閑話休題『天音遊の憂鬱』
僕は、あまり他人を信用できない。
いや、正確に言えば『他人という生き物に期待をしていない』と言った方が正しいかもしれない。
そういう風に育てられたわけではない。そもそも、幼い頃に特定の誰かに育てられたという記憶すら、僕にはないのだ。
だからこの異常とも言える冷めきった性格は、僕が生き抜くための環境がそうさせただけだ。
物心ついた時から、親という存在は取っ替え引っ替え変わっていった。誰に、何に育てられたのか、もはやよくわからない。
どうせまた、すぐに大人の都合で変わるんだ。
そう思ったら、誰かを信じることがひどく馬鹿馬鹿しくなって、どうせ裏切られて傷つくくらいなら、初めから誰も信じないことを選んだ。
そしてその防御本能からくる感情は、一時的な両親だけには留まらず、やがて他人という存在すべてに対して抱くようになった。
そんな僕が心変わりをしたのは、今の両親になって数年経ってからだった。
一年も親が変わらないことなんて僕の人生では珍しかったから、余程の物好きか、それとも国からのお金目当てとか、それか何かで騙されてるんじゃないかと疑って、わざと突き放すような態度を取り続けた。
けど、今までの親だった人たちとは違って、彼らは真っ直ぐに僕を見てくれた。
僕に不器用な優しさを向け、僕が悪いことをすれば本気で叱り、僕の境遇に泣き、僕が少し笑えば心底嬉しそうに笑ってくれた。
薄っぺらい同情ではなく、僕という人間に対していろんな本物の感情を向けてくれたのだ。
だから僕はこの人たちを、裏切られてもいいから信じてみても良いと思った。
そして、幼い頃に出会った古河の存在も、僕にとってはとてつもなく大きかった。
むしろ、僕を孤独のどん底から引き上げ、決定的に人を信じるきっかけをくれたのは彼だから、何よりも感謝している。
彼がいなかったら、僕はきっと両親ともまともに向き合えず、まだ暗闇で一人蹲っていただろう。
僕が唯一、心から信頼している人間だと言っていい。
そんな古河に、この間言われたことがある。
『お前も、誰かを好きになってみろ』
『お前も?』と眉をひそめて反応したら、古河は照れくさそうに苦笑いして白状した。
古河にも、どうやら好きな人ができたらしい。
僕はひどく驚いた。古河が誰かに恋愛感情を抱くなんてないと思っていたからだ。
彼は常に周りを見て、一歩引いたところから俯瞰している。僕たち幼馴染に対して、そんな保護者みたいな振る舞いを誰にでも平等にしていたから、彼が特定の誰かを特別に好きになることなんて不可能じゃないかと、そう思っていた。
でも、そんな鉄壁の古河ですら、恋をしたらしい。
彼自身がその感情を知って世界が変わったからこそ、僕にもその経験をした方が良いと、勧めてくれたのだろう。
恋愛なんて本当に無駄だと思っていたけど、あの古河がそういうなら……。
一度くらいは、騙されたと思ってやってみてもいいのかなと、僕は思ったのだ。
だから僕は、大谷高校での練習試合の後にグラウンドで告白してきた女性と、交際をスタートすることにした。
大谷高校サッカー部のマネージャーをしている、二年生の中村紗綾香という女性。
練習試合の際に、何度かスコアやドリンクの件で声を掛けられて事務的な話をしたことはあったけど、性格とか、いわゆる彼女の内面は何も知らない。
彼女に対しては、長い髪を後ろで揺れるポニーテールに結っているのが特徴的だという、薄い印象しかない。
「よろしくね、天音くん」
今、こうして目の前で近くでよく見てみると、目がパッチリと大きくて、日に焼けておらず肌も白くて細い。誰もが美人という部類に入れるだろうことは、僕にも客観的にわかった。
でも、こういうチヤホヤされる人間に限って、裏では平気で人の悪口を言ったり、他人をルックスやステータスで見ていたりするもんだ。信用はできない。してはいけない。
内面は何も知らないのだから。
でも、古河に言われたから。
他人に興味を持てない僕が、『好き』という感情を体験するために、とりあえず付き合ってみることにした。
本当に、誰でもよかった。
今日、一番最初に僕に告白してきた人にしようと決めていて、それがたまたま彼女だっただけだ。
しかし、もう少し考えれば良かったと、告白を「いいですよ」とオーケーしてから後悔した。
彼女――中村紗綾香先輩は、僕の高校のライバル校である、大谷高校サッカー部のマネージャーだ。
遠巻きに見ている大谷高校のサッカー部員たちからしたら、なんで自分たちのとこの可愛いマネージャーが、よりにもよって敵対するライバル校の生意気な一年坊主と付き合っているんだと、腸が煮えくり返る思いだろう。
それは単なる男としての嫉妬的なものもあるかもしれないが、それ以上に情報の漏洩を危惧するだろう。作戦もへったくれもない。
彼女を通じて戦術が僕に筒抜けとなり、そして我が宮の森東サッカー部にも伝わる。
そんなスパイ映画みたいなことが実際にあるかどうかは関係なくて、その可能性が存在するだけで、大谷高校のサッカー部にはとてつもないストレスになるだろう。
