第12話 嫉妬(6)
結衣がトイレから戻ってくると、冷たい水で洗いたての手を瑞樹の右手に絡め、はぁと大きな息を吐いた。
「またムラついちゃった。テヘペロ」
可愛く舌を出す結衣。
その細い首筋が薄らと小さく赤く染まっていることに気付かないフリをして、瑞樹も同じように大きくため息を吐いて歩き出した。
「はぁ……段々と自制出来なくなってきた自分が恥ずかしい」
結衣はケタケタと悪戯っぽく笑い、ドンドンと瑞樹の肩に自分の肩をぶつけてきた。
「そう落ち込まないの少年。欲望に素直なことは良いことだよ」
「お前は何様だ! さては結衣、俺のことをおもちゃにしてるな!?」
「それは否めない」
「否め!」
結衣はあはははと腹を抱えて笑い、目元に滲んだ生理的な涙を拭いながら続けた。
「ごめんね。瑞樹くんの困った顔見るのが、最近すっごく楽しくてさ」
「頼むから違う方法で楽しんでくれ。もうそろそろ理性がヤバイ」
「えー。そう言われたら、その『ヤバイところ』を一度見てみたいなー」
「この変態め! 結衣! お前は絶対に俺以上の変態に違いない!」
「それは否めない」
「よろしい!」
結衣は楽しそうに声を上げて笑い、ショッピングモールの自動ドアを抜けて外の熱気が漂う歩道に出たところで、さっと繋いでいた手を離した。
「じゃあ、帰ろうかな。……それとも、もうちょっとどっか行く?」
ニコッと首を傾げ、上目遣いで尋ねる結衣。
こうやって、ただ可愛い普通の女の子だけで居てくれたら心臓に優しいのに。
そんな切実なことを思いながら、瑞樹は提案した。
「どっかで飯食っていかないか? 今日、うちの連中みんな帰りが遅くてさ。夜、俺一人なんだ」
「ん、いいよー」
さっとまた瑞樹のパーソナルスペースに踏み込み、腕をくっつけて歩き出す結衣。
正直に言えば、非常に歩き難い。
けど、これでいい。
これくらいが、自分たちには心地良い。
二人は駅前にある近場のファミリーレストランに入ると、ホールの隅にある二人用のボックス席に案内された。
店内は空調が十分に効いていて、肌寒いくらいに涼しい。さっきまでの密室と夏の熱気で火照った体に、冷気が心地よく染み渡っていく。
運ばれてきた水が入ったグラスを煽り、一気に飲み干すと、瑞樹はテーブルに片肘を突いて目の前の少女を見つめた。
正面に座った結衣は、「どーしよっかなー」と楽しそうにメニューのページをめくっている。
黙ってその姿を見ていれば、どこにでもいるただの清楚で可愛い女子高生だというのに、その中身は生粋のオタクで、男をからかうのが大好きな小悪魔だという。
人は見た目によらないという言葉があるが、まさにそれを結衣は全身で体現していた。
「瑞樹くん、どーする?」
メニューを手渡され、瑞樹は一ページ目に大きく載っていた期間限定の麻婆ハンバーグに決めた。
二人は呼び鈴を押して注文を済ませると、深く背もたれに背中を預け、同時に一息つく。
「そういえば結衣、今日夏服だな? さっきモールで会ったクラスメイトたちは、まだ長袖のシャツだったけど」
「あー、うん」
結衣は自分の半袖の制服を見下ろし、コクリと頷いた。
「うちの高校、『この日から一斉に夏服です!』みたいに厳密に決まってないから、自分の好きなタイミングで衣替えしていいんだよね。真夏でも日焼け対策で冬服の子とかいるんだよ」
リアルでも寒がりキャラって本当にいるんだねー、と結衣は笑った。
「夏服といえば、瑞樹くんも夏服だね。今日はワイシャツ一枚だ」
「普段は、上にサマーカーディガン着るんだけどな……」
瑞樹は少し言葉に詰まった。
そういえば昨日、登校中に下着が透けていた朱音に着させて、そのまま返してもらっていなかったのだ。帰ったら回収しなければいけない。
「……今日は、着てくるの忘れた」
朱音に貸したと言えば、さっきの榊原南那の一件に続き、また彼女にあらぬ嫉妬や誤解をさせてしまうかもしれない。別にわざわざ言う必要もないことだと判断し、瑞樹は黙っておくことにした。
「ふーん。……それでさ、瑞樹くん。夏休みも終わったことだし、死ぬことを辞めた瑞樹くんは、これから来たる学校祭を謳歌するのかな?」
ニヤニヤと意地悪く笑う結衣に、「その前置詞はもうやめろ!」と照れ隠しに言い放つ。
「学校祭、ねぇ……」
カレンダーは九月を迎えている。
確かに来月の頭に、『宮の森学校祭』というこの地域ではかなり規模の大きなイベントが開催される予定だった。
一般的な高校のようにクラスや学年単位での競い合いというものが存在せず、やりたい企画をやりたい有志たちとやるという、少し変わった自由な学校祭だ。
