第4話 離合
結論から言うと、あの日から結衣との連絡は、すでに一ヶ月が経過するほど途絶えていた。
こちらからチャットを送る勇気はなく、当然、結衣からメッセージが届くこともない。
それどころか、チャットアプリ上の結衣のステータスが『オンライン』になることすら一度もなかった。最終ログイン履歴は、あの日――彼女の部屋から逃げ帰った日の夜のまま、無情にも止まっている。
それでも、瑞樹は変わらずアニメを観て、漫画を読み、ゲームをプレイする日々をやり過ごしていた。
結衣の存在が心のどこかに重く居座っているからか、無意識のうちに、結衣が好んで観ていたようなラブコメや青春系の作品ばかりに手をつけてしまう。
面白かった。
感動して、思わず涙が溢れるような名作もあった。
しかし、画面の中で笑い、泣き、恋をするどんなヒロインを見ても、瑞樹はそのすべてに結衣の面影を重ねてしまっていた。
それはきっと、今もなお激しく後悔しているからなのだろう。
一言でいい、謝りたかった。
自分の無神経さを謝って、許してもらいたかった。また前みたいに、他愛のないことでふざけ合い、楽しくおしゃべりをしたかった。
(……俺が後悔してること、わかってくれないかな)
そんな都合のいい願いを抱いてしまう自分に、瑞樹は自嘲する。
結衣は言っていた。『言わなくても察してなんてご都合主義、傲慢だよ』と。
だけどこれほどまでに自分の気持ちを「察してほしい」と身勝手に願ったことは、瑞樹の人生でただの一度もなかった。
今日は、瑞樹たちが通う高校の創立記念日だった。
運良く金曜日が休みとなったため、土日と合わせての三連休。しかし、シェアハウスの住人たちはそれぞれの「普通の高校生活」を忙しく謳歌していた。
遊はサッカー部の大会が近いらしく、昨日の夜から泊まり込みで合宿へと向かっている。帰ってくるのは日曜日の昼前頃だという。
朱音は彼氏との仲も順調に深まっており、あの一件以来おうちデートこそ控えているものの、この三連休は毎日外で会う約束をしているらしい。今日も朝早くから、嬉しそうにメイクをして家を出ていった。
一花は一花で、高校の友達と「お泊まりツアー」なるものを企画し、二泊三日で数人の友達の家を回りながら遊ぶのだという。
三者三様、かつての孤立が嘘のように、彼らは着実に自分の居場所を広げていた。
「みーくんは、今日予定ないの?」
おめかしをして、連泊用の大きなバッグを肩に担いだ一花が、ダイニングテーブルでゆっくりとコーヒーを飲んでいる瑞樹に声を掛けた。
「特にないかな。参考書を探しに、駅前の本屋に行くくらいだ」
「好きだねー、参考書。あれって本当に参考になるの?」
「なる時とならない時がある」
「参考にならない書に当たらないことを願うよ。……じゃあね、みーくん。いってきます。あっ」
一花はよいしょ、と荷物を床に下ろすと、すたすたと瑞樹のそばへ近寄り、その細い腕でギュッと瑞樹の腰に抱きついてきた。
「今日も大好きだよ、みーくん」
「俺もだよ、一花。いってらっしゃい。気をつけてな」
瑞樹がぽんぽんと頭を撫でてやると、一花は心底満足そうにふにゃっと笑い、再び荷物を持ち上げて「バイバーイ!」と元気よく出掛けていった。
傍から見れば、カップルの仲睦まじいハグにしか見えないだろう。しかし、そこには一切の恋愛感情は介在していない。
どういうわけか、あの朱音の彼氏を巡る喧嘩事件の直後から、精神が不安定なわけでもないのに、一花はああやって日常的にスキンシップを図ってくるようになった。
まるで、唯一のオタク友達を失って落ち込んでいる瑞樹に対し、「心中お察しします」「私たちがいるからね」と励ましてくれているような行動だった。その真っ直ぐな家族愛に、瑞樹は少なからず救われている部分があった。
だがその反面、女の子からのそんな甘いスキンシップを受けるたびに、密室で押し倒されたあの日の結衣の体温と香りを鮮明に思い出してしまうという事実も、また否めなかった。
「……さてと」
コーヒーを飲み干し、瑞樹は立ち上がった。
今日、瑞樹には一つの目的があった。地元の中古ショップへ行くことだ。
今日は瑞樹の高校が創立記念日で休みだが、隣町に住む結衣の高校は、おそらく普通に授業がある平日のはずだ。
つまり、あのオタクショップに行っても、ばったり結衣と出くわすという気まずい事故が絶対に起きない。
瑞樹は、オタクたちが集まるあの独特の空間の空気をずっと求めていた。しかし、放課後や土日に行けば彼女と鉢合わせるかもしれないという恐れから、この一ヶ月間、一度も店に足を運べていなかったのだ。
瑞樹は、結衣と会うのが怖かった。
***
初夏の眩しい太陽の日差しを浴びながら、瑞樹は駅前の通りを中古ショップへと向かって歩いていた。
平日の午前中。行き交う人々は、買い出しに向かう子連れの母親や、外回り中らしきスーツ姿の会社員がほとんどだ。たまにすれ違う若者は、みな私服姿であり、おそらく自分と同じ高校の生徒だろうと想像がつく。
世間の長閑な喧騒をBGMにしながら、瑞樹はようやく目的のショップの前に到着した。
(……ここなんだよな)
自動ドアの前に立ち、瑞樹は足を止めた。
今でも鮮明に思い出す。この入り口で、初めてお互いを「現実の存在」として認識したあの日を。
万引きと間違えられそうになりながらも、瑞樹の腕の中に無邪気に飛び込んできた、あの太陽のような結衣の笑顔を。
ネットのオタク友達とあんな劇的な出会いを果たすなんて、一生で一度の奇跡だったかもしれないのに。自分はそれを、たった一言で壊してしまった。
「ああ……引きずってるのか、俺」
自嘲気味にそうこぼし、重い足取りで店内へ入ろうとした、その時だった。
「きゃっ……!」
ドンッ!
