第4話 離合(2)
「なんだ、正義のヒーロー気取りか? うちらの界隈じゃ当たり前のことだぜ? これも、これも、これも! みんなヤれる女」
男が薄笑いを浮かべながらスマホの画面をスワイプさせると、次々と若い女性の隠し撮り写真が表示される。その中には、瑞樹たちの学校で見かけたことのある見知った女の子の姿すら混じっていた。
「この子は……結衣はそんな子じゃない!」
「瑞樹くん……」
背中に隠れる結衣が、震える両手でぎゅっと瑞樹の制服の袖を掴む。
「そんな子じゃないと言われてもなぁ? 火のないところになんとやら、だろ?」
「お前に……」
「ああ?」
「お前に、結衣の何がわかるっていうんだよ!!」
瑞樹の喉から、怒りに任せた咆哮が爆発した。
「好きを、好きのまま全力で楽しむ、ただの明るい女の子だぞ結衣は! いいか! 結衣は二次元の世界の誰かが創作した物語に、泣いて、笑って、心を躍らせるんだよ! こんなことあるわけないよなって展開に、心底トキメクんだよ!」
結衣と過ごした時間。語り合った熱。あの真っ直ぐな瞳。
それらを泥靴で踏みにじる男の存在が、許せなかった。
「確かに、ちょっと距離感がおかしいところはあるよ! 俺もそれは実感してる! だけど、だけどな! お前らが考えてるような、浅はかで軽い子じゃねえ!!」
瑞樹の怒号に、行き交う人々が何事かと足を止めて遠巻きに視線を向けてくる。ただ、誰も止めに入る様子はない。安全圏から眺めるだけの、醜悪な野次馬だ。
結衣の手に、さらに強い力が入るのがわかった。
「……わかった。わかったわかった。お前の考えは理解したよ」
男は鬱陶しそうにため息をつき、わざとらしく降参したように両手を上げた。
「でもそれはよぉ、お前が見てる『一面』だろ?」
ドクン、と。
瑞樹の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた気がした。
「なにを……」
「いやいや、いいんだよ。お前がその子のことをどう思ってようが、俺には関係ねぇ。お前のその言葉の通りでもあるんだろうよ。でもよぉ、ちょっと盲目的じゃねーか?」
「盲目?」
「そうだよ。お前はその子のこと、『それしか』知らないんじゃねーの?」
息が、荒くなる。
「その素敵な趣味の時間以外、普段はどんなことして過ごしてるとか知ってんの? 学校での交友関係は? そもそもそいつ、自分の学校の一部のやつからなんて呼ばれてるか、教えてやろーか?」
男はニタリと下品に口角を歪め、吐き捨てるように言った。
「――ヤリマン」
その四文字が、瑞樹の鼓膜を殴りつけた。
「だから、こうしてサイトにも載っちゃうんだよ。真偽は知らね。そういう風に呼ばれてるなら、声掛けるだけタダってこと。やらせてくれねーならいいや。じゃ、俺は行くから」
「……待てよ」
「ああ?」
男が面倒くさそうに振り返る。
結衣が焦ったように瑞樹の腕を引き、「もういいよ、瑞樹くん」と小さな声で引き留めようとする。
よくない。
結衣がなんと言おうと、この男が結衣の存在を泥水で濯ぐように軽く扱った事実は、絶対に消えない。
「んだよ、面倒くせーな。お前はそいつの彼氏かなんかか?」
彼氏ではない。
結衣の彼氏じゃ、ない。
「結衣は、俺の……」
でも。
「――大好きな、友達だ!」
「瑞樹くん……」
「うっぜー。ヤリマンに、頭の中お花畑の馬鹿。お似合いだなおめーら」
男は心底見下したように鼻で笑い、再び背を向けた。
――その瞬間。
瑞樹の中で、何かの『タガ』が完全に外れ落ちた。
「……」
瑞樹は、袖を握りしめている結衣の手を、驚くほど優しく解いた。
そして、無音の足取りで、ゆっくりと男の背後へと近づく。
「おい、聞いてんのか……?」
「ひっ……!」
振り返りかけた男が、息を呑んで硬直した。
瑞樹の瞳から、一切の『光』が消え失せていた。
白目の部分すら濁って見えるほどの、深淵の闇のように泥濘んだ黒目。怒りも、悲しみも、感情のすべてが綺麗に削ぎ落とされ、そこにあるのは、目の前の有機体をどう解体すれば最も効率的に破壊できるかという、純粋な『殺意』だけだった。
普段、シェアハウスで遊の虚無や朱音のヒステリー、一花の異常な依存という狂気を受け止め続けている瑞樹の精神の奥底には、彼自身も気づいていない「底知れぬ狂気の澱」が溜まっていたのだ。
瑞樹は男の顔のすぐ横に顔を寄せ、男だけにしか聞こえないように、地を這うような低いトーンで囁き始めた。
「そろそろ限界なんだわ頼むよ謝ってくれよ」
「は、はぁ……?」
焦ったように後ずさりする男を、瑞樹はじわりと、まるで獲物を追い詰める爬虫類のような滑らかな動きで追いかける。
「誤解してました俺が悪かったって今すぐ結衣に謝れよ頼むよ」
「おまっ、お前……なんだよ……」
瑞樹は、口の端だけを不自然に吊り上げ、奇妙に歪んだ笑みをこぼした。
目は全く笑っていない。焦点の合わない淀んだ瞳が、男の頸動脈の脈打ちだけをじっと観察している。
「殺意を隠すのだけでも疲れるんだよ頼むよそれともなんだ。お前をここで殺していいのか? このアスファルトに脳髄をぶちまけて、そのへらへら動く舌を引っこ抜いてやろうか。頼むよ、選んでくれよ」
「い、いやっ……」
男の顔からサッと血の気が引き、歯の根が合わずにガチガチと鳴り始めた。
瑞樹から放たれるのは、不良の喧嘩のハッタリではない。一歩間違えれば本当にここで肉体を破壊されるという、本能的な死の恐怖だった。
「じゃあ結衣に謝れよ。誤情報だったって仲間内に広めろよ。できるよな? わかるよな? ――やれよ」
静かで、おぞましい呪詛のような命令。
男は腰を抜かしかけながら、泣きそうな顔で何度も何度も首を縦に振った。
「ごっ、ごめん! 俺の勘違いでした! すみませんでしたぁぁっ!」
男は大袈裟に頭を下げると、何度か足をもつれさせながら、振り返ることもなく蜘蛛の子を散らすように足早に逃げていった。
男の姿が見えなくなった後、数秒間の静寂が落ちる。
スッと、瑞樹の瞳にハイライトが戻り、顔に張り付いていた狂気の筋肉が解けていく。
元の「普通の男子高校生」の正気へと戻ったのだ。
「……ふう」
ゆっくりと瑞樹が振り返る。
泣いているかもしれない。震えているかもしれない。
そう思って振り返った瑞樹の視線の先には――まるで自慢のヒーローを称えるかのように、満面の笑顔で誇らしげに立っている、結衣の姿があった。




