第3話 地雷(6)
「なんでゆーくんは、そうやって否定ばっかりするの!?」
「僕は、城ヶ崎を心配して言ってるだけだよ」
逃げるように結衣のマンションを後にして、シェアハウスの玄関ドアを開けた瑞樹の耳に、いきなり張り詰めた怒声が飛び込んできた。
瑞樹は慌てて靴を脱ぎ捨て、静かにリビングのドアを開ける。
そこでは、今まさに飛びかからんばかりの勢いで一花が遊へ詰め寄っていた。そして二人の間、ダイニングテーブルの隅で、朱音が両膝を抱えるようにして小さく身を縮めている。
「心配心配って、そうやって朱音ちゃんを縛り付けるのは違うと思う! 朱音ちゃんにも人生があるし、その道を決めるのは朱音ちゃん自身だよ!」
「わかってるよ……。わかってるけど、それでも心配だってことを僕は言ってるんだよ」
「そういう言葉を掛けられたら、朱音ちゃんがせっかく新しい道を選択しようとしたのに、また悩んじゃうじゃん! 結果的に朱音ちゃんの選択肢を狭めてるって、なんでわからないの!?」
一花の鋭い言葉に、遊の瞳の色がスッと暗く沈んだ。
それまで感情を剥き出しにして言い返していた遊から、突然、周囲の温度を下げるような冷たいオーラが放たれる。
「……井上は経験したことないから、そんなことが言えるんだよ。信頼してる人から裏切られることが、どんだけ辛くて恐ろしいか……君にはわからない」
「はっはぁ!? 何よそれ! 自分だけ何もかもわかったような口ぶりで! ゆーくんに私の何がわかるの!? ……ゆーくんなんて……ゆーくんなんてっ、だいっ——」
「——はい、ストップ」
瑞樹が二人の間に物理的に割り込み、両手を広げて喧嘩を制止した。
「みーくん……?」
「古河……」
二人はキョトンとした表情になり、さっきまでの威勢を突如として消し去る。
瑞樹は少しだけ厳しい、真剣な眼差しで二人を往復した。
「一花。今言おうとした言葉、絶対に口にしたらダメだよ。その言葉の重みを、一花がわからないわけないよね?」
「……はい」
『大嫌い』
その言葉が、彼らにとってどれほどの凶器になるか。瑞樹に諭され、一花はハッとして口を噤んだ。
「遊。お前の苦しみは、ここにいる全員が理解してる。だからこそ、自分の傷を武器にして喧嘩するのは良くない」
「……そう、だな。ごめん、井上。僕が言い過ぎた」
「私こそ……ごめんね、ゆーくん……」
先ほどまでの剣幕が嘘のように、二人はシュンと肩を落として素直に謝罪した。瑞樹という絶対的な存在が介入することで、彼らの感情はすぐに平定されるのだ。
「それで、喧嘩の原因はなんだ?」
瑞樹は二人をソファに並んで座らせると、テーブルの隅で縮こまったままの朱音に歩み寄った。
「み、瑞樹くん……ちょっと不安だから、た、助けて……」
身体を小刻みに震わせ、引き攣った表情で助けを求める朱音。
察した瑞樹が彼女の隣に腰を掛けると、朱音はすかさず瑞樹の左腕に自分の両腕を絡めて強く抱きつき、事の顛末をポツリポツリと説明し始めた。
「あたし……彼氏から、明日家に来ないかって誘われて。一緒に映画、観ないかって。……なんかすごく良いなって、普通の本物のカップルみたいだなって思って、あたし……オッケーしたの」
「なるほどな」
それを一花と遊に報告したところ、二人の意見が割れて喧嘩になってしまったらしい。
朱音を外の世界へ送り出したい一花と、外の世界の悪意から朱音を守りたい遊。
どちらの主張も、根底にあるのは「朱音を思ってのこと」だ。それは朱音自身も理解しているはずだった。
だが、自分の行動のせいで、家族同然の大切な幼馴染たちが喧嘩になってしまったという状況は、他者の顔色を極端に窺う朱音の精神にとっては耐え難いストレスだったのだ。
むしろ、よく発狂して過呼吸を起こさずにここまで耐えたと褒めてやりたいくらいだ。
瑞樹は優しく朱音の頭を撫でてやり、その華奢な肩を強く抱き寄せて安心させた。
「大丈夫だ。誰も仲悪くなんかならないし、朱音のせいでもない。安心しろ、俺がいるからな」
「……うんっ」
瑞樹の体温と絶対的な言葉をもらい、朱音の震えがゆっくりと収まっていく。
瑞樹は落ち着いた朱音からそっと離れると、ソファで肩を落としている一花と遊の前にしゃがみ込んだ。
