第3話 地雷(4)
駅から数分ほど歩いた先にある、綺麗に管理されたワンルームマンション。
「お邪魔します……」
「はーい、いらっしゃい! 適当に座っててー」
カチャリとドアが閉まり、結衣の部屋に足を踏み入れた瞬間、ふわりと甘いフローラルな香りが瑞樹の鼻腔をくすぐった。玄関に置かれた可愛らしい靴や、目に入るパステルカラーのファブリックが、ここが間違いなく同年代の女の子のプライベート空間であることを主張してくる。
しかし、部屋の中はただ女の子らしく清潔に整頓されているだけではない。壁際の一角には見慣れたライトノベルや漫画が背表紙を揃えてびっしりと並んだ本棚が鎮座し、大切に手入れされたガラスケースの中にはお気に入りのフィギュアが綺麗にライトアップされて飾られている。まさに『オタクの女の子の城』と呼ぶにふさわしい、結衣の個性が詰まった空間だった。
瑞樹が部屋の中央にある小さな二人掛けのローソファーに腰を下ろし、所在なく膝の上で手を握って緊張していると、冷蔵庫から麦茶の入ったグラスを二つ持ってきた結衣が、当然のような顔をして瑞樹のすぐ隣にストンと座った。
「はい、これ」
「お、おう。ありがとう」
瑞樹がグラスを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、不意に結衣の手がピタリと静止した。
「はっ! 瑞樹くん、映画の時ポップコーンいる派?」
「いや、俺は何もいらない派。食べてる場合じゃない」
「わかるー! 私も!」
オタクとしての流儀の一致に、結衣はパァッと顔を輝かせて笑う。
そして瑞樹がグラスを受け取った後、ごく自然な動作で、瑞樹の左腕に結衣の右腕がピタリと触れた。
カフェの時と同じ、逃げ場のないゼロ距離。
広いソファーではないとはいえ、少し体をずらせば隙間は作れるはずだ。しかし結衣は全く離れようとしない。それどころか、最も自然な体勢で瑞樹の肩に自分の体重をふんわりと預けるようにして、テレビのリモコンを手に取った。
「じゃあ、早速! 上映開始!」
ピッ、という電子音と共に部屋の主照明が落とされ、空間は大きなテレビモニターが放つ鮮やかな光だけになった。
画面に『青と音』の美しいオープニング映像が流れ始める。
瑞樹と結衣は、二人とも根っからのオタクである。
どれだけ隣に魅力的な女子が密着していようと、ひとたび神アニメの再生が始まれば、全神経を画面の向こう側の世界に集中させるのが同志としての暗黙のルールであり、絶対の流儀だった。
二人は一言も言葉を交わさず、スクリーンの中で繰り広げられる主人公とヒロインのもどかしいすれ違い、涙が出るほど美しい背景美術、そして感情を激しく揺さぶる劇伴に深く没入していった。
ただ、それでも。
静まり返った薄暗い部屋の中で、左腕から絶え間なく伝わってくる結衣の柔らかな体温と、彼女が呼吸をするたびに微かに上下する肩の動きだけが、ここが二次元ではなく『現実』であることを瑞樹に容赦なく突きつけてくる。
(集中しろ……! ここは泣けるシーンだぞ……!)
瑞樹は必死に画面を睨みつけながら、己の煩悩と戦い続けていた。しかし、作品の持つ圧倒的な引力と、隣で同じように画面に見入る結衣との不思議な一体感によって、一時間もしないうちに瑞樹の意識は完全に画面の中の世界へと落ちていった。
やがて、二時間という濃密な時間が過ぎ去り、映画は最高のハッピーエンドを迎えた。
エンドロールが終わり、静かな余韻と共に画面がゆっくりと暗転する。
「…………」
「…………」
しばらくの間、二人は無言だった。
そして、どちらからともなく、深く重いため息が漏れる。
「……神だった」
「うん……最高すぎた。作画も、演出も、全部」
沈黙を破った結衣の声は、感動で微かに震えていた。
そこからは、堰を切ったようにオタク特有の熱い感想戦がスタートした。
「あのさ、中盤の踏切のシーン! テレビ版の第一話の構図と完全に対比になってて、あそこで主人公が振り返るのがもう……!」
「わかる! あそこの声優さんの演技、鳥肌立ったよね! 息を呑む音だけで感情が全部伝わってくるっていうか!」
「それに最後の告白シーンな。あんな真っ直ぐに想いをぶつけられたら、誰だって泣くだろあれは」
「ねー! もう、ヒロインが尊すぎて胸が痛いよー」
興奮冷めやらぬ様子で語り合う二人。
隣に座る結衣は、身振り手振りを交えながらキラキラとした瞳で映画の素晴らしさを熱弁している。好きなものを心から好きだと語り合えるこの時間は、瑞樹にとっても何物にも代えがたい至福のひとときだった。
やがて、ひとしきり感想を語り尽くし、熱い議論が落ち着くと、部屋にふっと穏やかな静寂が降りた。
テレビのスクリーンセーバーの淡い光だけが、二人の横顔を青白く照らしている。映画のロマンチックな余韻が、甘い空気となって密室に溶け残っていた。
「……瑞樹くん」
不意に、結衣が鈴の鳴るような静かな声で瑞樹の名前を呼んだ。
隣を見ると、彼女はテレビ画面から視線を外し、ソファーの上で身体を瑞樹の方へと向け直していた。
ただでさえ密着していた距離が、さらに縮まる。
ほんの数センチ先。結衣が少し首を傾げ、瑞樹の顔を下からじっと見つめ上げてきた。
「え、なに……?」
瑞樹が息を呑む。
薄暗い部屋の中、結衣の大きな瞳が瑞樹の姿だけを真っ直ぐに映し出している。いつもの悪戯っぽい笑みでも、明るい笑顔でもない。どこか儚げで、けれど強い意志を秘めたような、初めて見る表情だった。
結衣はふふっと柔らかく微笑むと、冗談とも本気ともつかない、甘くて真っ直ぐな声で問いかけてきた。
「ねえ、瑞樹くん。……もし私が、瑞樹くんのこと好きって言ったら、どうする?」
ドクン、と。
瑞樹の心臓が、これまでで一番大きな音を立てて跳ね上がった。
時計の秒針の音すら消え去ったかのような密室で、逃げ場のないゼロ距離。
オタク友達の『ころも』ではなく、一人の女の子としての『結衣』から放たれた決定的な言葉が、瑞樹の思考を完全にショートさせる。
しかし、結衣の行動は言葉だけでは終わらなかった。
「え……っ」
彼女はしなやかな動きでソファーに膝を立てると、そのまま瑞樹の両太ももを跨ぐようにして乗り上げてきたのだ。
柔らかなロングスカートの布地越しに、結衣の太ももの熱が瑞樹の脚に直接伝わる。瑞樹が反射的に背もたれに寄りかかると、結衣は瑞樹の胸元に両手をつき、半ば押し倒すような格好で上から覗き込んできた。
結衣のシャンプーの甘い香りが、瑞樹の視界と嗅覚を完全に支配する。
テレビ画面の淡い光を背に受けた結衣は、妖艶な影を落としながら、挑発するように、そして確かめるように艶やかな唇を動かした。
「ねぇ。……どうする?」




