第3話 地雷(5)
瑞樹の額から、ツーッと冷たい汗が一筋流れ落ちた。
時計の針の音すら消え失せたかのような完全な沈黙の中、結衣から漏れる少し早い小さな吐息と、早鐘を打つ自分の胸の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で鳴り響いている。
結衣は頬をほんのりと赤く染め、上目遣いのままじっとりと瑞樹を見下ろしていた。
暗い部屋の中、テレビのスクリーンセーバーの仄かな青白い灯りが結衣の顔を淡く照らし出し、普段の明るい彼女からは想像もつかないほど艶めかしく、大人びた表情を浮かび上がらせている。
(なんだ、これ……どういう状況だ……!?)
頭の中が白く塗りつぶされ、軽くパニックになりかけていた、まさにその時だった。
「――ぶーっ」
不意に、結衣がぷくっと頬を大きく膨らませ、不満そうにジト目を向けてきた。
「ちょっと瑞樹くん、ノリが悪いなぁ。せっかく、劇中でも最高のラブシーンを再現してるのに。ここでノッてくれないと、私ただの淫乱女じゃん」
「……再現?」
その言葉に、瑞樹のショートしていた思考がカチリと音を立てて繋がった。
――そうだった。確かに、たった今まで観ていたアニメ映画のクライマックスで、ヒロインが主人公に迫る名物のラブシーンがあった。
結衣のこのポーズとセリフは、そのシーンの完璧な『再現』だったのだ。
思い返せば、結衣は本屋での出来事でもそうだったように、アニメや漫画の印象的なシーンを現実のシチュエーションに当てはめて、それをからかうように楽しむ癖があった。
(……なんだ、やっぱり杞憂だったのか)
そんなわけ、ない。
結衣はオタク友達の『ころも』であり、これはただの悪ふざけの延長戦なのだ。
瑞樹は大きく安堵の息を吐き出すと、ソファーの背もたれからゆっくりと上体を起こした。
自然と、上に跨っている結衣と正面から抱き合うような体勢になり、結衣が「おっ?」と身構える。
「結衣。……そのままノッたら、俺はこのまま結衣にキスしないといけないんだが?」
「ぐおっ!」
瑞樹が意地悪く口角を上げて言うと、結衣は劇中のヒロインと同じように、あからさまにたじろいだ。
そう。劇中でのこのラブシーンは、攻めていたはずのヒロインが逆に主人公に主導権を握られ、突然キスを奪われるという甘いオチだったのだ。
「そ、そこはほら……寸止めっていうか、するフリ……とかでいいから、男らしくやってほしかったなー、なんて。へへ……」
結衣が視線を泳がせながら、誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。
「結衣……」
「ひゃっ!?」
瑞樹は、結衣の腰に手を回すと、そのまま彼女の身体をソファーへと押し倒した。
天地が逆転し、今度は瑞樹が上になる。結衣の脚の間に入り込む形になり、瑞樹は結衣の細くて白い両手首を掴むと、ソファーに押し付けて完全に男の力でロックした。
「ちょっ、ちょっと瑞樹くん!?」
結衣の表情から、先ほどまでの余裕や照れ隠しのような雰囲気が完全に消え去り、突然の出来事に対する本気の戸惑いが現れた。
「あ、あはー……動けなーい……」
どうにか冗談の空気を維持しようと、結衣が引き攣った笑顔を作る。
「なあ、結衣?」
「んー? な、なにかなー」
瑞樹は逃げ場を失った結衣の顔を上から覗き込み、極めて真剣な眼差しを向けた。
「俺も男だぞ。こんな可愛い女の子に上に乗られたら、さすがにちょっと、ムラつく」
「……っ!」
「それに、そんなに困るなら、最初からするなよ。こんなこと」
瑞樹が静かに指摘すると、結衣は口をパクパクとさせた後、顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「べ、別に……困っては……」
「どうしようって、顔にハッキリ書いてあるぞ」
「うぐぐ……」
完全に図星を突かれたのか、結衣は気まずそうにプイッと視線を横へ逸らした。
その無防備で等身大な反応が、どうしようもなく可愛らしく思えた。瑞樹は掴んでいた結衣の手首から力を抜き、体を起こそうとした。
しかし、その油断から、瑞樹の口から不用意な言葉が零れ落ちてしまった。
「結衣って、本当にパーソナルスペースが狭すぎるんだよ。……他の男にも、同じようなことしてるのか?」
――その瞬間。
結衣の身体が、ビクンと不自然に強張ったのがわかった。
「……え?」
空気が、凍りついた。
さっきまでの甘くてふざけたラブコメの空気が、嘘のように一瞬で霧散する。
ソファーに押し倒されたままの結衣は、ゆっくりと瑞樹の方へと顔を向けた。その瞳からは、先ほどまでのキラキラとした光も、戸惑いの色も、すべてがすっぽりと抜け落ちていた。
そして、酷く低く、一切の感情が消え失せたような冷たい声色で、彼女は呟いた。
「……もう、帰って」
「は?」
瑞樹は自分が何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「結衣、今……」
「いいから、帰って」
拒絶だった。
明確で、絶対的な、分厚い壁。
シェアハウスの幼馴染たちが見せるパニックやヒステリーとは違う、静かで、だからこそ取り付く島もない完全なシャットアウトだった。
「……わかった。ごめん」
瑞樹は慌てて結衣から離れ、ソファーから立ち上がった。
自分が、決定的な「地雷」を踏み抜いてしまったことだけは理解できた。だが、なぜその言葉がそこまで彼女を傷つけ、あるいは怒らせたのか、瑞樹には見当もつかなかった。
瑞樹にとって、結衣は『普通の女の子』だった。だからこそ、何の気なしに、普通の男女が交わすような少し意地悪なからかいの言葉を投げかけてしまったのだ。
急いでカバンを手に取り、帰り支度を済ませる。
最後に部屋の中心を振り返ると、結衣はソファーの上に膝を抱えて座り、そこに顔を深く埋めていた。
華奢な肩が、微かに震えているようにも見えた。
(なんて言ったら、いいんだ……)
謝るべきか、理由を聞くべきか。
アニメや漫画のラブコメなら、ここで主人公が気の利いた言葉を投げかけたり、無理やりにでも抱きしめたりして仲直りするシチュエーションだ。
しかし、リアルな現実を前にして、瑞樹の頭にはどんな言葉も思い浮かばなかった。不用意に言葉を重ねれば、彼女をさらに傷つけてしまう気がした。
瑞樹はもう一度、小さくなった結衣の背中を静かに見つめると、「……お邪魔しました」とだけ残し、逃げるようにその部屋をあとにした。
玄関のドアが閉まる、無機質な金属音だけが、マンションの廊下に虚しく響き渡った。




