第12話 嫉妬(2)
朱音の下着を買いに行った日の夜。
そのお披露目会は、瑞樹の予想よりもずっと早く、そして突然訪れた。
まさかとは思ったが、その日のうちに来るとは。
時刻は、夜の十一時を過ぎた頃。
窓の外からは、昼間の熱を微かに残した夏の夜風が吹き込み、薄く開けたカーテンを静かに揺らしている。瑞樹は恒例となっている結衣とのチャットを楽しもうと、自室のデスクでPCの電源を入れたところだった。
コンコン、と。
控えめだが、確かな意思を持ったノックの音が部屋に響いた。
「……どうぞ」
ガチャリとドアが開き、入ってきたのは朱音だった。
薄手の白いシルクのパジャマに身を包んだ彼女は、部屋の薄暗さの中でもわかるほど、その純白が霞むくらいに頬を真っ赤に染めていた。
普段の自信に満ちた大人びた表情はどこにもなく、まるで初めて恋をした中学生のように、もじもじと落ち着きなく視線を泳がせている。
その表情と雰囲気を見て、瑞樹は「まさか」と生唾を飲み込んだ。
「……見せに、来た」
朱音は瑞樹と視線を合わせず、俯き加減に、消え入りそうな声でそう言った。
「お、おう……早いな……」
なんだろう、この息の詰まるような甘い雰囲気は。
これまで、復讐の対象として彼女たちの下着どころか、裸を見たって一切何も思わない絶対の自信があったのに。
こんなにも異常なほど照れて、顔を真っ赤にしている等身大の城ヶ崎朱音が、これから自分の前で服を脱ぐと思うと、瑞樹まで変に緊張して、心臓の鼓動が早くなってしまう。
朱音はゆっくりと、震える指先をパジャマの第一ボタンに掛けた。
「……ち、ちょっと待て」
瑞樹は、たまらず土壇場で制止した。
朱音はビクッと肩を揺らし、不安そうに潤んだ瞳を震わせて瑞樹を見つめ上げてくる。
瑞樹は椅子から立ち上がり、朱音の目の前まで近寄ると、トンっとその華奢な両肩に手を置いた。
「無理するな。……恥ずかしいんだろ?」
朱音は、ブルブルと勢いよく首を横に振る。
「嘘だな。震えてる」
瑞樹は、朱音の両手をそっと包み込むように握った。
微かにだが、その小さくて白い手は、小刻みに震えていた。
「これは……その……違うの。恥ずかしいんじゃ、ないの」
「違くないだろ。そんなに震えてるのに」
「ううん。違う。……怖いとか、恥ずかしいんじゃなくて……」
朱音はギュッと瑞樹の手を握り返し、涙ぐんだ瞳で瑞樹を真っ直ぐに見つめた。
「瑞樹くんに選んでもらった下着……絶対見て欲しいんだけど。もし見て、瑞樹くんに似合ってないって言われたら……嫌われちゃったらどうしようって思ったら、悲しくて……不安で……」
それはまるで、等身大の恋する乙女の、切実な悲鳴だった。
――ああ、わかっている。
朱音は、本来こういう子なのだ。
遊からも聞いていた。朱音は、一度好きになったら周りが見えなくなるくらい、一直線に頑張ってしまう子だと。
瑞樹がずっと見てきた、狂気に満ちた復讐の標的という歪んだ認識とは違う。本来の城ヶ崎朱音という女の子は、こんなにも純粋で、ひたむきで、不器用なほど恋に一直線な子なのだ。
悲しませたくはない。
かと言って、中途半端な期待もさせたくない。
だけど。
結衣が好きだ。
結衣と一緒に生きると、彼女の小説を最後まで読むと、あの日誓ったのだから。
過度な期待を持たせることは、裏切られた時にどれほどの絶望に変わるか、瑞樹は自分が一番よく知っている。
だから――ここで突き放すべきだ。
でも――今の瑞樹には、目の前で必死に恋をする彼女の心を、無下に殺すことなんて出来なかった。
どれだけ中途半端なことだとわかっていても、出来なかった。
「……俺が、そんなこと言うわけないだろ? それに、朱音に一番似合うものを俺が選んだんだ。俺の目に狂いがなかったって、俺自身が証明したい。……ほら、せっかく買ったんだ。俺に見せて?」
