第14話 怒哀(3)
アニ研の部員たちが作った同人誌の自作漫画と小説をすべて読み終わったのは、夕方の16時を回った頃だった。
漫画はスラスラと読み終えたのだが、予想外だったのが小説だ。思っていたよりも大ボリュームで読ませる文章だったため、かなり時間を要してしまった。
どれも本当に面白くて、瑞樹のオタク心をくすぐる素晴らしい作品だった。
瑞樹が夢中でそれらの作品を楽しんでいる間、南那は机に頬杖をついてしばらく瑞樹の真剣な横顔を見つめ続けていたが、いつの間にか机に突っ伏して、スヤスヤと寝てしまっていた。
サラサラのロングヘアーが窓からの秋風に靡き、人形のように整った顔つきの南那は、一切の警戒心もなく、無防備にその美しい寝顔を瑞樹に晒していた。
瑞樹は南那を起こさないように、静かに作品たちを棚に戻すが、僅かな衣擦れの音で南那は目を覚ました。
「んん……寝ちゃった」
「おはよう。起こして悪かったな」
南那は目を擦り、両手を上げて大きく伸びをする。
「どれも面白かった。……ほんとにすごいな、アニ研」
「ありがとう。みんなにも、絶賛してたって伝えておくね」
「プロデビュー待ってるって伝えてくれ。それくらい、どれも良かった」
瑞樹はポケットからスマホを取り出し、結衣からの連絡を確認すると、『もう少しでシフト終わる!』とメッセージが入っていた。
ちょうどいいタイミングだ。
瑞樹は立ち上がり、南那に近寄ると、頭を下げてお礼を言う。
「ずっと付き合ってくれてありがとう。南那は他の展示、見て回らなくて良かったのか?」
南那はニコッと笑顔で頷く。
「うん。私は、古河くんと一緒に過ごせて嬉しかったよ。……途中で寝ちゃったけど……はは……」
照れ隠しのように苦笑いで頭を掻く南那。
「……これから、水橋さんと合流?」
どこか探るように、南那は上目遣いで訊ねた。
瑞樹は若干の気まずさを感じながらも、変な期待を持たせないためにハッキリと答えた。
「うん」
「……そか」
南那は少しだけ寂しそうに笑うと、サッと右手を差し出した。
「……握手」
「……」
瑞樹は少し考え、そしてゆっくりと自分の右手を出した。
南那の小さな手と合わさる。さっきまで寝ていたからか、その手は少し熱を帯びていた。
「ありがと」
やがて南那は何かを満足したのか、諦めたのか。切なそうに笑うと、スッと手を離した。
「うん」
少し胸の奥がチクッと痛くなったのは、何故だろう。
「ねえ、古河くん」
南那は立ち上がると、風が入ってくる窓際まで歩き、夕日を背に振り返った。
「また今度……二人で会いたいって言ったら、困る?」
――ああ、そういうことか。
胸が針で刺される様に感じたこの痛みの正体は、この空気でなんとなく直感していたからだろう。
彼女からの真っ直ぐな好意を、ここで明確に拒否しなければいけないからだ。
嫌だな、この胸を締め付ける罪悪感は。
でも、瑞樹は南那の瞳をしっかりと見つめ返し、嘘偽りなく答えた。
「うん。……困る」
これは、自分への罰だ。
彼女の真剣な気持ちも考えず、連絡先を交換して変に期待をもたせる様なことをした、自分の罪の代償。
ハッキリしない優しさが、こんなにも他人を悲しませてしまうのだと、ポロポロと大粒の涙を流して俯く南那を見て、ズキズキと痛いほどに感じる。
「……わかった。じゃあね、古河くん」
震える声で南那は答え、くるっと窓の外へ振り返ってしまった。
瑞樹はその細い背中を目に焼き付けて、これ以上彼女を傷つけないように、無言で静かに部室を出た。
――出て数歩、薄暗い廊下を歩いたところで。
スマホにメッセージが届いた音が鳴る。
結衣からかと思って画面を開くと、相手は南那からだった。
『なんてね! 泣き真似だよ! 諦めないけどねー!』
「……ええ!?」
瑞樹が勢い良く背後を振り返ると、アニ研の部室のドアから顔だけ出した南那が、ペロッと舌を出して悪戯っぽく笑っていた。
