第13話 裸々(2)
「か、かのじょー!?」
静かな秋の夜のシェアハウスに、窓ガラスが震えるほどの大声が轟いた。
声の主は、当然一花だった。
彼女は弾かれたようにガタッと椅子から立ち上がり、まるで信じられない未確認生物でも見るような目を大きく見開いて、隣に座る遊に視線を落としていた。
朱音は朱音で、両手を胸の前で組み、瞳をキラキラとさせて恋というロマンチックなものに憧れる少女のような熱い視線を遊に向けていた。
「……遊……お前……」
瑞樹は、大きな憑き物が取れたような心地よい脱力感に襲われ、同時に、反抗期を終えて大きく成長した我が子を見るような、深い親愛の情が胸の奥からドクドクと溢れてくるのを感じた。
瑞樹は、少し前に遊に言ったのだ。
『お前も、誰かを好きになってみろ』と。
瑞樹は結衣に恋をして、筆舌に尽くし難いほどいろいろなことを学んだ。自分が変われたし、知らなかった温かい感情を抱けた。
だから、心を閉ざしていた遊にもそんな世界の色を変えるような経験をして欲しくて、ダメ元で、だけど少しの期待を込めて言ったのだ。
それを、彼はこうも早く実行してくれたのだ。
遊は、周囲からの視線を一身に浴びて照れくさそうに頭を掻きながら、瑞樹に向かって静かに口を開いた。
「古河が言ってくれたから。……僕も、他人と関わることをちょっと頑張ってみようかなって、そう思ったんだ」
遊はサッカー部でルックスも良いモテる男だから、女子からの告白なんて日常茶飯事だ。これまで無数の好意を冷酷に散々振ってきた遊が、誰か一人に決めた。
その事実が、瑞樹は純粋に、心の底から嬉しかった。
「そうか……よかったな……!」
「うん。ありがとう、古河」
「ねえねえ! どんな人なの!?」
朱音が、蕩けたような甘い瞳で身を乗り出して遊に訊ねる。
「えっと……まだ付き合ったばかりで相手のことはよくわからないけど。……ドS、らしい」
「……え、どんな会話してんの!?」
キラキラとしていた朱音の表情が、一瞬で引き攣った苦笑いに変わった。
若干、いや、かなり引いている。
「まだ少ししか話してないから、相手の内面はよく知らないんだ」
「そっ、それで、なんでその人に決めたの!?」
立ち上がったままの一花が、必死の形相で遊に詰め寄る。
遊は少し気まずそうにスッと視線を横へ逸らすと、ハッキリと、悪びれる様子もなく答えた。
「その日、一番最初に告白してきたから」
「――ぐはっ!」
一花は致命傷を負ったように倒れ込み、テーブルに突っ伏した。
朱音は引き攣った愛想笑いで「あははは……」と乾いた声をこぼし、瑞樹はやれやれと呆れたように首を横に振った。
(……まあ、遊はこういう奴だよな)
良くも悪くも、極端な論理で動く芯の部分は変わっていない。
だが、瑞樹の言葉で影響を受けて心を動かされたことは事実だ。
そして、自分から他人を知るために行動を起こしたことも事実だ。
今はその大きな一歩を喜ぼう。
「……頑張れよ、遊」
瑞樹が優しく声をかけると、遊は少し驚いたように目を丸くして、やがてフッと力を抜いて、ニコッと笑って頷いた。
「本当にありがとう、古河」
そんな騒がしくも優しい時間が流れている中。
ふと見ると、テーブルに突っ伏していた一花が、涙目でコップの水をゴクゴクと一気に飲み干している様子が目に入った。
その小さな肩が、微かに震えている。堪らず瑞樹は声を掛けた。
「……大丈夫か、一花」
「えーんっ! みんな恋して前に行っちゃって、私だけ置き去りでさびしーっ!!」
嘘泣きのような子どもっぽい叫びのくせに、一花は本当に大粒の涙をポロポロと流して顔をぐちゃぐちゃにしていた。
突然落ち込むと思ったら、遊の告白に誰よりも大きなリアクションをしたり。
彼女の中で、幼馴染たちが次々と自分だけの世界を見つけて変わっていく中で、『自分一人だけが取り残されてしまう』という強烈な孤独と不安があったのかもしれない。