現に今も、少し離れたグラウンドの入り口付近から、両校のサッカー部の連中から刺すような痛い視線を感じる。
でも、まあ。
そんなことは僕の知ったこっちゃない。
大谷高校サッカー部がどうなろうが、先輩たちがどう思おうが、僕は僕の意思で『好き』を見つけるための実験として付き合っただけだ。そしてその相手が、たまたま大谷高校サッカー部のマネージャーだっただけだ。
「……天音くんは、なんであたしと付き合ってくれるの?」
周囲からの痛い視線など全く気にする素振りもなく、中村先輩は首を傾げて会話を続けようとしてくる。
付き合うと言ったんだから、これ以上目立つこの場で更に交流を深めなくてもいいだろうに。
「なんで、と言われましても。そちらから告白してきたからですが」
「だって天音くん、他校の女子から告白されても、いっつも冷たくあしらって振るって有名だったから。あたしも絶対フラれると思ってたんだ」
「……じゃあ、なんでフラれるとわかってて告白したんですか」
「そりゃあ……顔が超カッコいいし? 一目惚れしたから?」
結局、顔か。
確かに僕は、他人から見たら羨まれるような容姿をしているらしい。昔は何を言ってるのかわからなかったけど、散々すれ違う人々にそういうことを言われてきて、テレビや雑誌でイケメンと言われる人たちを見てきて、なるほど僕は『顔だけは良い』のだと自覚した。
僕に寄ってくる女性は、大抵この顔目当てだ。
クソだな、と思っていた。
そういう上辺だけの奴は、大抵僕の冷たい性格を知ったり、他にいい男がいれば飽きて去るだろう。内面を知らないから、知ったら勝手に幻滅するのだ。
勝手に惚れて、勝手に期待して、勝手に消える。
『それは普通のことだよ、ゆーくん』
以前、一花にこの不満を愚痴った時。彼女は呆れたようにそんなことを言ってきた。
いやいや、そんな身勝手なことが普通であってたまるかと思っていたけど。一花と話せば話すほど、それが世間の普通なのかもしれないと思い直した。
誰もが、一目惚れでは顔という第一印象で好きかどうか決める。
そして付き合いながら徐々に仲を深めて内面を知り、更に好きになるか、嫌いになって別れるかの二択に落ち着く。
それが、恋愛における一目惚れなのだ、と。
僕は、初めから決めつけていた。
どうせ僕に一目惚れしたところで、僕のこの歪んだ内面を知れば、みんな消えていくのだと。
でも同時に、一花の言葉で気付かされた。
僕はもしかしたら、またそうやって他人が自分の元から消えて行ってしまうことを、ただ恐れていただけなのかもしれないと。
僕は、僕が思っている以上に――
「良かった。実は『前から優しい人だと思ってて』とか、適当な嘘を言われたら、帰ろうと思いました」
――他人に、期待していたのかもしれない。
僕の皮肉めいた言葉に、中村先輩は怒るどころか、唇の端を上げてニヤリと悪戯っぽく笑った。
「そーゆー内面的なのは、これから一緒に過ごして知っていくことでしょ。だから、天音くんもあたしのことを知る努力してね。それで『やっぱ性格合わないな、違うな』って思ったら、遠慮なくフッてくれていいから」
「……その潔いスタンスは、すごくありがたいです」
中村先輩は拳を軽く握りしめて、僕の胸をトンッと軽くどついた。
「でもあたし、振る気も振られる気もないから。こう見えて結構一途だし、彼氏には尽くすタイプだよ。……でも、だからと言って『毎日連絡くれなきゃヤダ』とか、『毎日会いたい』とか重いことは言わないから。あたし自身、束縛はしたくないし、されたくもないからね」
「あぁ、それは助かります」
大分、都合が良い。
僕の初めての『好き』という感情の実験を試すには、適材かもしれない。
中村先輩は自身の拳をインタビューのマイクに見立てて、僕の口元にスッと近づけてきた。
「じゃあ、次は天音くんの番。……天音くんは? 本当はどんな人?」
そんなこと言われても、自分でもよくわからない。
僕がどんな人間かは、これから先輩が勝手に見て、勝手に判断してほしい。
あ、でも一つだけ、間違いなく思い当たることはあった。
僕は、少しだけ背の低い中村先輩の瞳を真っ直ぐ見下ろし、事実だけを端的に答えた。
「……口が悪いです」
大真面目にそう答えたら、中村先輩はキョトンとした後、ブッ!と吹き出して、腹を抱えて笑い出した。
「……笑うとこですか?」
「あははっ、ごめん! うん! あたし、天音くんのこと好きかも!」
口が悪いと言って好きとは、一体どういうことなのだろう。
全く理解できない。わからない。
もしかして、とてつもなく面倒な女性に引っかかってしまったのかもしれない。
やっぱり、やめた方が良かっただろうか。
でも。
夕日を背に受けて、腹を抱えて屈託なく笑っている中村先輩の姿が。
これまで僕に告白してきた、顔を赤らめて上目遣いをするだけの、能面のような人たちとは、明確に違って見えて。
僕の心の奥底で、固く閉ざされていた何かが、微かに動き出そうとしているのを感じた。
「先輩、もしかしてドMですか」
僕のそんな容赦のない未熟なツッコミに、中村先輩は涙を拭いながら、最高に楽しそうに笑って返した。
「残念。ドSだよ」