これまでの半年間、瑞樹は復讐のことしか頭に無かったため、当然何かを企画するグループには属していない。特にやりたいこともないから、当日はぶらーっと校内を見て回るくらいだろう。
その正直な展望を結衣に伝えたら、結衣はつまらなそうに唇を尖らせた。
「せっかく瑞樹くんの学校に遊びに行こうと思ったのにー。せっかくオタクなんだから、有志で同人誌でも作ればいいじゃん。え——」
「エロ同人なんか作りません! 学校の行事でそんな不健全なことやるか!」
「すごい反射神経だ。もしかして私の思考、完全に読まれ始めてる!?」
「結衣の頭の中の構造が、最近嫌でもわかってきたんだよ」
「やん」
「可愛子ぶっても可愛くないからな?」
「わー! 美味しそー!」
「華麗に流された!」
タイミングよく届いた料理の湯気に目を輝かせ、「いただきます」と二人はフォークと箸を手に取った。
瑞樹は熱々の麻婆ハンバーグを口に運びながら、結衣に問いかけた。
「それで、結衣のとこの学校祭はどうなんだ?」
「うちは今月末だよ。来る? 来るなら招待するよ。まぁ、うちのはごく普通の『THE・学校祭』って感じの模擬店ばっかりみたいだけどね」
結衣は熱いグラタンをホフホフと頬張り、「おいひー!」と幸せそうに頬に手を当てる。
「普段の学校での結衣も見てみたいし、行こうかな」
「おっけー。別に学校でもそこまで変わりないけどね。……ただ、ごめん。私、成り行きで実行委員になっちゃったから、当日は忙しくてあんまり瑞樹くんのこと構えないかもだけど……それでもいい?」
「少しくらいは会えるだろ?」
「それは大丈夫! 幼馴染さんたちの分の招待券も用意しとくね?」
「ありがとう」
遊は「人が多いところは疲れる」と言って行かないと言いそうだが、朱音と一花は楽しいことが好きだから、行くと言いそうだ。
瑞樹は早々に自分の皿を平らげ、店員に注ぎ直された冷たい水を一気に飲み干す。
――学校祭。
結衣の言葉ではないが、ほんの数週間前までの自分なら、まさかそんな学生らしい行事を迎える未来が来るだなんて、夢にも思っていなかった。
半年間、ただ暗闇の中で死を望んでいた自分が、今は友達の学校祭に行く計画を立てている。その事実が少しだけおかしくて、だけどとてつもなく温かかった。
(今度こそ、純粋に学生生活を楽しんでみよう)
瑞樹はそう心に誓い、目の前で美味しそうにグラタンの最後の一口を頬張る結衣の姿を、ただ優しく見つめていた。
***
ファミリーレストランの扉を押し開けて外に出ると、すっかり日の落ちた夜空は深い青藍色に染まっていた。
夜になっても気温はさほど下がらず、街を抜ける風はまだ生暖かく、お世辞にも気持ち良いとは言えないものだった。
隣を歩く結衣は、「うげぇ、ベトベトの湿気った風だ」と嫌そうに顔を歪めている。
「駅まで送るよ」
自然と車道側に立ち、結衣と歩幅を合わせて駅へと向かう。
「すぐそこだけどね、駅」
ニシシと白い歯を出して笑う結衣だが、美味しいものを食べてテンションが上がっているのか、アスファルトの上でクルクルと楽しそうに回ってみせたり、一人だけ少し先へ進んでは、後ろを歩く瑞樹を見つめるようにして後ろ歩きをしたりする。
「おい危ないぞ。結衣は運動神経皆無なんだから、転ぶぞ」
「なめないでよー。こう見えても反射神経には絶対の自信があるんだから。タイミングが超シビアな死にゲーやってるしね!」
「いや、それ画面のグラフィックに反応して動いてるの、指先のボタン操作だけだよな?」
結衣は図星を突かれたように不敵な笑みを見せ、「バレたか」と小さく呟く。
結衣は後ろ向きに歩きながら、夜空に向かって大きく伸びをした。
「あー、久々に瑞樹くんと会えて楽しかったー! 次は私ん家でアニメ鑑賞会しようよ。てか、今週の土曜日おいでよ」
ニコニコと、心底嬉しそうに笑う結衣。
その屈託のない笑顔を見られるだけで、瑞樹はただただ幸せな気持ちで満たされていく。
「わかった。じゃあ今週の土曜から、俺は通い妻になるよ」
「いいねー。適度に食材買っておくから、『冷蔵庫にある余り物の食材で適当に美味しいもの作っちゃう』ってやつ、またやってね」
「いきなりハードルが高いんだが!? 言っとくが、俺は料理漫画の主人公みたいにそこまで万能じゃないぞ?」
「瑞樹くんなら出来る出来るー」
あはは、と夜の街に結衣の笑い声が響く。
――その時だった。
「っ……!」
瑞樹の視界の隅に、進行方向にある交差点の青信号の横断歩道と、そして左側の道路から、信号を無視して猛スピードで突っ込んでくる車のヘッドライトが飛び込んできた。
