎすぎるなよ? 疲れるぞ」
「大丈夫だってばー! あたし、普通に恋バナとかしちゃって、普通の女子高生ライフを満喫する予定だから!」
ニコニコと笑いながら歩く朱音の横顔を見つめ、瑞樹も自然と顔を綻ばせる。彼女がこうして外の世界へ一歩踏み出せたことは、保護者としてはこの上なく喜ばしいことだった。
学校まであと少しという交差点に差し掛かった時だった。
「あっ、朱音ちゃん! おはよう!」
前方から、爽やかな声が飛んできた。
声の主は、短めに切り揃えられた髪と、スポーツマンらしい日焼けした肌を持つ、いかにも真面目で誠実そうな男子生徒だった。彼こそが、昨日から朱音と付き合い始めた他クラスの彼氏だ。
「あっ……おはよう! えへへ、偶然だね」
朱音は少しだけ頬を赤らめ、はにかむように挨拶を返した。
しかし、彼氏の視線はすぐに朱音の隣を歩く瑞樹へと向けられた。朝から自分の彼女が、見知らぬ男子生徒と二人きりで親しげに登校しているのだ。当然の反応だろう。
「おはよう。えっと……そちらは?」
彼氏は終始ニコニコと人当たりの良い笑顔を崩さなかったが、その瞳の奥には、ほんのわずかな戸惑いと警戒の色が混じっていた。
「あ、紹介するね! 幼馴染の瑞樹くん! 実はあたしたち、四人で一緒にルームシェ——」
(バカ、ストップ……!)
「——家が近所なんだ!」
無邪気にすべてを暴露しようとした朱音の言葉を、瑞樹は少し大きめの声で強引に上書きした。
「え?」
「幼稚園からの幼馴染でさ、家がすぐ近所なんだよ。だからこうして、毎朝偶然会うと途中から一緒に登校してるんだ。……朱音から話は聞いてるよ。昨日から付き合い始めたんだろ? こいつのこと、よろしくな」
瑞樹は完璧な、人畜無害を絵に描いたような爽やかな笑顔を作って見せた。
ルームシェアという言葉が出かかったことに冷や汗をかきながらも、その動揺を一切表に出さず、自然な相槌で場を繋ぐ。
「あ、そういうことだったんだ! びっくりしたー。うん、よろしくね!」
彼氏は瑞樹の言葉にすっかり納得した様子で、ニコッと人懐っこい笑顔を向けた。
「朱音ちゃん、一緒に行こっか。瑞樹くんも一緒にどう?」
「いや、俺はここで別の友達と待ち合わせしてるから。二人で先に行っててくれ」
「そっか。じゃあ、また学校で!」
彼氏が前を向き、数歩先に歩き出したその一瞬の隙。
瑞樹は横に立つ朱音の腕を軽く引き、その耳元へと顔を寄せた。
「み、瑞樹くん? なんでルームシェアのこと、隠したの……?」
状況が理解できず、パニックになりかけている朱音に、瑞樹は誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「よく考えろ、朱音。高校生の男女四人が、親元を離れて同じ屋根の下で暮らしてるなんて、普通の感覚からしたらどう考えても異常だろ? 変な噂が立つかもしれないし、何より……できたばかりの彼氏に、余計な心配をさせたくないだろ?」
「あっ……!」
瑞樹の言葉にはっとして、朱音の顔からサッと血の気が引いた。
「ごめん……ごめんなさい、あたし、何も考えずに……っ。あたしのせいで、彼氏に引かれて、嫌われちゃったかも……どうしよう、どうしよう……」
途端に、彼女の持ち前の極端なネガティブシンキングが暴走を始める。作り物の笑顔が剥がれ落ち、今にも泣き出しそうな顔で瑞樹の制服の袖を強く握りしめてきた。
「大丈夫だ、バレてない。彼氏も気にしてないさ」
瑞樹は周囲から見えない角度で、朱音の震える背中をポンポンと優しく叩いた。
「俺が上手く誤魔化したから、気にするな。……お前はただ、普通の可愛い彼女として、あいつの隣を歩いてやればいいんだよ。ほら、行ってこい」
「瑞樹くん……」
朱音は、縋るような、そして心の底からの絶対的な信頼を込めた瞳で瑞樹を見上げた。
「……瑞樹くん、そこまであたしのこと、考えてくれてたんだね。……ありがとう。瑞樹くんがいてくれて、本当によかった……っ」
「ほら、彼氏が待ってるぞ」
瑞樹が促すと、朱音は小さく深呼吸をして、再び完璧な「明るくて可愛い女の子」の仮面を被り直した。そして「待ってー!」と弾んだ声を出して、前を歩く彼氏の隣へと駆け寄っていった。
二人の背中を見送る瑞樹は、心の中で深く息を吐き出した。
(やっぱり、俺がついててやらないとダメだな……危なっかしい)
少しのイレギュラーで、朱音の防衛線は簡単に崩れてしまう。
彼女が『普通』の女の子として外の世界で生きていくためには、その異常性を隠し、背後で完璧にフォローに回る瑞樹という「保護者」が絶対に不可欠なのだ。
二人並んで歩く彼氏と朱音の姿は、どう見てもお似合いのカップルだった。
だが、その幸せな光景の裏側を支えているのは自分なのだという事実に、瑞樹は胸の奥で静かな満足感と、重い責任感を同時に噛み締めていた。




