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第14話 怒哀(5)

 そんなの、勝手に言わせておけばいいという意見もわかる。


 どうせ高校生活の数年間の付き合いで、卒業した後も一生関係が続くわけじゃない。だから気にしないで放っておけばいい、という大人の意見も頭では理解できる。


 だけど。


 わかるけど。


 どうしても、許せなかった。


 そうやって遠くの安全圏から一方的に陰口を叩いて、自分が人を不当に傷つけている事実を知らないふりして。『非があるあいつが悪いから仕方ないんだ』と仮初の正義の盾を振りかざして、集団で石を投げる。


 そんな薄汚い連中を、瑞樹が許せるわけがなかった。


「瑞樹くん、いいってば」


 立ち上がった瑞樹の腕を、結衣が慌てて両手で掴んだ。


「ほら、クレープまだあるから。座って、一緒に食べよ?」


 無理に作った笑顔で引き止めようとする結衣を背に、瑞樹は陰口を叩く男女の集団を冷たい目で睨みつける。


 彼らは、彼女らは、どうせ結衣が反論してこないと高を括っている。まるで自分たちがヒエラルキーの頂点の王様にでもなったように、勝手に人の人格を決めつけ、結衣を貶めている。目立つ結衣を不当に下げることで、さも自分が優れた上の立場にいるかのように錯覚して、優越感に浸っているのだ。ひどく滑稽で、愚かしい生態だった。


「……いつものことだから。いいよ、瑞樹くん」


「いつものこと……?」


「うん。もうこういうの、慣れてるから。私は全然平気だから、いいの」


 その結衣の諦観したような言葉が、瑞樹の胸の奥に火を点けた。


 こんな理不尽な状況が、結衣の中では日常になっていて、当たり前の環境になってしまっている。


 事実と全く異なる汚い妄想を遠くから言われ続け、それを否定することすら許されない。


 結衣に落ち度がないかと言われれば、確かに全く無いとは言い切れない。彼女は極端にパーソナルスペースが狭い性質があり、気を許した相手でなくとも、無意識に距離が近くなってしまうのだ。相手が女の子ならまだしも、男の子の場合はそれだけで不要な勘違いを生む可能性がある。そして、近くなった男の子に好意を寄せている別の女の子がいたら、そんな様子を見れば面白くないだろう。


 その感情はわかる。


 その嫉妬心までは、理解できる。


 だけど、だからって結衣を一方的に悪者に仕立て上げ、事実とは捻じ曲がったことをさも真実のように吹聴して集団でリンチするのは、絶対に違う。


 こんなの、結衣があまりにも可哀想だ。


 以前から話は聞いていた。自分の性質を理解している結衣は、周りからどう見られているのかも正しく理解していた。それを『仕方ない』と彼女は自嘲気味に笑っていたけど、辛くないわけがない。平気なわけがないのだ。


 絶対に、許せない。


「こんな異常なことに、慣れんじゃねーよ。……当たり前じゃねーよ」


「瑞樹くん……」


 瑞樹は制止する結衣の細い手を優しく、しかし力強く振りほどき、陰口を叩いて下品に笑う男子集団の方へと、一切の躊躇なく詰め寄った。


「うわ、来たっ」


「なんだよアイツ」


 コソコソと焦り始める男子たちを、瑞樹は氷のように冷たい視線で睨みつける。


「お前らのその心無い言葉が、結衣をどれだけ傷つけてるか、少しでも考えたことはあるのか?」


「……はっ?」


「事実でもねー妄想をペラペラと大声で喋って、恥ずかしくないのかって聞いてんだよ」


 瑞樹の静かな、しかし確かな怒りを孕んだ声に、集団の中のリーダー格らしい男が、イラついたように瑞樹の前に進み出た。


 瑞樹よりも背が高く、ガタイも良い。スクールカーストの上位でふんぞり返っている者特有の、傲慢な顔つきだった。


「あぁ? 現に噂になってんだよ。男にベタベタひっついて、取っ替え引っ替えやりまくってるってな。あーあ、今日もお盛んなんだなーって事実を喋ってて、何が悪いんだよ」


「それが事実じゃねーって言ってんのわかんないの? 脳みそ空っぽの馬鹿か?」


「ハアアッ!?」


「結衣はそんな軽薄なことするような子じゃない。一度だってそんな事実はない。人との距離感がおかしいのは認めるよ? だけど、だからって人をたぶらかす様なことをする子じゃないんだ」


 瑞樹が一切怯まずに睨みつけると、リーダー格の男は馬鹿にするようにニヤニヤと睨み返してきた。


「あー、悪いな。俺たちにとって、真実なんかどうでもいいし関係ないんだわ。気に入らねぇクソみたいな女が、クソみたいな噂で勝手に自滅してくのが、見てて楽しいだけなんだわ」


「…………なるほど」


 その醜悪な言葉を聞いた瞬間。


 瑞樹の中で、深く鍵をかけて沈めていたはずの感情が、ドス黒い泥のように湧き出した。


 ドロドロと粘っこい、濃縮された絶対的な憎悪。


 蛇の戸愚呂のように絡みつき、相手の息の根を止める明確な殺意。


(こいつは、ダメだ)