結衣は後ろ歩きをしているため、その危険に全く気付いていない。
「危ないっ!」
考えるよりも先に、瑞樹の体が動いていた。
咄嗟にアスファルトを蹴って結衣に飛びつき、瑞樹は彼女の細い体を両腕で抱きかかえるようにして、強引に体の位置を反転させた。
ありったけの力で結衣を安全な歩道側へと突き飛ばす。その強い反動で、瑞樹自身の体は車道側へと倒れ込んでいく。
――全てが、スローモーションのように感じられた。
自身の右側から、暴走する車の暴力的なライトとエンジン音が、暴力的な速度で迫ってくるのを肌で感じる。
重力に逆らえず、体が斜めに傾き、アスファルトへと倒れていく。
(やばい)
このままじゃ、完全に轢かれる。
しかも頭からいけば、確実に即死だ。
(俺、こんなところで死ぬのか……)
アスファルトに反射するヘッドライトが眩しい。
排気ガスと焼けたタイヤの匂いか鼻を抜ける。
呆気ない最後だ。
だが、半年前から死ぬ覚悟などとっくに出来ていた。
突き飛ばされた歩道の先で、尻餅をついた結衣が、悲痛な顔でこちらに向かって手を伸ばしている姿が見えた。
いつもはお気楽な彼女が、顔面を蒼白にさせて、必死に手を伸ばしている。
(あんな必死な、泣きそうな顔もするんだな)
そんなことを呑気に考えていた瑞樹は、恐怖を感じることもなく、彼女を護れた安堵と共に、自身の死を静かに受け入れようとしていた。
しかし。
――ブゥウンッ!!
豪快な風切り音と排気ガスを残し、車の黒い車体が、瑞樹の後頭部数センチのところを物凄いスピードで通り過ぎていった。
そして。
ドンっ!
瑞樹の体は車道には落ちず、歩道の縁石に腰を打つ形で、その場に強く尻餅をついた。
「瑞樹くんっ!! 大丈夫!? ごめん、私のせいで……っ!」
結衣が半泣きの状態で駆け寄ってきて、瑞樹の腕を力強く引っ張った。
瑞樹は自身の体を見下ろす。どうやらどこも痛んでいない。腰も打ったが、普通に自力で立てるみたいだ。
「……悪い。思いっきり突き飛ばした。痛かったろ」
「そんなの全然いいよ! 痛くない! 私こそありがとう……ほんとに轢かれそうだった……」
瑞樹は立ち上がり、ズボンのお尻についた埃をパンパンと払うと、堪えていた大きなため息を吐き出した。
「はぁー……っ! まったく、言わんこっちゃない! 危機に反射出来なきゃ、ゲームの反射神経もクソもないだろ!」
「ご、ごめんなさい……」
先ほどの威勢はどこへやら、あからさまにしょんぼりと肩を落とし、反省する結衣。
さっきまでのルンルン気分が嘘のように小さくなっている。
「まったくもう。幼稚園児じゃないんだからな」
瑞樹は呆れながらも、結衣の冷たくなった小さな右手を、自分の手でしっかりと握りしめた。
そのまま、二人で青に変わった横断歩道を歩き出す。
「ほら、ちゃんと横断歩道を渡る時は、こうやって大人と手を繋いで歩きましょーねー」
「うぅ……子ども扱いがひどい……! ごめんってば……」
「はいはい、バブバブ」
「完全に赤ちゃん扱いじゃん!」
少しだけいつもの元気が戻り、口をとがらせて笑う結衣に、瑞樹は握る手に少しだけ力を込めて、真剣な声色で言葉を掛けた。
「……いつでも俺が守ってやる心意気はあるけど。それでも、どうしても守りきれない時だってあるかもしれないんだ。だから……ある程度、自分の身は自分でちゃんと守ってくれ。お前になにかあったら、俺は……」
「……うん。現実主義のヒーローみたいなこと言うね、瑞樹くん。……でも、ありがとう。ほんとに」
結衣は心底嬉しそうに、そして少しだけ照れくさそうに笑うと、駅の明かりが見えたところで、パッと繋いでいた手を離した。
目的の駅に着いたのだ。
「じゃあね。また」
「おう。また土曜日な」
改札へと消えていく結衣の小さな背中が見えなくなるまで、瑞樹はその場から動かず、ただじっと見守っていた。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、瑞樹はゆっくりと視線を落とし、さっきまで彼女を握っていた自分の右手を見つめた。
手のひらに、彼女の体温と、柔らかい感触がまだ確かに残っている。
自分の胸の奥の深い場所から、ただの感謝や幼馴染への執着とは全く違う、温かくて愛おしい感情がジワジワと溢れ出してくる感覚を覚えた。
これ以上考えれば、自分の理性が本当にどうにかなってしまいそうで。
瑞樹はその感情にそっと心の蓋をすると、夜の街を背に、自分の帰るべき場所へと歩き始めた。