「ちょっ、お前!!」
「だまされたー! まったねー!」
瑞樹が慌てて駆け寄ろうとしたら、南那はバタンッ!と勢いよくドアを閉め、鍵をかけてしまった。
「え、なにこれ。谷高女子の間で、俺をイジるの流行ってんの!?」
結衣といい南那といい、なんなんだこの高校の女子たちは。
さっきの純情なこの胸の痛みを返して欲しい。
罪は罪のまま、罰として静かに心に刻ませて欲しかった。
いや、もしかしたら、あれは気まずくさせないための南那なりの優しさなのだろうか。
わからない。
瑞樹はいくら考えても、彼女の流した涙の本心も、意図も、全くわからなかった。
瑞樹はやれやれと苦笑いで振り返り、少しだけ罪悪感から解放されて軽くなった足取りで、本命である結衣の元へと向かった。
***
結衣は、体育館のシフトに入っているらしい。
どうやら体育館の特設ステージでは、今若者に人気のインフルエンサーやネット配信者がゲストとして来ていて、トークライブを行っているとのこと。
ライブ終了後に、ゲストを見送ろうと体育館の出口に興奮した生徒たちが押し寄せるから、その時の有事に備えて実行委員が誘導・警備係として配置されている。結衣はその一員として、今は体育館にいると連絡を受けた。
瑞樹は校舎に入り、体育館に続く渡り廊下を歩く。校舎内もまだまだ人は多く、最後の追い込みと言わんばかりに、生徒たちは自分のクラスへの呼び込みに熱が入っている。
体育館の入り口には、遮光用の重くて分厚い黒いカーテンが引かれていた。
隙間から中に入ってみると、光を完全に遮断した薄暗い空間に、インフルエンサーを一目見ようと集まった観客でひしめき合っていた。
外のライブ会場の開放的な熱気とは違う、物理的な熱さと息苦しさを伴った密閉空間。
何の匂いかわからない、若者の汗や屋台の食べ物の匂いが混ざり合った、独特の香りが漂っている。
そしてそんな熱狂する観客たちを前に、明るく照らされたステージの上で、美人のインフルエンサーとイケメン配信者がトークをしていた。
瑞樹には彼女たちの何がそんなに魅力的なのかはわからなかったけど、自分の好きな声優さんが目の前にいると想像すれば、この観客たちの熱意も理解できる。
「ここで終わるまで、外で待ってるか……」
瑞樹が最後尾でそう呟いた時。
瑞樹の腕をツンツンと突く者が現れた。いや、正しくは、ずっと暗がりの壁際にいたのだ。
「瑞樹くん」
「結衣」
結衣だ。
結衣は額に汗を浮かべ、暗闇の中でニコッと笑った。
瑞樹は結衣の耳元に近づき、「お疲れ」と声をかける。
コクっと頷き、結衣はピッタリと瑞樹の腕に体をくっつけてくる。いつもの定位置。
「ふう」
瑞樹は、あることを思いついた。
この空間の最後尾。全員がステージの明るい光を見ている。誰も、暗闇に紛れた瑞樹と結衣の親密な距離感には気付かない。
だから瑞樹は、少しだけお返しをしようと考えたのだ。
先ほどの南那にイジられたことも影響しているだろう。
とにかく、これまでの仕打ちなども踏まえて、幾分かでも結衣にやり返して余裕を奪ってやらないと気が済まなかったのだ。
瑞樹は、入り口の上部から垂れ下がっている黒いカーテンの前で真剣にステージを見つめる結衣の、その真後ろに移動すると、ギュッと、結衣の細い腰を抱き締めた。
「っ……!」
結衣はその瞬間、体をビクッとさせ、石のように強張らせる。
「ちょっ、瑞樹くん……!」
「いつものお返しだ。……あんまり騒ぐと、周りに気付かれるぞー?」
真っ暗だから、ちょっとやそっとじゃ気付かれない。だけど、今このタイミングで体育館に出入りする人がいれば、確実にバレる。
この極度の緊張とハラハラを、いつも仕掛けてくる結衣に味わってもらうのが瑞樹の狙いだ。
瑞樹は意地悪く笑い、後ろから結衣の耳に顔を寄せて囁く。
「見られてないか? 大丈夫?」
「ん〜っ! 耳ダメだってば……! てか、あんまり匂い嗅がないでよね、今めっちゃ汗かいてるし……っ」