ショップのすぐ横にある狭い角路地から、ものすごいスピードで一人の女の子が飛び出してきて、危うく瑞樹にぶつかりそうになった。
「っと、危な……結衣……? え、結衣!?」
「瑞樹くん!? ちょうどよかった、助けて!」
「は!?」
見間違えるはずもない。
平日の午前中だというのに、私服姿の結衣がそこにいた。彼女は瑞樹の顔を見るなり、迷うことなくぴょんと瑞樹の背中側へと回り込み、その制服の裾を両手で強く握りしめて隠れた。
なんだ!? なんで結衣がここにいる!?
しかも、一ヶ月間も音信不通だったのに、まるで昨日まで普通に遊んでいたかのように話しかけてくる。今までの一ヶ月間の断絶が、すべて夢だったかのように。
混乱する瑞樹の視界に、結衣が飛び出してきた角路地から、ゆっくりと姿を現す一つの影が映った。
いかにも柄の悪そうな、着崩した制服姿の男。
それは瑞樹と同じ高校の制服であり、胸元のネクタイの色から、相手が上級生であることが瞬時にわかった。
その男は、瑞樹の背中に隠れて震える結衣を視認すると、ニタニタとひどく下品で気持ちの悪い笑みを浮かべて近づいて来た。
「おいおい、邪魔すんなよ。……そのビッチ、俺が先に食いたいんだけど」
「……え?」
「そいつだよ、そいつ。お前の後ろに隠れてるその子。ここらじゃ『誰にでもやらせてくれる』って有名なんだぜ? 偶然見つけてラッキーだったわ」
何を言ってる?
結衣が?
やらせる?
瑞樹の脳の処理が、男の吐き出す言葉の異常性に追いつかない。
「なんだ、知らねーの? ここらじゃみんな知ってるぜ? ほら」
男はポケットから自分のスマートフォンを取り出すと、画面を瑞樹の目の前に突きつけてきた。
そこに表示されていたのは、個人が立ち上げたと思われる何やら怪しげな掲示板サイトだった。
瑞樹は目を疑った。
そこには、結衣の全身を隠し撮りしたような写真と共に、彼女の住んでいるおおよその地域や最寄り駅が記載されていた。顔こそスタンプで隠されているものの、背丈や服装の雰囲気から、知っている人間が見れば特定は不可能ではない悪質な代物だ。
そして何より不穏で、吐き気を催すのは、その写真に添えられた説明文だった。
『出会い厨のビッチ』
『押し倒せば無料でいける』
『チョロい』
「……なんだよ、これ。誰だよ、こんなの作ったやつ」
「あ?」
瑞樹の中で、黒く冷たい『怒り』がふつふつと湧き上がってきた。
いつもなら、シェアハウスの幼馴染たちを守るために冷静沈着に立ち回る瑞樹。しかし、今回ばかりは違った。湧き上がった怒りの感情は、数秒も経たないうちに臨界点を突破していた。
ここが人通りのある街中だとか。
相手が同じ高校の先輩だとか。
そんな理屈や体裁は、瑞樹にとってはどうでもいい些事に思えた。
ただ、背中で震えながら瑞樹の服を強く握りしめている結衣。
いつも太陽のように笑っていた彼女が、こんな悪意に晒されて、今まさに恐怖と悲しみに耐えている。その事実を想像するだけで、瑞樹が声を荒らげる理由には十分すぎた。
「誰だっつってんだよ!!」
瑞樹の怒声が、初夏の青空の下、街の喧騒を切り裂いて響き渡った。