我ながら変態じみた言い訳の台詞だとは思ったが、これが今の朱音を一番安心させられる言葉だと自信があった。そして、その優しさが、結果的に彼女を深く傷つけることになるのも、わかっていた。
朱音は相変わらず恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、ホッとしたように大きく頷いてみせた。
ゆっくりと、パジャマのボタンを上から外していく。
たらりとはだけた襟元の隙間から、朱音の透き通るような白い肌が露出していく。
全てのボタンを外し終わった朱音は、そのままパジャマのズボンを膝まで下ろした。
細くて柔らかそうな太ももが露わになり、朱音はパジャマの前をそっと両手で開いて、その全てを瑞樹の前に曝け出した。
「ど、どう……?」
息を呑んだ。
長い金色の髪が、パステルピンクの繊細なレースのカップに重なり、少女のような可愛さと、朱音本来の大人っぽさの完璧なコントラストを生み出している。
ギャップとはまさにこれだ、と瑞樹は確信した。
可愛すぎる下着を身に纏う、誰もが振り返る可憐な少女。
その姿は、異国のお姫様をも思わせるような、息を呑むほどの美しい佇まいだった。
まるで、最初から朱音のために作られた専用の下着のようだった。
「……すごい、似合ってる。やっぱり可愛いな。俺は、すごくいいと思うぞ」
「ほ、ほんと!? 良かったぁ……っ!」
朱音は心底嬉しそうに目を細め、胸の前で両手をギュッと握りしめた。
その純粋に恋を喜ぶ表情と仕草を見て、瑞樹の胸がチクリと痛む。
この笑顔の奥にある彼女のひたむきな気持ちに、絶対に応えることは出来ないのに。
瑞樹は、その気持ちをより大きくしようとしている。
酷い。情けない。
やっぱりこんな残酷な優しさは、ダメだと思う。
「……なぁ、朱音……」
はっきりと、終わらせなければならない。
瑞樹が口を開きかけた、その時。
「大丈夫だよ」
もうこういうのはやめにしよう。
そう言おうとした瑞樹の言葉は、朱音に静かに遮られた。
そして彼女は、少しだけ怒った様に、けれどどこまでも優しい瞳で瑞樹を見つめ返した。
「瑞樹くんが、結衣さんをすごく好きなのも。あたしに対して申し訳ないって罪悪感を持ってるのも、全部わかってる。……でもね、瑞樹くん」
朱音は、パジャマのボタンをそっと直しながら、凛とした声で紡いだ。
「あたしは、あたしがやりたいからやってるの。瑞樹くんが好きだから、振り向かせたいから、頑張ってるの。……だから瑞樹くんは、ありのままであたしに接して欲しいな。変に気を遣われたり、腫れ物みたいに距離を取られる方が……あたしは、ずっとやだ」
朱音は、強い意志を持ってそう言い切った。
「……朱音……」
「叶わない恋に全力で立ち向かうのも、意外と楽しいよ? それにほら、最初から諦めてたらダメじゃん。全力でぶつからないと、ワンチャンも狙えないし! ……なので、あたしはあたしの好きなようにやります! 覚悟しててね!」
パッと、勢いよく頭を下げてお辞儀をする朱音。
そのあまりにも潔く、強がりで、健気な姿に、瑞樹もつられて深く頭を下げる。
「わ、わかりました……!」
「ふふふっ」
「ははっ……」
二人は頭を上げ、堪らず吹き出した。
朱音は、すごい。
支配して、壊してやろうと思っていた幼馴染は、やっぱり自分が思っていたより、ずっとずっと普通で、真っ直ぐで、強い女の子だった。
***
朱音が自分の部屋に戻り、瑞樹の部屋にまた夜の静寂が訪れた。
瑞樹はつけっぱなしで放置されたPCのモニターの前に座り、チャットアプリを立ち上げる。