瑞樹は座っていた椅子を後ろに体ごと引くと、自分の太ももを両手でパンパンと叩いた。
「……ほら。おいで、一花」
「えええーんっ!」
滝のようにボロボロと涙を流しながら、しかし相変わらず嘘泣きのように大きな声を出しながら、一花は椅子を降りるとトボトボと瑞樹に近寄り、示された太ももの上にちょこんと座った。
そのまま瑞樹の首に細い両腕を回してギュッと抱きつき、声を出して子どものように泣きじゃくる。
華奢な体からは想像できないほど強くしがみついてくる彼女は、もはや完全に甘えん坊の子どもだ。
「よしよし」
瑞樹は一花の背中にそっと手を回し、優しくリズムを取るようにトントンと叩く。
一花の不安が、臨界点を超えてしまったのかもしれない。
瑞樹が半年前に思い込んでいたほど幼馴染たちは異常ではなかったけれど、それでも彼女たちが過去に負った心の傷が完全に消えているわけではないのだ。
ふとした拍子や環境の変化というキッカケで、いつ限界がきてもおかしくない。
そんな一花の甘える様子を、朱音と遊は、まるで手のかかる大きな子どもを見るように優しく微笑んで見守っていた。
瑞樹は一花の背中を摩りながら、耳元で優しく囁く。
「俺たちがいなくなるわけじゃないから、大丈夫だぞ、一花。誰も一花を置いていったりしない」
一花の、瑞樹の首を抱きしめる力がさらに強くなる。
首元に感じる彼女の熱い涙と、震える吐息。
「やぁだ。みーくんも、ゆーくんも、朱音ちゃんも……みんな大人になって、私の手の届かない遠くにいっちゃう……」
「いかないよ。みんなどこにもいかない。大丈夫だ」
「……んんぅ」
安心させるように一花の柔らかい髪を撫でていると、隣に座る朱音が、慈愛に満ちた聖母のような表情で一花を覗き込んだ。
「ねえ、一花。……今日は、瑞樹くんと一緒に寝させてもらったら?」
「――っ!」
思わず瑞樹の心臓が大きく跳ねたのは、脳裏に結衣のジト目顔が鮮明に浮かんだからだろう。
別に一花となにか間違いを起こすわけでもないが、それでも年頃の女子と同じ布団で寝ることに、結衣に対する強い罪悪感を覚えたのは間違いなかった。
(いや、でも……それを言ったら、今のこの密着した体勢だってアウトだし、そもそも美少女二人と同じ屋根の下で同居してることだって、本来は罪悪感を抱かなければいけないことなんだよな……)
自身の判断基準が酷く曖昧で都合が良いことに嫌気が差すが、今、腕の中で震えている一花が大事なのも本当なのだ。
「……いいの?」
一花が瑞樹の耳元で、縋るような震える声でつぶやいた。
このか細い声を聞いて、ダメだなんて言えるはずがない。
ここまで彼女が狼狽し、感情を不安定にするのはかなり久しいことだ。
落ち着かせ、安心させることが出来るのが自分であるのなら、そうしてあげたかった。
「……いいぞ」
「……うんっ」
一花の顔に、少しだけ安心の色が戻った。
朱音は立ち上がると、一花の肩を優しくトントンと叩く。
「まずは、あたしと一緒にお風呂入ろう? 背中流してあげるから」
朱音がそう誘うと、一花はコクンと頷いて瑞樹の太ももから降り、朱音に手を引かれてお風呂場へと向かっていった。
リビングの扉を出る直前、朱音は瑞樹に振り向き、口パクで『あとは任せて』と言い残した。
瑞樹はそれに口パクで『ありがとう』と返すと、正面で遊が立ち上がりながら口を開いた。
「古河はそのまま座ってていいよ。食器の片付けは、僕がやるから」
「いや、自分も――」
一緒にやると言い掛けて。遊のそのどこか誇らしげで、優しい表情を見た瑞樹は、言葉を飲み込み、素直に彼の厚意に甘えることにした。
「……ありがとう。頼むよ」
遊が手際よく食器を重ねてキッチンへ運んでいく。
それぞれが、それぞれの弱さを補い、不器用ながらも支え合う。
(なんか、いいな……)
瑞樹は、水の流れる音が響くキッチンを見つめながら、誰にも聞こえないくらい小さく、幸せなため息をつくように呟いた。




