第3話 地雷(3)
昼休み。
あちこちで椅子が引かれる音や、他愛のない笑い声が飛び交う賑やかな教室の喧騒をBGMに、瑞樹は自分の席で弁当箱の包みを解きながら、何気なくスマートフォンを取り出した。
黒い液晶画面をタップすると、軽快な通知音と共にポップアップが一つ、ポンと浮かび上がっている。相手は結衣だ。
『瑞樹くん! ついにあの神アニメの劇場版円盤、ゲットしちゃった! たった今配達済みのメールが来た!』
『おお! ずっと待ってたやつ?』
『それ! 上映終わってからハマっちゃって、悔しかったんだぁ。でもやっと! 手に入った! 瑞樹くんも一緒に観る? 今週末とかどう?』
画面の向こうでぴょんぴょんと飛び跳ねている姿すら想像できそうな元気なメッセージに、瑞樹は自然と頬を緩ませた。
結衣がここまで興奮しているのには理由がある。数年前に大ヒットし、社会現象とまで謳われた恋愛アニメ『青と音』の、真の完結編となる劇場版Blu-rayがついに手に入ったからだ。
結衣に強く勧められて、瑞樹も本編アニメ全二十四話はすでに二周済み。互いの想いが交錯する、最ももどかしいところでテレビシリーズが幕を閉じ、そのまま映画へと続く構成になっていたのだ。
『え、いいの? めっちゃ観たい!』
あの結末を知らずには死ねん! と、瑞樹の指先も興奮冷めやらぬスピードで画面を叩く。
『じゃ、うちでいい?』
しかし、次に滑り込んできたその一文を見て、瑞樹の指が空中でピタリと凍りついた。
いくら趣味が合うオタク友達とはいえ、出会ってからまだ間もない同い年の女子だ。健全な男子高校生として、そこに一切の動揺がないと言えば嘘になる。
瑞樹が「それはちょっとマズくないか?」と返信を迷っていると、画面の向こうの結衣は、そんな瑞樹の躊躇いなどあっさりと見透かしたように追撃をかけてきた。
『私は、瑞樹くんに来てほしいなって思ってるんだけどなー|ω・`)』
画面の端から、ひょっこりと顔を出す可愛らしいアスキーアート。
その直球すぎる、一切の駆け引きを持たない好意の言葉に、瑞樹は思わず片手で熱を持った顔を覆った。本当に、この子には敵わない。
シェアハウスの幼馴染たち――特に、防衛本能で常に肌を寄せてくる一花などの距離感がおかしいせいで忘れがちだが、本来、高校生の男女がプライベートな空間で二人きりになるというのは、それだけで特別な意味を持つものだ。
だが、結衣のこの裏表のない真っ直ぐな言葉を前にして、変に意識して断る方が、かえって不自然で自意識過剰に思えてきた。
『……わかった。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ』
『ラッキースケベは起こらないからご安心を! じゃあ週末、うちの最寄り駅で待ち合わせね!』
トントン拍子に決まった週末の予定。
瑞樹はスマホを学生服のポケットに押し込みながら、胸の奥で小さく、けれど確かに跳ねる心臓の鼓動を、誰にも気づかれないように深い深呼吸で押し殺した。
「あれ、もう食べてる?」
不意に頭上から声が降り注ぐ。
売店から戻ってきた遊が、片手に焼きそばパン、もう片方にミルクティーを抱え、すでに広げられている瑞樹の弁当を見て少しだけ驚いたように目を丸くしていた。
「あ、いや、まだ」
「ん? なんか嬉しそうだね?」
遊の薄い瞳が、瑞樹の口元をスッと射抜く。気付かれるのか。普段他人に無関心な遊だからこそ、瑞樹の僅かな変化には敏感なのだ。
「昼休みがうれしくない学生なんていないだろ」
瑞樹は努めて平静を装いながら適当に返し、朱音が早起きして作ってくれた彩り豊かな弁当に箸をつけた。
甘めの卵焼きを口に運ぶ。
「おいしっ」
優しい手作りの味が口いっぱいに広がり、瑞樹の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
***
週末の昼下がり。
瑞樹はガタゴトと揺れる電車に乗り、結衣が住む隣町の駅へと降り立った。ホームを抜ける風は、少しだけ初夏の匂いがした。
「瑞樹くーん! こっちこっち!」
改札を抜けると、人混みの中からパタパタと小動物のように手を振りながら駆け寄ってくる小柄な人影があった。
「お待たせ、結衣。……って」
瑞樹は、目の前でパッと花が咲くように立ち止まった彼女の姿を見て、不覚にも言葉を失ってしまった。
以前リアルでエンカウントした時は、お互いに学校帰りの見慣れた制服姿だった。しかし、今日の結衣は休日の私服姿だ。
華奢な肩のラインが覗く淡いベージュのオフショルダーのトップスに、歩くたびにふわりと揺れるシルエットの美しいロングスカート。ショートカットの髪はいつもより少しだけ毛先が内巻きにアレンジされており、ほんのりと色づいた艶やかなリップが、普段の快活な彼女とは違う、どこか大人っぽくて女の子らしい雰囲気を色濃く醸し出していた。
「ん? なになに? 私可愛い?」