顔を赤くして、必死に囁き声で抵抗する結衣。
結衣の匂いは確かに朝の甘いシャンプーの香りとは違った。揚げ物や炭火の食べ物の匂いに、汗と結衣の体臭が混ざった、お世辞にもフローラルで良い匂いとは言えない香りとなっていた。
「ずっと走り回ったし、ここ熱いし、ほんとに汗臭いから離れて……っ」
結衣は、本気で恥ずかしそうに、嫌そうに囁く。
(……なんか、思ってた反応と違う)
結衣にはこのハラハラする状況にドギマギして欲しかったのに、『自分の汗臭い匂いを嗅がれるのが嫌だから離れて欲しい』と、そっちの方ばかり気になっていそうだ。
目論見とは違うが、じゃあ方針を変えよう。
瑞樹は、嫌だという結衣の首元に、さらに顔を近づけようとした。
――その時。
『はーい! これをもちまして、本日のトークライブは終了でーす!』
司会の女性らしき人が、マイクで大声で終了のアナウンスを出す。
一瞬だった。
司会の女性が「お気をつけてゆっくり出口へ向かってくださーい!」という叫び声は、瞬く間に観客の歓声と喧騒にかき消され、体育館の出口へと我先に辿り着こうと群がる、数百人という観客の波が一気に押し寄せた。
誘導のしようがない。
場を整理する余裕もない。
マイクを持たない実行委員の結衣の生の声など、この轟音の中では一ミリも届かない。
その暴動のような光景に唖然としたその刹那で、統制を取ることを諦めるしかなくなった。
「やばいぞ、結衣!」
しかし、結衣は固まって動けない。
体育館は真っ暗で、観客たちは出口の場所を正確にはわかっていない。ただ『自分たちの背中側にあった』という記憶だけを頼りに、出口らしい方向へと盲目的に突進してこようとしている。
このままでは、押し潰されて将棋倒しの事故が起きる。
「くそっ……!」
瑞樹は咄嗟の判断で、背後の重いカーテンを力一杯引き寄せ、隙間から差し込む外の光と共に出口を観客たちに示す。
同時に、その巨大なカーテンに自分と結衣の体を巻き込み、回転しながら出口の動線から離れる。
視界がゼロの暗闇のカーテンの中で、結衣を正面から強く抱き寄せ、人の波に押しつぶされない様に、硬い壁側に結衣の体を位置させて自分が盾になる。
悲鳴なのか怒号なのか、とにかく凄まじい叫び声が耳元で轟く。
「結衣、大丈夫か!? 怪我とか、痛いとことかないか!?」
「……うんっ。大丈夫……!」
ドンっ、ドンっと、瑞樹の背中を何度も誰かが押し、踵も何度も踏まれる。
その度に結衣を壁際に押し込んでしまうが、瑞樹は歯を食いしばり、可能な限り踏ん張り耐える。
どれくらいの時間、その暗闇の中で耐えることを繰り返したのか。
やがて辺りの足音は静かになり、観客たちが全員体育館を出て行ったことがうかがえた。
瑞樹と結衣は恐る恐るカーテンから出ると、体育館には明るい照明が点灯し、ステージの片付けをするスタッフだけがいる状態になっていた。
見たところ、怪我人が出る様な大事故もなかったようだ。
「……大丈夫か、結衣」
結衣はホッとしたように、苦笑いで頷く。
「すごいね、人の波……。私、何もできなかった。瑞樹くんこそ大丈夫?」
「めっちゃ足踏まれた……けど、怪我はしてない。大丈夫だ」
お互いに体を確認し合い、何事もないことに深く一安心する。
そして二人は顔を見合わせ、緊張の糸が切れて「ぶっ」と吹き出した。
「あはは! なんだこれ。嘘みたいな展開だな」
「ほんと。あるんだね、こんなパニック映画みたいなこと」
「何事もなかったからよかったけど、一歩間違えば大事故だったな」
「ね。これは運営の大きな反省点。……ちゃんと本部に報告しておくね」
瑞樹は首をコキコキと回し、凝り固まった肩も回す。
「あー……。精神的に疲れた」
「ちょっと外の空気吸って、休もっか。私、何か奢るよ」
「お、やった」
二人は体育館を出て、夕暮れが迫る校舎外の模擬店ゾーンへと、肩を並べて歩き出した。