 言葉で考えを正してやろうとしたこと自体が、そもそも間違いだった。


 自分たちが絶対の正義だと信じて疑わない、救いのない馬鹿だ。


 もう、これ以上結衣の周りの空気を吸っていることすら、許せない。


 ただそれだけしか、瑞樹の思考には残らなかった。


 瑞樹の瞳から、スッと光が消え去った。


 かつて最愛の少女を失った絶望から、幼馴染たち全員を本気で地獄へ突き落とそうと緻密に計画し、冷酷に牙を研ぎ続けてきた、あの強烈で本物の殺意のオーラのみが、瑞樹の全身から黒いモヤのように溢れ出してくる。


 真っ黒に染まった、深淵のような瞳で男を見上げる瑞樹。


「……そうやって、安全な場所から他者を見下して楽しいか? たかだか十数年しか生きてない、何も成し遂げてないお前らごときの人間が、神様にでもなって偉くなった気分か? クソみたいな金魚のフンの仲間を引き連れて、高校という狭い水槽のコミュニティで粋がって。……本当に、どうしようもない馬鹿だよな、お前」


 あまりの侮蔑の言葉に、リーダー格の男は逆上した。しかし、自身の手が小刻みに震えていることにも気付かず、勢いと虚勢だけで瑞樹の胸倉を乱暴に掴んだ。


「なっ、なんだとテメェ!? ぶっ殺されてぇのかあぁっ!?」


 虚勢。


 ただ声が大きいだけの、中身のない偽物の威勢。


 本気で人を殺そうと計画し、地獄の底を這いずり回ってきた瑞樹に、そんな温い脅しが効くはずがなかった。


 瑞樹は胸ぐらを掴まれたまま一切動じず、わずかに背伸びをして、男の耳元で氷のように冷たい声で囁いた。


「暴力でしか解決できなくて、手を出すことしか脳の無い猿が。……結衣を貶めたこと、今ここで一生後悔させてやろうか?」


 瑞樹は、光の宿らないドロドロの瞳で、至近距離から男を見上げる。


「――コロスゾ、オマエ」


「――ひぃっ!!」


 それは、ただの脅し文句ではなかった。


 明確な殺意の塊を直接脳髄に叩き込まれた男は、瑞樹の胸ぐらから手を離し、足をもつれさせて無様に尻餅をついて倒れ込んだ。


 かつて本気で人を殺そうとしていた瑞樹から放たれる、圧倒的な死の気配にあてられ、訳のわからない本能的な恐怖が男子集団を襲う。


 首筋に冷たい刃物を押し当てられたような錯覚を起こすのも必然だった。


 こいつはヤバい。こいつは人間じゃない。本能が逃げろと警鐘を鳴らす。


 男たちは「ひっ、あ、ああ……っ!」とだらしなく後ずさり、互いの足を引っ掛け合いながら、蜘蛛の子を散らすように足早にその場から逃げ出していった。


 瑞樹は逃げていく滑稽な背中には見向きもせず、そのまま、近くで面白半分に様子を見ていた女子集団にゆっくりと近寄る。


「えっ……あ……」


 顔面を蒼白にし、冷や汗を浮かべて後退りする女子たちを、瑞樹は感情のない獣のような目で捉える。


 夕暮れの陰が落ちたその顔は、高校生のものではなく、純粋な狂気そのものだった。


 そして、地を這うような低く黒い声で言い放った。


「――オマエラモ、クダラナイコトツヅケルキナラ、マジデコロスゾ」


「ひっ……!」


 本気で命の危機を感じるほどの殺意を向けられたことのない女子たちは、ガクガクと足を震わせ、ボロボロと涙を溢しながら「ご、ごめんなさい……!」と悲鳴を上げて、逃げるように去って行った。


 瑞樹は、誰もいなくなった静かな通路で、しばらくその背中を見つめ続けていた。


 次第に、真っ黒だった瞳に夕日の光が戻ってきて、肩の力が抜け、いつもの瑞樹の表情を取り戻す。


 その完全に落ち着いたタイミングを見計らったかのように、後ろから結衣がトコトコと寄ってきて、瑞樹の腕を両手でギュッと掴んだ。


 瑞樹がハッとして振り向くと、結衣は困ったように、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「……瑞樹くんのせいだ。これから私、学校ですごく気まずくなりそう」


「……あっ。ご、ごめん……」


 一気に血の気が引いた。やってしまった。


 いじめられている側を真っ向から力で守るということは、得てしてその子の居場所をさらに狭くする可能性も秘めている。


 今回のこの場合、好奇の目に晒されて陰口の対象になっていた結衣を過激な方法で守ったことで、結衣はこの先、周りから『関わってはいけない腫れ物』として扱われるかもしれないのだ。


 冷静さを欠いた自分の行動が少しだけ恥ずかしい。


「でも、後悔はしてない……。結衣が理不尽に嫌な思いをするのが、俺は……どうしても嫌だったんだ」


 瑞樹が不器用に本音をこぼすと、結衣は「自分勝手だなーもう」とニコニコと破顔し、瑞樹の胸に正面から強く抱き付いた。


 そして、夕暮れの風に掻き消えそうなほど小さく、優しい声で呟いた。


「……ありがとう、瑞樹くん」

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