呆けたように見つめる瑞樹の前で、結衣はその場でくるりと一回転して見せる。スカートの裾が、ひまわりのようにふわりと広がった。
「あ、ああ……すごく、可愛いと思う」
「よろしい! やっぱり瑞樹くんは素直でいいねー!」
瑞樹が照れ隠しに視線を横へ逸らしながら褒めると、結衣は嬉しそうにパァッと顔を輝かせた。
心臓の奥が、目に見えない手でキュッと掴まれるような、甘く息苦しい感覚。これが「普通の男の子」が「普通の女の子」に対して抱く、正当な動揺なのだと瑞樹ははっきりと自覚する。
「家に行く前にさ、ちょっと駅前の本屋寄ってもいい? 今日、うちらが追ってる漫画の新刊の発売日なんだよねー」
「おっ、そうだった。俺も買おうと思ってたんだ」
「じゃあ決まり! デートだデートだあ」
結衣はごく自然な動作で瑞樹の隣に並ぶと、相変わらず肩が触れるか触れないかのギリギリの距離感で歩き始めた。
二人で駅前の大型書店に入り、静かでひんやりとした空調の中、エスカレーターでコミック売り場へと向かう。
「あっ、あったあった! 新刊コーナーだ!」
目的の漫画の平積みを見つけた結衣が、小走りで本棚へと近づく。瑞樹もその後を追い、並んで平台の前に立った。
高く積み上げられたインクの匂いが新しい新刊の山。一番上にある綺麗な一冊を取ろうと、瑞樹がスッと手を伸ばした――その瞬間だった。
「あっ」
「あ……」
同じ本に向かって伸びていた結衣の小さな手と、瑞樹の手が、空中でピタリと重なり合った。
指先と指先が、ほんのわずかに触れ合う。
結衣の肌の驚くほどの柔らかさと、血の巡りを感じさせる微かな温もりが、瑞樹の指先から全身へと電流のように伝わってくる。
「……わっ、ごめん!」
瑞樹が火傷でもしたかのように慌てて手を引っ込めると、結衣も一瞬だけ目を丸くして、それからほんの少しだけ、林檎のように頬を朱に染めた。
「ううん。……瑞樹くんから、取っていいよ」
結衣は少しだけはにかむように微笑み、一歩後ろに引いて瑞樹に場所を譲った。
(なんだこれ……)
瑞樹は、妙に熱を持った指先を隠すようにそそくさと本を手に取りながら、心の中で激しく動揺していた。
たったこれだけのことだ。
ただ偶然、指先が触れ合っただけ。
シェアハウスに帰れば、一花が毎日のようにお風呂上がりに無防備な姿で抱きついてくる。その度に、彼女の柔らかな肌や体温を嫌というほど密着して感じている。それなのに、あの時は一ミリも感じなかった「照れ」や「緊張」が、今、結衣とのほんのわずかな指先の接触だけで、爆発しそうなくらいに瑞樹の胸を支配しているのだ。
一花が瑞樹に触れるのは、自己防衛のための『すがりつき』であり、瑞樹にとって彼女は保護すべき『家族』でしかない。
しかし、結衣との間に流れるこの空気は違う。
これは、互いに好意を持った同年代の男女が醸し出す、ピュアで、甘くて、少しだけ不器用な『青春』そのものに思えた。
「じゃ、じゃあ俺、こっちの山から取るから」
「う、うん。ありがとう」
どこかぎこちない動作でそれぞれ別の山から本を手に取り、無言でレジへと向かう二人。
二人きりの秘密のオタクデート。その始まりに訪れた、まるで計算されたラブコメの王道のようなハプニングに、瑞樹の心臓はすでに本来のペースを完全に見失いつつあった。
「ラブコメか!」
不意に、静寂を破って結衣がそんなことを叫びながら、瑞樹の肩を自身の肩で軽くどついてきた。
「えっ?」
ほんのりと頬を赤らめながらも、結衣は悪戯っぽく笑って続ける。
「本屋で手が触れ合って『あっ……』って、何年前のラブコメだよって感じ!」
「その後なんか気まずくて明らかに口数が減る二人とか、お決まり展開かよ! って?」
「そう! ありきたり過ぎて、逆にこれから私が殺される流れかと思った!」
「鬱アニメだった!?」
「あはは! ヤンデレに殺されたい願望があるのは瑞樹くんだし、殺すのは私だね」
「せめてデレを見せてから殺してください」
「いーでしょう!」
ケタケタと笑い合う声が、夏の始まりの空に溶けていく。
きっと、結衣とお付き合いをしたら毎日がこんな風に楽しいのだろう。好きなものをありのまま語り合い、気の置けないふざけたやり取りを交わし、たまに女の子らしいところを見て不覚にもドキッとする。
でも、それは二次元の世界での話だ。リアルはそうそう綺麗に上手くいくものじゃない。
瑞樹には、あいつらを守る義務があるのだから。
(この気持ちは杞憂だ)
あくまでも古河瑞樹は、オタク友達としての『ころも』を、友達として大好きなだけなのだ。
自分にそう言い聞かせ、瑞樹は強引に心の中の箱に蓋をして結論付けた。
「それじゃあ、行こっか。私のお城へ!」
本屋を出て、結衣がご機嫌な足取りで前を歩く。
その少し背伸びをした可愛い背中と、揺れる淡いスカートの裾を見つめながら、瑞樹は誰にも聞こえないほどの小さなため息を、そっと吐き出した。