「一花。一花は俺のこと、好きか?」
「えっ……? うん、大好きだよ」
唐突な質問に驚きながらも、一花はぶんぶんと勢いよく頭を縦に振る。
「俺も大好きだ」
瑞樹は優しく笑いかけ、さらに問いを続ける。
「朱音が、付き合いたての彼氏の家に行く。密室で二人きりだ。……もしその彼氏が悪いことを考える奴で、朱音を無理やり傷付けるようなことがあったら、一花はどうする?」
「そんなの……」
一花は一瞬の迷いもない、真っ直ぐで暗い瞳で、即答した。
「その彼氏を、殺しちゃうかもしれない」
「うん。そうだよな」
それが倫理的に狂っているとわかっていても、瑞樹は決して否定せず、ポンっと一花の頭を撫でた。
「遊が言ってるのは、そういうことだ。まだ付き合い始めて間もない彼氏のことなんて、お互いに知らないことだらけだろ? そんな相手の家で二人っきりになって、もし朱音の身に何かあったら、俺も一花も、そして遊だって悲しいんだ。遊はもう『付き合うな』とは言ってないし、家に行くこと自体を否定してるわけじゃない。関係性がまだ浅いのに、密室で二人きりになるのはまずいんじゃないかって、そう言いたかったんだよ」
「うん……確かに、まずい気がしてきた」
「だろ? 大好きな幼馴染だからこそ、心配なんだよ」
瑞樹は遊の方を向き、コクリと頷いてみせた。
今回の件に関しては、外の世界の危険性を知っている遊の感覚が圧倒的に正しい。
瑞樹はその場で立ち上がり、今度は朱音の方を振り返って告げた。
「朱音。絶対にダメだとは言わないが、俺もまだ、彼氏の家で二人きりになるのはやめた方がいいと思うぞ」
「瑞樹くんがそう言うなら……わかった」
朱音はコクっと素直に頷いた。あまりにも物分かりが良すぎる。
「ゲーセンとか、カフェとか、まずは外でのデートから始めたら良いと思う。そうしてもっと仲良くなって、相手のことを深く知って……それでも二人きりになりたいって朱音が心から思えたら、その時に初めておうちでデートをしなよ」
朱音は、自分が「普通の女の子」であると証明するために、彼氏を好きになろうと努力を急ぎ過ぎている。
他人から認められたい、愛されたいという防衛本能が働き過ぎているのだ。
少し出過ぎた真似をしたかと思いつつも、瑞樹は朱音の心と身体を守るために、あえて心を鬼にして諭した。
「よし! 話はここまで! 朱音は彼氏に明日の予定変更の連絡。一花と遊はリビングと風呂の掃除。俺は夕飯の用意だ。ほら散った散った!」
「「「はーい!」」」
瑞樹がパンパンと手を叩いて指示を出すと、三人は元気良くそれぞれの役割へと動き出した。
一花と遊は何事もなかったかのように、笑顔で掃除用具の準備を始めている。朱音は真剣な目つきでスマホの画面を睨みながら、自室へと戻っていった。
その平和を取り戻した光景を眺めながら、瑞樹は一人、キッチンへと向かう。
エプロンを身につけ、冷蔵庫を開けようとした瞬間。
瑞樹の胸の奥底に、チクッとした、よくわからない罪悪感のようなものが芽生えた。
(……俺は、何様なんだろうな)
ついさっき、朱音に「関係性が浅いのに、相手の家で二人きりになるな」と偉そうに説教をしたばかりだ。
それなのに、自分はどうだ。
今日、会って間もない結衣の家に、のこのこと上がり込んだのだ。
いや、会って間もないとはいえ、ネット上では半年以上、ほぼ毎日やり取りをしてきた仲だ。結衣がどんな性格で、どんなものの考え方をするのか、ある程度はわかっているつもりだった。
「だから行ったのだ」と、自分への言い訳を頭の中で組み立てようとする。
「いや……」
瑞樹は、包丁を握る手を止めた。
全然、わかっていなかった。
もし本当に彼女のことを理解していたのなら、あんな言葉は絶対にかけなかったはずだ。
『他の男にも同じようなことしてるのか?』
あの瞬間、結衣の瞳から光が消え、完全に心を閉ざされてしまったあの冷たい声。
自分は今日、結衣という一人の女の子を、無神経な言葉で深く傷付けてしまったかもしれないのだから。
水が流れるシンクの前で、瑞樹は自分の未熟さに、ただ深くため息をつくことしかできなかった。