フレンドリストに唯一名前がある『ころも』のアカウントが、緑色のオンライン表示になっていることを確認した瑞樹は、安堵の息を吐きながらキーボードを素早く叩いた。
『おつかれー』
『おっつー瑞樹くん』
返事は十秒と経たずにすぐに来た。このレスポンスの速さは、もはや達人の域に達していると言ってもいい。
『さっき速報出たけど、見た?』
結衣が連続で送ってきた。
さっきまで朱音の下着姿に圧倒されていたから、何の話か全くわからない。
『見てない。何の速報?』
『死家の作者さんの別の作品がまたアニメ化するんだけど、来月から放送だって』
死家とは、『あいシてるHOUSE』の略称だ。瑞樹が好き好んで観ていたアニメで、残酷で狂気的で、人を選ぶ作品。
結衣と出会ってすぐ、全話を一緒に観たのも記憶に新しい。
そんな作者の過去の別作品が、今回新たにアニメ化するらしい。
『ほー! それは楽しみ。絶対観なきゃな』
『今回も土曜の深夜だから、一緒に観たい』
『オッケー。じゃあ一話からリアタイだな』
『やった。これで来月から、毎週土曜日は瑞樹くんのご飯が食べれる』
『おい、欲望の心の声を文字にするな。結衣はもう自分で作れるだろ』
結衣はいつの間にか、立派に自炊が出来るようになったのだ。出会った当初は、パスタを茹でてとお願いしたら、水を入れずにレンジに入れようとしたあの結衣が、だ。
『作れるけど、私は瑞樹くんの作ったご飯が食べたいって言ってるの』
「はぁ……」と、瑞樹は思わず幸せなため息を吐いた。
こういうことを真っ直ぐに言われると、なんだかんだで作ってあげたくなる。瑞樹は元来、面倒見が良いのだ。頼られたりお願いされたら、その期待に応えてあげたくなる。
ましてや相手は、自分に生きる理由をくれた水橋結衣なのだから。
『あ、今ため息ついたでしょ』
まるで見ているかのような絶妙なタイミングで、結衣から送られてくる。
『エスパーか』
『なんかそんな気がしたんだー。「はぁ、仕方ないなー結衣のために作ってやるかー、結衣に会えて嬉しいしー」って感じがした』
『……エスパーだ』
『会いたいって、思ってくれてるんだ?』
と、急に結衣から、なんとも胸がキュッと締め付けられるような直球の返信が来た。
瑞樹の鼓動が、一気に跳ね上がる。
『そりゃ、まあ』
送ってから、なんでこんなぶっきらぼうにカッコつけて返してしまったのかと、瑞樹は激しく後悔した。
しかし、あまり素直にデレた反応をするのも、いかがなものか。
結衣が好きだ。
でも結衣は、あの夜「一緒に死ぬ」と言ってくれたが、それが恋愛的な好意なのかはハッキリとはわからない。
一方的な好意の押し付けは、受け手を疲れさせてしまう。
朱音からの強烈な好意を受け続けている瑞樹は、自分の経験を元にそんな冷静な結論を出していた。
『ふーん』
なんだそれは。
結衣のこの「ふーん」が、チャットでもリアルで会っていても、実はどんな意味合いを含んでいるのかが、瑞樹には全くわからない。
表情や声のトーンが毎回違うのはわかるが、何か深い感情や女の子特有の思惑みたいのが含まれている気がしてならないのだ。
そして今は、確実に怒ってる気がする。
無愛想に返したからだ。
文字だけのやり取りは、本当に難しい。
『怒ってる?』
『怒ってる』
当たった。
でも嬉しくない。怒らせてしまった。
「ごめん」と打とうとしたが、具体的に何に対して謝るのか自分でもわからない。そういう適当な謝罪を、結衣は一番嫌う。
どうするか。
そうやってモニターの前でしばらく頭を抱えて悩んでいたら、ポン、と結衣の方からメッセージが送られてきた。
『明日、エンカしよ』
そのたった一言の短いメッセージが。
瑞樹の胸の奥を、どこまでも温かく、優しく満たしていった。




